幸福指数の降る街

幸福指数の降る街

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第一章 沈黙地区の特命

私の世界は、数値で構成されていた。気温、湿度、株価、そして人々の幸福度。中央都市管理局・幸福度調査課に所属する水無月奏(みなづき かなで)にとって、数字は嘘をつかない絶対的な真理だった。ここアークシティでは、市民が手首に装着したバイタルセンサーから発信される複合生体情報に基づき、リアルタイムで幸福度が算出される。その平均値が、地区ごとに割り当てられる公共サービスの質を決定する。高い幸福度は安定したインフラを、低い幸福度は計画的な供給制限を意味した。それは都市を効率的に維持するための、最も合理的で公平なシステムだと、私は信じて疑わなかった。

その日、私は課長室に呼び出された。分厚い防音ガラスの向こうには、いつも通りの整然とした都市のパノラマが広がっている。

「水無月君、君に特命だ」

上司の乾いた声が、室内の過剰な静寂に響く。モニターに映し出されたのは、アークシティの地区別幸福度マップ。ほとんどが暖色系の明るい光を放つ中、南西の端に、インクを零したような黒い染みが一つだけ存在した。第七地区、通称「沈黙地区」。

「ここの幸福度を、一ヶ月で基準値まで引き上げてもらいたい。来期から大規模な再開発計画が予定されている」

第七地区。そこは、システムの導入以来、一度も基準値を満たしたことのない唯一の場所だった。センサーの集団故障が疑われるほど、その数値は絶望的に低い。電力は一日の半分も供給されず、水道は茶色い水が混じり、通信は常に不安定。エリートコースを歩んできた私にとって、それはキャリアの汚点とも言える場所への左遷宣告に等しかった。

しかし、私の胸をよぎったのは屈辱ではなく、むしろ冷たい高揚感だった。誰も成し遂げられなかったことを、私がやる。この非合理的な染みを、私の手で正常な数値に戻してみせる。

「承知いたしました。必ず、ご期待に応えます」

私は無表情にそう答え、深く頭を下げた。モニターの黒い染みを見つめながら、私はまだ知らなかった。その沈黙の闇が、私の信じる世界のすべてを、根底から覆すことになるということを。

第二章 計器の振れない人々

第七地区に初めて足を踏み入れた瞬間、私は鼻をつく湿った土と錆の匂いに眉をひそめた。空は高層ビルに遮られ、街全体が薄暗い影の中に沈んでいる。点滅を繰り返す街灯、壁に亀裂の走った集合住宅、舗装が剥がれ、雑草が顔を出す歩道。まるで時間が止まったかのような風景だった。

人々は、私を遠巻きに眺めるだけで、誰も話しかけてはこない。彼らの手首のセンサーは、一様に低い数値を示している。だが、その表情はデータが示すような「不幸」とは少し違って見えた。無気力というよりは、諦念。あるいは、何かを頑なに拒絶しているような、静かな強ささえ感じられた。

私はマニュアル通り、行動を開始した。仮設のカウンセリングルームを設置し、栄養バランスの取れた配給食を提供し、最新のVRエンターテイメント機器を持ち込んだ。しかし、人々の反応は鈍く、幸福度のグラフは微動だにしなかった。私の介入は、凪いだ水面に石を投げるようなもので、小さな波紋はすぐに消え、元の静寂に戻ってしまう。

焦りが募り始めた頃、私は一人の老婆と出会った。千代と名乗るその老婆は、集合住宅の前の小さな縁側で、いつも静かにお茶を飲んでいた。彼女の周りには、どこから集めてきたのか、壊れたからくり人形や古い玩具で遊ぶ子供たちが集まっていた。

「管理局の方かい」

千代は、私に気づくと、皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべた。

「ここの数値を上げに来たんだろう。ご苦労なこった」

彼女の声には、棘も皮肉もなかった。ただ、すべてを見透かしているような深みがあった。私は、なけなしのプライドで言い返す。

「皆さんの生活をより良くするためです。幸福度が上がれば、電気も水道も安定します」

「『幸福』ねえ……」

千代は湯呑みの中の茶葉を眺めながら、ぽつりと言った。

「あんたさんの言う『幸福』と、あたしたちの『幸福』は、少し違うのかもしれないねえ」

その言葉の意味が、私には理解できなかった。幸福に種類などあるものか。それは誰もが求める普遍的な価値のはずだ。私は苛立ちを覚えながらも、千代と話す時間を増やしていった。彼女は、この街の昔話を語ってくれた。システムが導入される前、ここには小さな商店街があり、夏には祭りがあり、家々の窓からはいつも笑い声が聞こえていたという。それは、私の知らない、数値化される以前の豊かさの記憶だった。私は千代や子供たちと過ごすうちに、自分の手首のセンサーが示す数値と、実際に心で感じるものとの間に、奇妙なズレが生じていることに気づき始めていた。

第三章 日記帳の真実

調査は行き詰まっていた。何をしても第七地区の幸福度は上がらない。苛立ちと無力感に苛まれていた私は、ある仮説に行き着いた。地区全体のセンサーが、未知の電波障害か何かで機能不全に陥っているのではないか。私はそれを証明するため、地区の古い資料を漁り始めた。

地区の公民館の書庫、その一番奥で、私は埃をかぶった一冊の分厚い日記帳を見つけた。持ち主は、タナカ・ユウイチロウという男性。何気なくページをめくった私の目は、ある記述に釘付けになった。

『アークシティ幸福度測定システム、基本設計完了。私は、このシステムが人々の暮らしを豊かにすると信じている。だが、一抹の不安も拭えない。もし、このシステムが人の心の多様性を無視し、一つの価値観を押し付ける道具になったとしたら……』

心臓が大きく脈打った。タナカ・ユウイチロウ。その名前は、私が管理局の研修で学んだ、システムの設計者の一人と同じだった。そして、日記を読み進めるうちに、私は衝撃の事実に辿り着く。彼は、千代の亡き夫だったのだ。

日記には、彼の葛藤が克明に綴られていた。彼は、システムが人のささやかな喜び――例えば、雨音を聞く静けさ、隣人と交わす何気ない会話、夕焼けの美しさに心を動かされる瞬間――を「非生産的」なものとして切り捨てる未来を恐れていた。そして、彼は最後の抵抗を試みた。

『せめて、私の愛する妻が暮らすこの街だけでも。システムが検知できない『幸福』の聖域を、私は残したい』

彼は、第七地区のエリアコードに、特殊なアルゴリズムを仕組んでいたのだ。それは、管理局が定義する「幸福」の指標とは異なる、穏やかで静かな心の状態を検知すると、あえて幸福度を「ゼロ」として送信する、一種の隠しコードだった。第七地区の幸福度が低いのではない。彼らの幸福は、あまりに静かで、穏やかで、個人的なものだったために、システムに「測定不能」と判断されていたのだ。

彼らは不幸なのではなく、システムの物差しから自由だったのだ。

再開発計画の真の目的は、このシステムの唯一の「バグ」であり「聖域」である第七地区を更地に変え、システムの完全性を証明することだった。私が信じてきた正義、効率、合理性。そのすべてが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。私の足元が、ぐらりと揺れた。

第四章 水無月奏の選択

報告書の提出期限が、翌日に迫っていた。私の手元には二つの未来があった。一つは、真実を報告し、システムの欠陥を明るみに出すこと。そうすれば、私は評価され、キャリアは安泰だろう。しかし、第七地区は再開発の名の下に破壊され、人々のかけがえのない日常は永遠に失われる。

もう一つは、この真実を胸に秘めること。

私は一晩中、眠れずに考え続けた。窓の外では、第七地区の頼りない街灯が、闇の中で静かに瞬いている。あの光の下で、千代は眠っているだろうか。子供たちは、どんな夢を見ているだろうか。私の脳裏に、千代の言葉が蘇る。『あんたさんの言う『幸福』と、あたしたちの『幸福』は、少し違うのかもしれないねえ』

夜が明け、空が白み始めた頃、私は決心した。

パソコンに向かい、報告書を作成する。指が、これまで打ち込んできたどんなデータよりも、重く感じられた。

『報告書:第七地区における幸福度向上施策について』

『結論:当地区における幸福度の向上は、現状の施策では不可能と判断。原因は、地区住民の特異な精神構造によるものと推測されるが、詳細は不明。測定システムの根本的欠陥の可能性も否定できないため、再開発計画は凍結し、長期的な観察を推奨する』

それは、私のキャリアを終わらせるに等しい、曖昧で、無能な報告書だった。しかし、一行一行を打ち込むたびに、私の心は不思議と軽くなっていった。システムの奴隷ではなく、一人の人間としての、私の最初の選択だった。

報告書を提出した日、私は辞表も共に提出した。

数ヶ月後。

小さなボストンバッグ一つだけを持った私が第七地区を訪れると、再開発計画が凍結された街は、以前と何も変わらない姿でそこにあった。集合住宅の前の縁側には、千代が座っていた。私に気づくと、彼女は何も言わずに、隣の座布団をぽんぽんと叩いた。

差し出された湯呑みから、優しい湯気が立ち上る。水道の出は相変わらず悪く、遠くで子供たちの声が聞こえる。私の手首にはもう、冷たいセンサーはない。

「おかえり」

千代が、皺だらけの笑顔で言った。

私は、数値では決して測ることのできない温かい液体が、頬を伝うのを感じていた。これが幸福かどうかなんて、もうどうでもよかった。ただ、私は今、ここにいる。それだけで、十分だった。街には、幸福指数の代わりに、穏やかな夕陽の光が静かに降り注いでいた。

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