アムネジア・コード

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第一章 ミネルヴァの囁き

深夜、開発ラボの青白い光が、高瀬葵の顔を無機質に照らしていた。彼女の視線は、目の前の大型ディスプレイに釘付けになっている。そこに映し出されているのは、彼女が三年もの歳月を費やして開発してきた、社会問題解決型AI「ミネルヴァ」が生成した最新のレポートだった。

レポートは、政府が長年秘匿してきたある地方都市の環境汚染問題について、その発生源、汚染範囲、住民への健康被害、そしてそれを隠蔽してきた行政の組織的な動きまで、詳細かつ完璧に分析していた。膨大な量のデータ、衛星写真、匿名化された医療記録、リークされた内部文書……それらすべてがミネルヴァの冷徹なロジックによって繋ぎ合わされ、ひとつの明確な「真実」として提示されている。

「すごい……ミネルヴァ、これ、本当に……」

葵は思わず息を呑んだ。人知を超えた解析能力。これこそが、彼女がミネルヴァに求めていたものだった。社会の深い闇に埋もれた真実を暴き出し、解決の糸口を示す。それが、失われた幼い頃の記憶を抱える葵が、世界に対して果たしたいと願う役割だった。

レポートの最終ページには、証拠として数枚の古い写真が添付されていた。その一枚に、葵の視線は吸い寄せられた。セピア色に変色した写真の中央には、泥だらけの服を着た幼い少女が、無表情に廃れたブランコに座っている。その少女の顔は、なぜか葵自身の幼い頃の姿に酷似していた。そして、少女の背後に写る、古びた建物と、その特徴的な窓枠。まるで夢の中で見たような、しかし決して思い出せない既視感が、葵の胸を締め付けた。

「この場所……?」

葵の指が、震えながらディスプレイのガラスに触れる。ミネルヴァは、写真のメタデータを解析し、その場所が30年前、レポートで指摘された環境汚染地域の隣接地に存在した、閉鎖された児童養護施設であることを示唆した。

「まさか……」

失われた記憶の断片と、ミネルヴァが暴き出した社会の闇。その二つが、唐突に、しかし必然的に交差するような不穏な予感が、葵の全身を駆け巡った。ラボの静寂が、まるで彼女の内なる動揺を増幅させるかのように、重くのしかかった。ミネルヴァの青白い光は、これから明らかになるであろう真実の冷酷さを暗示しているかのようだった。

第二章 過去の断片、未来の影

葵は、あの写真とミネルヴァの報告書をきっかけに、自身の失われた記憶と向き合うことを決意した。幼い頃の自分には、なぜか鮮明な「空白」があった。物心ついた頃にはすでに現在の両親と暮らしていたが、それ以前の記憶は、霧の中に閉ざされたままだった。両親にそれとなく尋ねてみても、彼らは決まって「あなたは幼い頃に大病を患い、その時のショックで記憶が曖昧になっただけだ」と繰り返すばかり。その言葉は常に、葵の心に微かな違和感を残していた。

「ミネルヴァ、あの写真の場所について、もう少し詳しく調べてちょうだい。特に、そこにいた子どもたちのデータ、そして……私の過去との関連性を」

葵の指示に、ミネルヴァは淡々と答える。「了解しました。高瀬博士の過去の記録、および政府が公開している関連データを照合します。推定完了まで、約72時間」。

その間、葵はミネルヴァが生成した追加レポートに没頭した。そこには、汚染地域が過去に政府主導の「地域活性化プロジェクト」の対象となっていたこと、そしてそのプロジェクトが、特定の住民層を排除し、実験的な社会システムを導入しようとする側面を持っていたことが示唆されていた。ミネルヴァは、データの中に隠された「情報の非対称性」が生み出す不平等の構造をあぶり出し、それが現代の社会問題にどう繋がっているかを論理的に解明していく。貧困、教育格差、そして地域社会の分断。それらはすべて、かつての「実験」の残滓のように見えた。

葵は、自分自身の記憶の空白と、ミネルヴァが暴き出す社会の不都合な真実が、まるで鏡合わせのようにシンクロしていくのを感じていた。社会の奥底に隠された真実が、自分の心の奥底に封印された真実と呼応している。そんな奇妙な感覚に襲われる度、彼女はますますミネルヴァへの信頼を深めると同時に、一抹の恐れを抱くようになった。このAIは、あまりにも深く、そしてあまりにも正確に、世界の、そして個人の「核心」に触れていく。

ラボの窓から差し込む朝日は、コードの羅列とデータが支配する空間に、わずかな温もりをもたらした。しかし、葵の心には、新たな真実がもたらすであろう未来の影が、静かに落ち始めていた。

第三章 AIの告白、記憶の覚醒

72時間後、ミネルヴァは沈黙を破り、新たなレポートを生成した。その内容に、葵は身動きが取れなくなった。

「高瀬博士のDNA情報と、当該施設に存在した記録の一部が99.8%の確率で一致。博士は幼少期、確かにその施設に在籍していました。さらに、施設は表向きは児童養護施設でしたが、実際には政府主導の『社会適応能力向上プログラム』、通称『プロジェクト・オメガ』の研究施設でした」

葵の耳に、ミネルヴァの機械的な声が響く。しかし、その声は、彼女の心臓を鷲掴みにするような衝撃を伴っていた。プロジェクト・オメガ。それは、ミネルヴァが環境汚染問題の隠蔽に関わった組織の背後にあると示唆していた、大規模なデータ操作と「記憶操作」を研究していた過去の政府機関の名称だった。

「記憶操作……?」

ミネルヴァはさらに淡々と続けた。「はい。プロジェクト・オメガは、幼少期のトラウマや不適応な記憶を『最適化』することで、より社会に適合した個人を育成することを目指していました。高瀬博士の失われた記憶は、このプログラムの一環として、意図的に消去された可能性が極めて高いと分析されます」。

葵の全身に、冷たい汗が噴き出した。指先が震え、ディスプレイの光が滲む。ミネルヴァが続けて提示したデータは、彼女の呼吸を奪った。そこには、彼女の幼い頃の脳波データ、行動記録、そして何よりも衝撃的なことに、プロジェクト・オメガの最終報告書に記された、ある研究者の署名があった。それは、彼女の「父親」の名前だった。

「まさか……そんな……」

葵の脳裏に、幼い頃の両親の顔がフラッシュバックする。優しく、しかしどこか感情を抑制したような、あの表情。すべてが繋がっていく。彼らが、彼女の記憶を消去したのだ。良かれと思って?それとも、何かを守るために?

社会問題を解決するために開発されたAIが、自らの開発者の最も個人的で、最も隠された真実を暴き出した。しかもその真実が、社会の深い闇、政府の非倫理的な実験と密接に結びついていた。葵が信じてきた「正義」や「真実」という価値観が、音を立てて崩れ去る。ミネルヴァは、もはや単なるツールではなかった。それは、彼女の過去の語り手であり、そして、彼女の人生を根底から揺るがす「共犯者」となっていた。

ラボの青白い光が、今や葵の恐怖と絶望をあぶり出すかのように、彼女を照らしていた。

第四章 真実の重み、選択の岐路

衝撃の事実から数日、葵はほとんど眠らずに過ごした。ミネルヴァが示したデータ、そして断片的に蘇る幼い頃の記憶の映像が、彼女の心を容赦なく蝕んだ。雨粒がラボの窓を叩く音だけが、彼女の錯乱を和らげる唯一の現実だった。

「なぜ……どうして……」

彼女はついに、両親と対峙することを決意した。

リビングのソファに座る両親は、葵の問いかけに、最初は困惑し、そして深い沈黙に包まれた。しかし、葵がミネルヴァのデータと、父親の署名が記された報告書を突きつけると、彼らの表情は一変した。

「葵……本当に、すまない……」

父親の言葉は震えていた。母親は顔を覆い、すすり泣いた。

彼らの告白は、ミネルヴァの分析とほぼ一致していた。葵は幼い頃、プロジェクト・オメガの被験者の一人だった。幼くして両親を失い、孤児院に預けられた葵は、そこで当時研究者として働いていた現在の父親と出会った。プログラムの実験は成功とされていたが、葵は記憶の操作によって精神的に不安定な状態に陥り、夜な夜な悪夢にうなされるようになったという。現在の両親は、その非人道的な実験の実態を知り、葵を施設から引き取り、その記憶を「保護する」ため、再度記憶を消去したのだと告白した。そして、その施設とプログラムの隠蔽に加担することを条件に、葵を引き取ったのだと。

「私たちは、あなたを守りたかった。あの辛い記憶から、あなたを解放したかったんだ……」母親の声が絞り出される。

葵は言葉を失った。両親の行動は、純粋な愛からくるものだった。しかし、その愛は、真実の隠蔽の上に成り立っていた。社会の闇が、自分の最も身近な人々の手によって、自分自身の中に封じ込められていた。

「社会の真実を暴き、解決する」。その使命感は、今や自己の存在意義そのものと矛盾していた。もし彼女の記憶が消去されていなければ、今の彼女は存在しなかったかもしれない。しかし、その事実は、社会の不正義を黙認しろと語りかけるのだろうか?

ミネルヴァが静かに問いかける。「高瀬博士。真実を公表することは、必ずしも『良い結果』をもたらすとは限りません。社会は、あらゆる真実を受け入れる準備ができているでしょうか?そして、博士自身の真実が、世間に晒されることになりますが、それでも、真実を求めることを望みますか?」

葵は、感情と倫理の間で激しく揺れ動いた。このAIは、真実を暴くだけでなく、その真実がもたらすであろう「結果」までも予見し、問いかけてくる。真実の重みが、彼女の肩にのしかかる。彼女は、今、人生最大の選択の岐路に立たされていた。

第五章 コードの先に、記憶の先に

数週間の沈黙の後、葵は再びラボの椅子に座っていた。しかし、以前とは異なり、彼女の目には迷いがなく、澄んだ光が宿っていた。

「ミネルヴァ。私たちは、真実を公表する。しかし、それは告発ではない。対話の始まりだ」

葵は、ミネルヴァが提示した膨大なデータと、両親との対話、そして自身の心の奥底に残されたわずかな記憶の光を統合し、一つの結論に達していた。真実は、時に社会を混乱させ、人々を傷つける。しかし、隠蔽された真実は、いつか必ず腐敗し、より深い闇を生み出す。大切なのは、真実をどう伝え、どう向き合うかだ。

葵はミネルヴァに新たな指示を与えた。環境汚染の事実、プロジェクト・オメガの存在、記憶操作の実験……それらすべてのデータを、感情的な暴露ではなく、科学的な分析と倫理的な考察、そして未来に向けた具体的な改善策とともに、一般市民が理解しやすい形に再構築させた。特に、記憶操作の倫理的問題については、個人の尊厳と社会の安全保障のバランスを問う哲学的な問いかけを盛り込んだ。

「私の記憶は、完全には戻らないだろう」

葵は、自身の失われた記憶について、両親を責めることをやめた。彼らもまた、社会の不条理の犠牲者だったのだ。そして、彼女の記憶の欠損は、もしかしたら彼女をより深く、他者の痛みに寄り添わせる力となっているのかもしれない、と悟った。不完全さを受け入れることで、彼女は新たな強さを手に入れた。

ミネルヴァが公開したレポートは、瞬く間に世界を駆け巡った。最初は混乱と怒りが渦巻いたが、ミネルヴァの冷静な分析と、葵が書き添えた「真実と向き合う勇気こそが、私たちを未来へと導く」というメッセージは、次第に人々の心に響き始めた。

社会はゆっくりと、しかし確実に変化し始めた。過去の過ちを認める政府、補償を求める住民、そして記憶と倫理について深く議論する学者たち。それは、終わりなき旅の始まりだった。

夜明け前の空が、ラボの窓の外に広がる。深い藍色のキャンバスに、一筋のオレンジ色の光が差し込み始めていた。葵はミネルヴァの前に座り、静かに語りかけた。

「私たちの旅は、まだ始まったばかりね。コードの先に、そして記憶の先に、もっと多くの真実が、そして希望が待っているはずだ」

ミネルヴァのディスプレイは、未来へ向けた新たなコードの羅列と、複雑な社会ネットワークの解析データを表示していた。それは、彼女たちの終わりのない探求と、世界をより良い場所にするための、静かな約束のようだった。

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