第1章: 編集室の屠殺者
本日、母の涙を削除した。追加料金は三千円。
ログを指先で弾く。老婆の頬を伝う銀色の雫が、最初から存在しなかったかのように消滅する。モニターの中、葬儀会場の遺族たちが安堵の息を漏らす様が見える。湿っぽい別れなど、今の時代には流行らない。
「記憶修復局」地下三階、第零編集室。
室温摂氏十八度。サーバーの排熱と、死体の腐敗を遅らせるホルマリンの匂いが鼻腔の奥にへばりつく。私はカイ。死者の脳から抽出された生涯の記録データ――ライフログ――にメスを入れる、記憶の美容整形外科医だ。
「カイ、次の検体だ。急ぎで頼む」
上司が放った薄汚れた記憶素子をコンソールに嵌め込む。空中にホログラムが展開される。
依頼主、エナ。享年十七。死因、飛び降り自殺。
遺族の要望欄には『美しく、清らかに』という定型文ではなく、異質な文字列が刻まれていた。
『私の記憶を、一秒たりとも編集せずに葬式で流してほしい』
指が止まる。
システムエラーか。この国で死者のログは「公的記録」として浄化される義務がある。DVの痕跡は愛情深い抱擁へ、借金の苦悩は清貧な生活へ。それが「礼儀」だ。
ノイズの走るエナの生データに触れる。
冷たい。
通常の体温フィードバックではない。氷柱を素手で握りしめたような鋭利な拒絶が、神経を突き刺す。
画面の向こう、少女がカメラを見つめている。いや、これは彼女の網膜が捉えた最期の光景だ。屋上のフェンス。強風に煽られる黒髪。下界に広がるネオンの海。
彼女は震えていた。恐怖で、ではない。怒りで。
視界の端、警告のポップアップが明滅する。
『削除推奨:反社会的思想』
無意識に「削除」へ伸びた指を、空中で止める。震えが収まらない。空調のせいではない。彼女の視線が、モニター越しに私の眼球を焼き尽くそうとしていた。
「おい、どうしたカイ。手が止まってるぞ」
上司の声が遠い。乾いた唇を舐める。
これはバグではない。遺書だ。
第2章: ノイズの向こう側
エナの記憶へダイブする。
視界がホワイトアウトし、雪の降る廃工場へ。感覚共有率百パーセント。頬を切り裂く寒風の痛みまでが鮮明だ。
錆びついたドラム缶の陰。肋骨を内側から殴りつける心臓の音がうるさい。
視線の先、高級スーツの男たち。中心にいるのは現職の大臣。足元には札束の入ったケースではなく、血を流して動かないジャーナリストが転がっている。
「処理しろ」
大臣が短く命じる。乾いた発砲音。マズルフラッシュが網膜を焼く。
エナが息を呑む音が、鼓膜で爆発した。彼女は目撃者だったのだ。
シーンが飛ぶ。
無機質な取調室。向かいに座る男は警察ではない。エナの父親だ。
「いいかエナ、お前は病気なんだ」
爬虫類のような冷たさで、父は娘の手を握る。
「あれは幻覚だ。お前は精神を病んでいて、可哀想な妄想を見ている」
エナの視界が涙で滲む。悔しさで奥歯が砕けそうだ。
「違う……私は見た……」
「黙れ!」
平手打ち。頬に走る熱。鉄の味が口中に広がる。
父親はため息をつき、どこかへ電話をかけた。「ああ、娘のログにエラーがある。修正を頼みたい」
接続切断。
現実の編集室に戻り、嘔吐した。胃液が床のリノリウムを汚す。
手元のオーダーシートを見る。依頼主は、あの父親。
『要望:精神疾患による悲劇的な死として編集すること。幻覚のシーンは全削除。家族愛のシーンを合成・追加』
これは編集ではない。歴史の抹殺だ。
私の仕事は、遺族の悲しみを癒やすためにあるはずだった。汚いものを隠し、綺麗な嘘で包むことが優しさだと信じていた。
だが、モニターの中のエナは叫んでいる。声にならない絶叫が、波形データとなって赤く脈打つ。
キーボードに置いた手が、鉛のように重い。
いつもなら数秒で終わる「削除」のコマンドが入力できない。
右手が勝手に痙攣する。反対の手で押さえつける。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
「クソッ……」
美しい嘘を作るたびに、私は何かを殺してきたのか。
第3章: 崩壊する聖域
納期が迫る。エナの幼少期のメモリ領域へ逃げ込んだ。生々しい汚職現場から目を背け、使える「素材」を探すために。
陽光あふれる公園。
ブランコ、砂場、溶けかけのアイスクリーム。
エナの視線の先、ベンチに座る一人の少年。膝を抱え、泣いている。
五歳くらいの、私だ。
心臓が早鐘を打つ。なぜ彼女の記憶に私が。
記憶の中の私は、近づいてきたエナに顔を上げる。
「どうしたの?」
「パパが……怖いんだ」
少年の私が袖をまくり上げる。無数の痣。煙草の火を押し付けられた火傷の跡。
脳髄が痺れた。
違う。私の父は優しかったはずだ。
休日はキャッチボールをした。誕生日の映像には、いつも父の笑顔があった。私が記憶修復士になったのも、父の「美しい思い出」に救われたからだ。
震える手で、自分のプライベートクラウドにアクセスする。父との思い出のログを展開。
キャッチボールの映像。夕焼け。父の笑顔。
レイヤー構造を解析する。
映像の深層、メタデータの日付がおかしい。光源のベクトルが不自然だ。
決定的な痕跡を見つける。
『編集者ID: 001 —— 政府広報局』
父の死後、私の記憶は「国にとって都合の良い孤児」として育成するために改竄されていた。
虐待の事実は消され、聖人のような父親像が植え付けられていた。
私が信じていた愛も、人格も、この職業への誇りも。
すべては誰かが書いた三流のシナリオだった。
「あ、あぁ……」
絶叫と共にコンソールを殴りつける。モニターに亀裂が走り、父の笑顔がノイズに飲まれて歪む。
警報。セキュリティドローンが編集室になだれ込む。
「カイ修復士、異常行動を検知。直ちに業務に戻りなさい」
「ふざけるな!」
エナの記憶素子を掴み取り、部屋を飛び出す。
廊下を駆ける背後で、IDカードが無効化される音が響く。口座凍結の通知が網膜に浮かぶ。
ライセンス剥奪。指名手配。
一瞬にして、エリート技術者から社会のゴミへと転落した。
裏口から路地裏へ。
冷たい雨。
ゴミ捨て場の腐臭と、濡れたアスファルトの匂い。
泥水の中にうずくまり、空を見上げる。
街頭ビジョンには、私の顔写真と『重度精神障害により逃走中』のテロップ。
皮肉にも、エナの父親が娘に用意したシナリオと同じだった。
第4章: 錆びたメスを研ぐ
線香の匂いで目が覚める。
廃材で組まれたバラック。天井の隙間から、汚染された灰色の空。
「うなされていたよ」
老婆が一人、奥で古い基板をはんだ付けしている。
顔を見て息を呑む。数年前、息子の戦死データを「名誉の負傷」に書き換えた、その母親だ。
「私の……こと、恨んでますか」
掠れた声で問う。彼女は手を止めず、背中を向けたまま答えた。
「綺麗な映像だったよ。息子は英雄のように笑って死んだことになっていた」
濁った義眼が私を射抜く。
「でもね、あの子は痛がりだった。注射一本で泣く子だった。あの映像のあの子は、私の知らない他人だ。私は……本当の息子の最期を抱きしめてやることもできない」
言葉が、空っぽになった胸に火を点ける。
美しい嘘は麻酔だ。痛みは消えるが傷は治らない。やがて壊死し、心を殺す。
ポケットを探る。エナの記憶素子は無事だ。
今日が葬儀。国葬クラスのセレモニー。会場は軍事レベルのファイアウォールで守られている。
「アンテナはあるか」
立ち上がる。足元がふらつく。
「旧式の、帯域制限を無視できるやつだ」
老婆は黙って、部屋の隅のガラクタの山を顎でしゃくった。
化石のような機材たち。
錆びたキーボードを叩き、配線を口で引きちぎり、即席のデバイスを組み上げる。
指先が熱い。
洗練されたタッチパネルではない。物理キーの重み。はんだの焦げる匂い。
泥水をすすり、カフェイン錠を噛み砕く。
画面に流れるコードは、今まで書いたどんな「美しい嘘」よりも汚く、乱雑で、そして力強い。
自分自身を取り戻すための、最初で最後のコーディング。
エナの叫びを、私の痛みを、世界に叩きつける。
準備完了まで、三十分。
第5章: 遺書は焼かれない
葬儀会場は、白一色だった。
数千本の白百合。参列する黒服の権力者たち。
巨大スクリーンには、エナの「編集済み」映像。ピアノの旋律に乗せ、彼女が花畑で微笑む。捏造された幸福。
私は空調ダクトの中にいた。
埃と油の匂い。膝が震えているが、迷いはない。
手元のデバイス、エンターキーに指をかける。
「上映開始だ」
キーを押し込んだ瞬間、会場の照明が落ちた。
ピアノの音が断末魔のようなノイズに変わり、スクリーンが赤く明滅する。
『パパ、やめて!』
大音量の悲鳴が、厳かな空気を切り裂く。
参列者たちが動揺し、ざわめきが波紋のように広がる。
映像が切り替わる。
花畑ではない。雪の降る廃工場。
銃声。血飛沫。
大臣の顔が大写しになり、冷酷な命令を下す声がスピーカーを震わせる。
「な、なんだこれは! 止めろ! 音を切れ!」
エナの父親が絶叫する。
もう止まらない。
流しているのは映像データではない。エナの脳が記録した「恐怖」と「痛み」の電気信号そのものを、会場のシステムに共振させている。
参列者たちが頭を抱え、嘔吐し始める。
彼らは今、エナになっている。
殺される恐怖。信じてもらえない絶望。
そして、それでも真実を残そうとした、灼けつくような意志。
ダクトの蓋が蹴破られ、治安部隊が突入してくる。
銃床で後頭部を殴られた。
視界が揺れる。床に押さえつけられ、肋骨が軋む。
口の中が血の味で満たされる。
だが、目はスクリーンに釘付けだった。
映像の最後。エナが屋上から飛び立つ瞬間。
彼女はカメラ――自分自身――に向かって、中指を立てていた。
そして、笑っていた。
美しく修正された笑顔ではない。
鼻水を垂らし、顔を歪め、それでも世界を呪い、愛そうとした、人間そのものの顔で。
会場はパニックに陥っていたが、私は見た。
呆然とスクリーンを見上げる数人の若者たちが、スマートフォンを取り出し、その「真実」を録画し始めているのを。
種火は撒かれた。
独房の壁は灰色。
窓はない。時間感覚もない。
社会的地位も、資産も、名前さえも失った。明日の朝には、私も「処理」される。
不思議と心は静かだった。
壁のシミを見つめる。それは、ただの汚れだ。何かの形に見立てる必要もない、現実の汚れ。
頬に、温かいものが伝う。
指で拭い、舌に乗せた。
しょっぱい。
追加料金などいらない。誰に見せるためでもない。
これは、私自身の涙だ。
この塩の味こそが、私が人間であるという、たった一つの修正不可能な真実だった。