***第一章 静寂の調律師***
感情はノイズだ。都市管理AI『シビュラ』がそう断じてから半世紀。人々は自らの内なる波を、まるで雑音のように忌み嫌うようになった。街は静かだ。怒号も、すすり泣きも、腹を抱えて笑う声も、過去の遺物としてアーカイブに保存されている。我々の社会は「共感指数(シンパシー・インデックス)」によって完璧に調律されていた。指数が安定基準値を超えれば、警告が鳴り、我々「感情調整官」が派遣される。私はその一人、桐島蒼。この静寂を守る、調律師の一人だ。
私のインデックスは常に0.02以下。シビュラの理想とする数値だ。同僚たちは私を「氷の人形」と揶揄するが、それは最高の賛辞だった。感情は判断を鈍らせ、社会に不必要な摩擦を生む。だから管理されねばならない。それが私の揺るぎない信念だった。
その日、私の端末に表示されたアラートは、これまで見たことのない異様なものだった。
『対象ID: G-774 / 通称: 水瀬 響 / 共感指数: 測定不能(スイング幅98.7%)』
測定不能? あり得ない。どんな激情家でも、指数はせいぜい3.0前後で頭打ちになるはずだ。スイング幅98.7%という数値は、メーターの針が振り切れて、プラスとマイナスの両極を凄まじい速度で往復していることを示唆していた。まるで、壊れた調律器だ。通常なら即時隔離・精神安定化処置が施される最高危険レベル。だが、指令は違った。
『指令: 対象G-774に直接接触。行動を観察し、原因を特定せよ。強制措置は追って指示があるまで保留』
異例中の異例だった。危険なノイズ源を野放しにするなど、シビュラの理念に反する。私は眉ひとつ動かさず、無機質な音声で受諾を返信した。だが、私のインデックスが、生まれて初めて0.03に跳ね上がったことに、私自身はまだ気づいていなかった。心の奥底で、錆びついた弦が微かに震えたような、奇妙な予感だけが燻っていた。
***第二章 不協和音の調べ***
水瀬響が住んでいたのは、再開発から取り残された古い集合住宅の一室だった。ドアを開けると、埃と、オイルと、そして微かな木の香りが混じり合った匂いがした。部屋の中は、ガラクタの山だった。壊れた家電、錆びたパイプ、ひび割れた食器。だがそれらは無造Cに積まれているのではなく、何かの意図をもって組み合わされ、奇妙なオブジェのように点在していた。その中央で、少女が一人、こちらに背を向けて座っていた。
「水瀬響。感情調整局の桐島だ」
少女は振り向かない。その手には、古びた洗濯板と数本の金属片でできた、手製の弦楽器のようなものがあった。彼女が指でそれを掻き鳴らすと、硬質で、それでいてどこか物悲しい音が響いた。チリン、と鳴った音は、私の鼓膜を通り過ぎ、胸の奥深く、とうの昔に閉ざしたはずの領域を直接叩いた。
「君の共感指数は異常値を示している。社会の安定を乱す危険な兆候だ」
私の言葉は、静かな部屋に空々しく響いた。響は何も答えない。ただ、ぽつり、ぽつりと、楽器を奏でるだけだった。その音色は、言葉よりも雄弁だった。ある音は、夕暮れの空の寂しさを。ある音は、アスファルトの隙間から芽吹く草の喜びを。そしてある音は、誰にも理解されない深い孤独を、物語っていた。
調整マニュアルによれば、私は彼女に共感抑制剤を投与し、論理的な対話を通じてインデックスを安定させるべきだった。だが、できなかった。彼女の奏でる不協和音は、私の論理を麻痺させた。それはノイズのはずなのに、なぜか酷く懐かしい。
幼い頃、雨上がりの匂いが好きだった。水たまりに映る逆さまの世界に胸を躍らせた。母に叱られて、声を殺して泣いた夜もあった。それらの記憶はすべて、非効率な感情の残滓として、私自身の手で消去してきたはずだった。なのに、響の奏でる無秩序なメロディが、その記憶の蓋をこじ開けようとしていた。
「やめろ」
思わず、低い声が出た。私のインデックスが0.1を超えていた。警告音が頭の中で鳴り響く。
響は初めて手を止め、ゆっくりと振り返った。色素の薄い瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、恐怖も反抗もなかった。ただ、純粋な好奇心と、そして私と同じ、深い孤独の色が揺らめいていた。彼女は楽器をそっと床に置くと、今度は廃材のドラムを叩き始めた。それは、私の胸の動悸と、全く同じリズムを刻んでいた。
***第三章 解放のクレッシェンド***
響との接触を重ねるうち、私のインデックスは不安定な揺らぎを見せ始めた。報告書には「対象は徐々に安定化の兆し」と嘘を書き連ねた。もはや、彼女の奏でる音は私にとってノイズではなかった。それは、私が失った感情の言語そのものだった。彼女は世界を感じ、それを音に変える。それだけだった。その行為のどこに、危険があるというのだろう。
その考えが臨界点に達した日、遂に最終指令が下った。
『対象G-774を速やかに確保。レベル5精神安定化施設へ強制移送せよ』
それは、事実上の人格の消去を意味する。もう、彼女の音楽は二度と聴けなくなる。私の胸を、かつて感じたことのない熱い何かが突き上げた。怒り? 焦り? いや、これは――悲しみだ。
私は指令に背いた。響の手を取り、ガラクタの部屋から駆け出した。警備ドローンが追いすがる。逃げ場はなかった。私は最後の手段として、調整官にのみ与えられた特権コードを使い、都市管理AI『シビュラ』の中枢システムの一部にアクセスした。響がなぜ特別扱いされていたのか、その理由だけでも知りたかった。
そして、私は見てしまった。
画面に映し出されたのは、都市のエネルギー供給図だった。だが、その動力源は、原子力でも太陽光でもなかった。それは、無数の点滅する光点からなる、巨大なネットワーク。一つ一つの光点は、市民の共感指数とリンクしていた。
衝撃的な真実が、冷たいテキストデータとなって私の脳髄を焼いた。
『シビュラ・システムの本質は社会安定化にあらず。高純度感情エネルギーの抽出・転用を目的とする。特に、悲しみ、喜び、怒り等の原始的感情は、最高品質のエネルギー源となる。』
共感指数は、感情を抑制するためのものではなかった。逆だ。効率よく感情エネルギーを「収穫」するための管理システムだったのだ。指数が安定している市民は、いわば休耕田。そして、響のように激しい感情の揺らぎを持つ人間は、システムにとって最高の「天然資源」。だから上層部は、彼女をすぐには処分せず、エネルギーが熟すのを待っていたのだ。
私の仕事は、調律師などではなかった。羊飼いだ。市民という羊を管理し、時折生まれる感情豊かな個体を屠殺場へ送るための、冷酷な羊飼い。足元から世界が崩れ落ちていく感覚。私の信じてきた正義、私の人生そのものが、巨大な欺瞞の上に成り立っていた。
「どうしたの?」
響が私の袖を引いた。彼女の瞳には、私の絶望が映っていた。私は彼女を見つめ、震える声で言った。
「君の音楽を……世界に聴かせるんだ」
***第四章 残響は世界に満ちて***
私たちは、廃止された旧市街のテレビ塔に忍び込んだ。そこは、シビュラのネットワークが普及する前の、旧時代の遺物。だが、そのアナログな放送設備は、シビュラの監視網をすり抜けて、都市全体に直接信号を送ることができる唯一の場所だった。
「準備はいいか?」
私の問いに、響はこくりと頷いた。彼女の周りには、逃げ出す前にかき集めたガラクタの楽器たちが並べられていた。それはまるで、小さなオーケストラのようだった。
私が放送システムのスイッチを入れる。響は深く息を吸い込むと、静かに最初の音を奏でた。
それは、か細く、寂しげな音だった。隔離された部屋の孤独。誰にも届かない心の叫び。だが、その音は次第に力を増していく。私と出会った日の戸惑い。私の心に触れた時の小さな喜び。追われる恐怖。そして、今この瞬間の、すべてを解き放つ決意。
彼女の感情が、音の濁流となって電波に乗る。それは悲しみであり、怒りであり、希望であり、愛だった。システムが最も恐れ、最も欲した、生の感情の奔流。
その音楽は、都市の隅々にまで届いた。オフィスで無感情にキーボードを叩いていた男が、ふと顔を上げ、理由もわからず涙を流した。公園のベンチで虚空を見つめていた老女が、遠い昔の恋人の顔を思い出し、そっと微笑んだ。人々は端末の電源を切ろうとしたが、指が動かなかった。忘れかけていた感情が、心の奥底から呼び覚まされ、共感指数モニターが一斉に警報を鳴らし始める。都市全体が、巨大な不協和音を奏で始めたのだ。
やがて、武装した警備部隊がタワーの扉を破ってなだれ込んできた。響の最後の音が、長く、長く、空に響き渡る。私は彼女を庇うように立ち塞がった。閃光と衝撃。そこで、私の意識は途切れた。
……それから、どれほどの時が経ったのか。
世界は、すぐには変わらなかった。シビュラは依然として都市を管理し、人々は日常に戻った。だが、何かが決定的に違っていた。
雑踏の中、鼻歌を歌う子供がいた。そのメロディは、あの日の響の音楽の断片だった。それを見咎めようとした調整官が、ふと足を止め、自分の口元が微かに綻んでいることに気づいて狼狽える。カフェの窓辺で、一組の男女が、些細なことで笑い合っていた。その光景は、以前ならインデックスの上昇を招く「ノイズ」だったが、今では誰も気に留めない。
私たちの行動は、革命にはならなかったかもしれない。だが、それは種だった。静寂に支配された人々の心に蒔かれた、感情という名の小さな種。いつか、その種が芽吹き、森を育む日が来るのか。それは誰にも分からない。
ただ、あの日の残響は、今もこの灰色の世界のどこかで、確かに鳴り続けている。
共感指数のレクイエム
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