嘘の天秤

嘘の天秤

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第一章 無重力の日記

真鍋湊の日常は、重力との静かな闘いだ。世界は嘘で満ちており、その一つ一つが物理的な重さとなって彼の肩にのしかかる。テレビから流れる政治家の空虚な答弁は鉛の板のように背中に張り付き、SNSに溢れる見栄や偽りは砂袋となって首筋に食い込む。だから湊は、世界から耳を塞ぎ、人との交流を絶ち、古書の修復士としてインクと古い紙の匂いだけが満たすアパートの一室に引きこもっていた。ここでは、嘘の重力はほとんど働かない。

その静寂を破ったのは、アパートのドアを叩く乾いた音だった。ドアを開けると、雨に濡れたトレンチコート姿の若い女性が立っていた。彼女は、深々と頭を下げると、桐の箱を差し出した。

「古書修復士の、真鍋湊さんでいらっしゃいますね。母の日記の修復をお願いしたくて」

彼女は高遠美月と名乗った。一ヶ月前、歩道橋から転落して亡くなった著名な社会活動家、高遠咲の一人娘だった。警察は事故として処理したが、美月は納得できずにいるという。

「母は、何か巨大な悪と戦っていました。その手がかりが、この日記にあるはずなんです。でも、湿気でページが癒着してしまって……」

彼女の声は震えていた。その言葉が湊の肩にわずかな重みを加える。「巨大な悪」という部分に、母を英雄視したいという娘の願望、つまり小さな「嘘」が混じっていたからだ。

湊は黙って桐の箱を受け取り、作業台の上に置いた。ゆっくりと蓋を開けると、革装の古びた日記が現れる。特殊な薬品の匂いに混じって、微かにラベンダーの香りがした。湊は、指先が触れるのをためらった。他人の私的な記録に触れることは、無数の嘘に触れることと同義だ。覚悟を決めて、そっと日記の表紙に指を乗せた、その瞬間。

ふわり、と身体が浮き上がるような、奇妙な感覚に襲われた。

肩が、背中が、信じられないほど軽い。まるで長年背負い続けてきた重い荷物を、突然下ろしたかのような解放感。湊は息を呑んだ。これは、嘘が全くないという証だ。純度百パーセントの真実の塊。こんな感覚は、生まれてこの方一度も味わったことがなかった。

目の前の日記は、ただの記録媒体ではなかった。それは、この嘘に満ちた世界に存在するはずのない、「無重力」の奇跡だった。湊は、美月のまっすぐな瞳を見つめ返した。

「……お預かりします。必ず、読めるようにしてみせます」

その言葉を口にした時、湊はまだ知らなかった。この日記に記された真実が、彼自身が信じてきた「真実」そのものの価値を、根底から覆すことになるということを。

第二章 サイレント・ウェイトの足跡

日記の修復作業は、湊にとって瞑想に近い時間となった。特殊なヘラで癒着したページを一枚一枚、赤子の肌に触れるように剥がしていく。インクの滲みを補修し、破れた箇所を和紙で繕う。作業に没頭している間は、外の世界の嘘から解放された。そして何より、この日記自体が放つ清浄な「軽さ」が、湊の心身を癒していくようだった。

数日後、日記はついに読める状態になった。湊は、高遠咲が綴った真実の世界に足を踏み入れた。そこには、彼女が晩年に追いかけていた「サイレント・ウェイト」という社会現象についての調査記録が、克明に記されていた。

『原因不明の倦怠感、圧迫感、呼吸困難。現代社会に生きる多くの人々が、目に見えない重さに苦しんでいる。医師はそれをストレスやうつ病と診断するが、もっと根源的な何かがあるはずだ。私はそれを「サイレント・ウェイト(静かなる重荷)」と名付けた』

湊の心臓が大きく脈打った。彼女も、自分と同じだったのか。

湊は日記を手に、咲の足跡を辿ることにした。彼女が最後に接触していたという、NPO法人の代表を訪ねた。代表の男は、咲の死を悼み、彼女がいかに貧困問題に情熱を注いでいたかを熱弁した。だが、その言葉の端々が、ずしり、ずしりと湊の肩に重みを増していく。NPOの活動資金に関する不透明な部分、咲との意見の対立。男は巧みに嘘を織り交ぜながら、自己保身を図っていた。湊は、吐き気をこらえながら事務所を後にした。

次に、咲が支援していたというシングルマザーのコミュニティを訪れた。母親たちは口々に咲への感謝を述べた。「あの方のおかげで私たちは救われたんです」。その言葉は温かく、湊の心を打つはずだった。しかし、その言葉にも微細な、けれど確かな重みがあった。生活保護の不正受給、支援物資の横流し。彼女たちは、自分たちの小さな罪を隠すために、咲を聖女として祭り上げていた。善意の裏側に潜むエゴの重さが、湊の膝を軋ませる。

最後に、依頼主である高遠美月と再び会った。彼女は母の思い出を語った。

「母はいつも正しくて、強くて……私にとって太陽のような人でした」

その言葉は、ひときゆわ重かった。それは、娘が抱く理想の母親像という、愛情から生まれた嘘だった。湊は、美月の母への深い愛を感じると同時に、その嘘がもたらす重みに耐えなければならなかった。

街を歩けば、誰もが嘘をついている。自分を良く見せるための嘘。他人を傷つけないための嘘。利益を得るための嘘。そして、自分自身を騙すための嘘。その無数の嘘が、霧雨のように絶え間なく湊の身体に降り注ぎ、見えない鉛のコートとなって彼を地面に引きずり込もうとする。高遠咲も、この重力の中で生きていたのだ。彼女は、この息の詰まる世界で、一体何と戦っていたというのだろうか。日記の最後のページに、その答えは記されているのだろうか。湊は、重い足取りで自室への道を急いだ。

第三章 優しさという名の鉛

修復を終えた日記の最後の数ページに、湊は息を詰めて向き合った。そこには、高遠咲の苦悩と、彼女がたどり着いた恐るべき結論が、震えるような文字で記されていた。

『サイレント・ウェイトの正体。それは「嘘」だ。この世界に蔓延する嘘が、私たちのような特殊な体質の人間を蝕んでいく。だが、私が間違っていた。私が戦うべき相手は、社会の巨悪や、私利私欲にまみれた悪意の嘘ではなかった』

湊はページをめくる指が震えるのを感じた。

『最も重い重荷。それは、「善意の嘘」だ。人を思いやるがゆえの嘘。その場を丸く収めるための嘘。誰かを安心させるための優しい嘘。悪意のない、純粋な結晶のような嘘こそが、鉛のように私たちの魂に沈殿し、心臓を圧迫する。悪意の嘘には怒りや反発で対抗できる。だが、優しさでできた嘘は、ただ受け止めるしかない。拒否すれば、相手の心を深く傷つけてしまうから』

咲の日記は、彼女の最期の数日間の記録へと続いていた。体調を崩し、寝込むことが多くなった彼女を、娘の美月が献身的に看病していた様子が描かれている。

『美月が毎日、私のために食事を作ってくれる。「美味しい?」と聞く彼女に、私は「ええ、とても」と答える。本当は、食欲など全くないのに。私のこの嘘が、彼女を安心させるから。そして、彼女も私に嘘をつく。「お母さん、顔色がいいわ。すぐ元気になる」。その言葉が、どれほど重いか、彼女は知らない。彼女の優しさが、私の呼吸を止める』

湊は、はっと息を呑んだ。日記の最後のページは、乱れた文字でこう締めくくられていた。

『今日、美月が泣きながら私の手を握り、「大丈夫、絶対に大丈夫だから」と繰り返した。彼女の愛が、優しさが、私の身体を押し潰していく。もう、息ができない。ああ、美月。あなたのその優しい嘘が、私を殺す……』

それが、高遠咲の最後の言葉だった。

事故ではなかった。他殺でもない。彼女は、愛する娘の「優しさ」という名の鉛に押し潰され、心身の限界を超え、ふらりと歩道橋の柵を乗り越えてしまったのだ。

湊は、その場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、日記が手から滑り落ちる。なんていうことだ。嘘を憎み、真実こそが至高だと信じて生きてきた。しかし、世界で最も純粋な真実が記されたこの日記が暴いたのは、優しさや愛情こそが人を殺しうるという、絶望的な真実だった。

悪意のない嘘が、人を死に追いやる。この社会で生きていくことは、誰かを傷つけるか、自分が傷つくかの二択しかないというのか。

湊の価値観は、音を立てて砕け散った。窓の外では、街の喧騒が遠くに聞こえる。その一つ一つが、誰かを守るためにつかれた、優しい嘘の重みに聞こえた。

第四章 僕が背負う最初の嘘

数日後、湊は高遠美月を自室に招いた。部屋の中央には、完璧に修復された母の日記が置かれている。美月の目は、期待と不安に揺れていた。

「母の死の真相は、わかりましたか?」

湊は、彼女の顔をまっすぐに見ることができなかった。真実を告げるべきか。あなたの優しさが、お母様を殺したのだと。その真実は、彼女の人生を永遠に苛むだろう。それは、真実という名の、最も残酷な刃だ。

一方で、嘘をつけば、その重さを自分が一生背負うことになる。湊は、人生で初めて、嘘と真実の天秤の前で立ち尽くしていた。

彼はゆっくりと息を吸い込み、顔を上げた。そして、生まれて初めて、自らの意思で「嘘」を紡ぎ出した。

「お母様は、日記の中で巨大な汚職事件の核心に迫っていました。おそらく、真相に近づきすぎたために、事故に見せかけて口を封じられたのでしょう。彼女は最後まで、社会正義のために戦った、勇敢なジャーナリストでした」

その言葉を口にした瞬間、ずしり、と今までに感じたことのない種類の重みが、湊の両肩にのしかかった。それは冷たく、無機質な鉛の重みとは違った。ずっしりと重いのに、どこか温かい。まるで、生き物の体温を持つかのような、不思議な重さだった。

美月の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

「……そう、だったんですね。やっぱり、母は……。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

嗚咽する彼女の背中を、湊はただ黙って見つめていた。彼女の悲しみは、母への誇りへと昇華されていくだろう。この嘘が、彼女のこれからの人生を支える礎となる。そのために、この重さを背負う価値はある。湊は、そう確信した。

美月が帰った後、湊は一人、窓の外を眺めた。街の灯りが、まるで無数の嘘のように瞬いている。人々は皆、大小様々な嘘の重みを背負いながら、それでも誰かを思いやり、傷つけ合い、懸命に生きている。

完全な真実だけの、重力のない世界など、どこにも存在しないのだ。

湊は、自分の肩にかかる温かい重みを、そっと手で確かめた。それは、苦痛であると同時に、確かな「繋がり」の証のようにも感じられた。彼はもう、嘘の重力から逃げないだろう。この重さの意味を知ってしまったから。

世界は嘘で満ちている。しかし、その重さを引き受ける覚悟の中にこそ、人間が人間であることの、切なくも尊い真実が隠されているのかもしれない。

湊は、静かに夜の街を見つめながら、これから自分が背負っていくであろう、数え切れない嘘の重みに、思いを馳せていた。

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