サイレント・レコード

サイレント・レコード

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第一章 消去請負人

モニターの青白い光だけが、高橋健太の顔を無機質に照らし出していた。彼の仕事は、インターネットという無限の海に漂う、穢れた記憶の残骸を消し去ることだ。人々はそれを「デジタルタトゥーの除去」と呼ぶが、健太は内心、自らの仕事を「浄化作業」と称していた。彼の指先ひとつで、誰かの過ちや不名誉な過去は検索結果から消え、あたかも初めから存在しなかったかのように世界はクリーンになる。それが彼の正義であり、存在意義だった。

健太が所属するIT企業『クリーン・スレート』は、この分野のパイオニアだ。最新の技術と、時にはグレーな手法を駆使して、クライアントの輝かしい未来を守る。今日のターゲットは、飲酒運転で事故を起こした元アイドルの過去記事。健太は淡々と、しかし正確無比なタイピングで、関連キーワードを汚染し、検索アルゴリズムを欺いていく。数時間後、彼の名前を検索しても、表示されるのは当たり障りのない慈善活動のニュースばかりになった。また一つ、世界は浄化された。マウスを置いた健太は、冷めたコーヒーを一口含み、満足のため息を漏らした。

その、ありふれた業務の終わりに、一本の内線が鳴った。マネージャーからだった。

「高橋君、ちょっと特殊な案件がある。直接会って話したいそうだ」

特殊案件。その言葉に、健太の口元がわずかに緩む。困難な依頼ほど、彼の職人魂を刺激する。

翌日、会社の応接室に現れたのは、品の良いグレーのスーツを着た、背筋の伸びた老婦人だった。相沢静子と名乗った彼女は、年の頃は七十代半ばだろうか。その澄んだ瞳には、深い憂いと、揺るぎない決意のような光が宿っていた。

「高橋様でいらっしゃいますね」

静かで、けれど芯のある声だった。健太は頷き、業務用の微笑みを浮かべた。

「どのような情報でお困りでしょうか。過去の不適切な投稿、あるいはプライバシーに関わる記事の削除でしたら、私どもが……」

「いいえ」

静子は健太の言葉を、穏やかに遮った。

「私が消していただきたいのは、特定の記事や写真ではありません」

彼女はまっすぐに健太を見据え、静かに、しかしはっきりと告げた。

「私の存在そのものを、この世の記録から、完全に消していただきたいのです」

健太の表情から、作り物の微笑みが消えた。公的記録の抹消など、法的に不可能だ。そもそも、自分たちはネット上の掃除屋であって、戸籍を扱う役所ではない。しかし、彼女の瞳は冗談を言っているようには見えなかった。それは、日常を覆す、静かで、途方もない願いだった。

第二章 沈黙の依頼人

「相沢様、申し訳ありませんが、そのようなご依頼は……」

健太が困惑しながら断りの言葉を口にしようとすると、静子は小さな封筒をテーブルの上に置いた。中には、古びた一枚の写真が入っていた。たくさんの子供たちに囲まれ、太陽のように笑う若い頃の静子の姿が写っている。彼女が運営していたという、小さな子ども食堂での一コマだった。

「私はかつて、この子たちの未来を照らすことが生きがいでした。多くの人に慕われ、感謝され、それが私の世界のすべてでした」

彼女の声は、遠い昔を懐かしむように穏やかだった。

「ですが、ある出来事を境に、すべてが変わりました。私の名前は、祝福ではなく、呪いになったのです」

その言葉には、健太が日々削除しているネット上の罵詈雑言とは質の違う、深く、重い響きがあった。

健太は、会社のルールを破って、個人的に彼女の調査を始めた。相沢静子の名前を検索すると、驚くほど多くの称賛の記事が見つかった。地域の貧困家庭を支援し、孤立する子供たちのために私財を投じて食堂を開いた聖女。メディアは彼女をそう称賛していた。しかし、健太は奇妙な点に気づく。五年前のある日を境に、彼女に関する情報が、まるで断ち切られたかのようにぷっつりと途絶えているのだ。その日以降、彼女の存在を示す記録は、ネットの海から忽然と姿を消していた。

興味を抑えきれず、健太は静子が暮らすという古い木造アパートを訪ねた。案内された一室は、驚くほど物がなく、がらんとしていた。まるで、いつでもこの世から消える準備ができているかのように。窓から差し込む午後の光が、部屋の隅に積まれたほこりをきらきらと照らし、時の停滞を物語っていた。

「もう、誰にも覚えていてほしくないのです」

静子はお茶を差し出しながら、ぽつりと言った。

「良い記憶も、悪い記憶も、すべて。ただ、静かに忘れ去られたい。それが私の、たった一つの望みです」

彼女の孤独が、フィルター越しに見ていたデジタルデータではなく、生身の痛みとして健太の胸に突き刺さった。彼は、これまで抱いたことのない感情に戸惑っていた。これは仕事ではない。この人の力になりたい。その純粋な思いが、彼の心を突き動かしていた。健太は、彼女が消し去りたいと願う「空白の五年」に何があったのか、本格的に探ることを決意した。

第三章 穢れた正義

健太は、会社のデータベースへのアクセス権限を使い、さらに深く調査を進めた。そして、ついに「空白の五年」の入り口、途絶えた情報の最後に記録されていた事件にたどり着く。それは、静子の子ども食堂で発生した、集団食中毒事件だった。数人の子供が入院し、食堂は閉鎖。ネット上には、静子の管理不行き届きを糾弾する記事が、一つだけ、かろうじて残骸のように残っていた。

「衛生管理がずさんだった」「子供たちの善意を利用した偽善者」。残されたコメント欄には、辛辣な言葉が並んでいた。これが、彼女が聖女から呪われた存在へと転落した瞬間だった。だが、何かがおかしい。あれほど称賛されていた人物が、たった一度の失敗で、ここまで完全に社会から抹殺されるものだろうか。健太の胸に、違和感が渦巻いた。

彼は執念深く、当時のニュースソースのキャッシュデータや、削除された掲示板のログを復元していく。それは、彼が普段、クライアントのために「消している」情報を、逆に「掘り起こす」作業だった。そして、深夜のオフィスで、彼はついに真実の断片を見つけ出す。食中毒の原因は、静子の管理ミスではなかった。食材を納入していた大手食品会社『サンライズ・フーズ』の、ずさんな品質管理によるものだったのだ。

健多の指が震えた。サンライズ・フーズ。それは、健太が勤める『クリーン・スレート』の、最大手のクライアントだった。

血の気が引くのを感じた。健太は震える手で、自社の過去の業務記録を検索した。案件名:サンライズ・フーズ緊急広報支援。日付は、食中毒事件の直後。業務内容:関連情報のネガティブ・キャンペーン、及び鎮静化オペレーション。担当チームには、健太が尊敬していた上司の名前もあった。

全身の力が抜けていく。つまり、こういうことだ。サンライズ・フーズは自社の責任を逃れるため、『クリーン・スレート』に依頼した。そして、メディアとインターネットを使い、すべての責任を社会的弱者である相沢静子一人に押し付けたのだ。彼女を悪者に仕立て上げるための誹謗中傷を組織的に拡散し、逆にサンライズ・フーズへの批判や、静子を擁護する声は、ことごとく「浄化」の名の下に消し去った。

健太が「正義」だと信じて行ってきた仕事。その実態は、強者が弱者を踏み潰すための、卑劣な情報操作でしかなかった。自分が消してきた無数の言葉の中には、静子の無実を叫ぶ声も、彼女を助けようとする誰かの善意も、含まれていたのかもしれない。モニターに映る自分の顔が、醜悪な怪物のように見えた。彼は正義の執行者などではなかった。巨大な悪意の、末端で動く歯車に過ぎなかったのだ。足元から、信じていた世界が音を立てて崩れ落ちていく。健太は、デスクに突っ伏し、声を殺して嗚咽した。

第四章 ただ一つの記録

翌日、健太は辞表を提出した。引き止めるマネージャーの声を背中で聞きながら、彼は逃げるように会社を飛び出した。向かう先は一つしかなかった。静子のアパートのドアを叩くと、彼女は驚いた様子もなく、静かに彼を招き入れた。

健太は、すべてを告白した。自分の会社が彼女を社会的に抹殺したこと、そして自分もその片棒を担いでいたかもしれないこと。土下座して謝罪する健太に、静子はゆっくりとかぶりを振った。

「顔を上げてください、高橋さん」

その声は、どこまでも優しかった。

「薄々、気づいていましたよ。あなたがどちら側の人間かなんて、もう、どうでもよかったのです。私はただ、誰かに、私の本当の話を、最後まで聞いてほしかっただけなのです」

彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。彼女は復讐も名誉回復も望んでいなかった。あまりにも深く傷つけられた魂が求めたのは、闘争ではなく、忘却という安らぎだったのだ。

その時、健太の中で何かが決まった。彼は静子に向き直り、はっきりと告げた。

「相沢さん。あなたの最後の依頼、引き受けさせてください。ですが、やり方は、僕に決めさせてほしい」

健太は、最後の「仕事」を始めた。それは、彼女の存在を「消す」ことではなかった。彼が持てる全てのスキルと知識を注ぎ込み、たった一つのウェブサイトを構築したのだ。そこには、事件の隠された真相、サンライズ・フーズと『クリーン・スレート』が行った情報操作の克明な記録、そして、子どもたちに囲まれて笑う、ありのままの相沢静子の姿が、何よりも雄弁な証拠として掲載されていた。それは、誰にも消すことのできない、ただ一つの「真実の記録」だった。

サイトは「サイレント・レコード」と名付けられ、一夜にして爆発的に拡散した。大手メディアも後追いで報道を始め、サンライズ・フーズと『クリーン・スレート』は、社会的な非難の嵐に晒された。もちろん、健太も告発者として追われる身となった。

数ヶ月後。健太は、北の小さな港町にいた。ノートパソコンを開くと、彼が作ったサイトには、今も静子を応援する無数のコメントが寄せられている。受信トレイに、新しいメールが一件。差出人は、相沢静子だった。

『ありがとう。私は、やっと私のままでいられます』

短い文面だった。彼女が今どこで、どうしているのかは分からない。社会的な名誉を取り戻したのか、あるいは、望み通りどこかで静かに暮らしているのか。健太にも知る術はなかった。

彼はパソコンを閉じ、潮風が頬を撫でるのを感じた。目の前には、夕日に染まる穏やかな海がどこまでも広がっている。かつて彼は、モニターの向こう側で、誰かの記憶を「消す」ことだけを使命としていた。だが今は、この現実の世界で、一つの真実を「遺す」ことの重みと尊さを噛み締めている。彼の戦いは、まだ始まったばかりだ。しかし、その表情に虚無の色はない。見えない誰かのために、社会の片隅で、声なき声に光を灯し続ける。その確かな意志だけが、彼の胸を満たしていた。記録は消せる。だが、記憶は、真実は、決して消えはしない。健太は、静かに水平線を見つめ続けた。

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