無彩色のソラリス
第一章 刻まれた悲鳴
俺の腕に、また新しい傷が生まれた。皮膚が内側から裂け、ガラスの破片を押し込まれるような鋭い痛みが走る。路地裏の湿ったコンクリートに背を預け、カイは息を殺した。これは俺の痛みじゃない。都市のどこかで、社会から「不要」の烙印を押された誰かが、世界から消されまいと上げている声なき悲鳴だ。俺はその悲鳴を、こうして具体的な「傷」として体に受け止める。癒えることのない聖痕のように、絶望の数だけ俺の体は蝕まれていく。
街は今日も「浄化」の光に満ち、美しく輝いている。人々は、隣人の輪郭が昨日より少しだけ透けていることに気づいても、「光に近づいているのね」と微笑み合う。存在が希薄になり、やがて完全に消滅すること――それがこの世界では「浄化」と呼ばれ、至上の美徳とされていた。貢献しない者、邪魔な者は、音もなく、記憶からも消えていく。世界はそうやって透明な秩序を保っていた。
だが、無数に刻まれた傷の中に、一つだけ異質な痛みがある。不意に、全身の骨が内側から砕け散るような激痛が、意識を白く塗りつぶす。それは、かつて親友のアキが発していた痛みに酷似していた。彼が失踪する前夜、俺の腕を掴んだ彼の指は、まるで存在しないかのように冷たかった。彼は、無色透明のガラスでできた小さな容器を俺に握らせ、こう言ったのだ。
「カイ、お前がこれを満たす時、真実の『色』が見えるだろう」
その言葉を残し、アキは消えた。彼が発していたあの絶望的な痛みだけを、俺の体に残して。
第二章 涙の色
アキの痛みの残滓を追うことが、俺の全てになった。手がかりは、彼が遺した『涙の容器』。透明化していく人々が、存在を失う間際に流す最後の涙。それだけが、この世界で唯一、失われた感情を「色」として留めることができた。
公園のベンチで、輪郭が陽炎のように揺らめく老婆を見つけた。彼女の瞳からこぼれ落ちた一滴を容器で受け止めると、それは彼女が生涯で最も愛したという、夕焼けの橙色に染まった。途端に、俺の右目の視界が白く霞む。人々が「美しい」と讃える世界の色彩が、どこか油絵の具のように、けばけばしく不自然に見え始めた。
廃工場の片隅で、錆びた鉄の匂いを纏う青年から、絶望に染まった赤黒い涙を受け取った。左目の視力もまた、大きく奪われた。だが、容器の中で混じり合うことなく渦巻く二つの色は、まるで星図のように、微かな光の筋を描いていた。その光は、アキが放つあの砕けるような痛みが強まる方向を、確かに示していた。彼らの悲しみが、俺の道標だった。視力を失うたびに、俺は真実に近づいていた。
第三章 再会、そして虚構の崩壊
涙の地図が示したのは、都市の心臓部に聳え立つ中央管理局タワーの最上階だった。「社会浄化システム」を司る、神の領域。そこに、彼はいた。
体のほとんどが透明な光の粒子と化し、無数のケーブルに繋がれたアキが、ガラス張りの空間の中央に静かに浮かんでいた。彼はこの残酷なシステムの「監視者」となっていた。
「アキッ!」
俺は叫んだ。ガラスを叩き、怒りと悲しみをぶつける。
「なぜだ!お前も苦しんでいたじゃないか!なぜこんな……!」
アキの姿が、ゆっくりとこちらを向いた。彼の声は、機械を通したように無機質だったが、その奥にかすかな哀しみが響いていた。
「俺は負けたんだ、カイ。このシステムに抗い、そして取り込まれた。だが、負けたからこそ見えた。この世界の『美しさ』は、システムが作り出した巨大な虚構だ。人々が見ているのは、真実を覆い隠すための偽りの『色』なんだよ」
彼の言葉が、雷のように俺を撃った。
「お前の能力は……俺が願ってしまったものだ。俺の絶望がこのシステムと接続した瞬間、お前に呪いをかけた。声を聞き、痛みを負う呪いを。だがカイ、それは祝福だったんだ」
アキの輪郭から、最後の一滴がこぼれ落ちた。それは、彼と二人で見た、夜明け前の空のような、深く、そしてどこまでも優しい蒼色だった。俺が差し出した容器に、その涙が吸い込まれていく。
第四章 声なき光の脈動
容器が、満たされた。
その瞬間、俺の世界から、すべての「色」が消え失せた。光も、闇も、形も。完全な無が訪れる。だが、それは絶望ではなかった。
永遠に続くかと思われた暗闇の中で、ふと、何かが瞬いた。最初は一つ、また一つと。やがて無数の、星屑のような微弱な光の点が、俺の「視界」に現れ始めた。それらは街を形作り、ビルを編み上げ、人々の中を巡る生命のエネルギーのように、荘厳なリズムで脈打っていた。
「透明化」された人々だった。消滅したのではない。彼らは存在の形を変えられ、この虚構の世界を維持するための「光」のエネルギー源として、システムに組み込まれていたのだ。
『見えたか、カイ』
アキの声が、脳内に直接響く。
『これが、この世界の本当の色だ。虚飾の色彩じゃない。一つ一つの魂が放つ、存在そのものの光だ。お前は視力を失い、初めて真実を見たんだ』
もう、アキの姿は見えない。だが、無数の光の中でもひときわ強く、優しく脈打つ蒼い光が、彼のものであることは分かった。
カイの瞳にはもう何も映らない。しかし彼は、涙の容器を強く握りしめ、誰よりも鮮明に、この世界に満ちる声なき光たちの、その魂の脈動を見ていた。彼の戦いは、今、始まったばかりだった。