クレンズ・ゾーンの番人

クレンズ・ゾーンの番人

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第一章 瑕疵なき白

アスファルトに染みた昨夜の雨は、ネオンの残滓を吸って鈍い虹色に光っていた。水沢亮は、高圧洗浄機の轟音を背中に浴びながら、こびりついたガムを金属ヘラで削り取っていた。午前三時、眠らない街が唯一、短い寝息を漏らす時間。亮にとって、そこは職場であり、世界の縮図だった。

元は証券会社のトレーダーだった。数字の羅列を追い、経済という名の虚像を膨らませる日々。だが、あるプロジェクトの失敗で全てを失い、彼は社会の表舞台から裏方へと転落した。今では、都市が吐き出す「汚れ」を掃除することが彼の生業だ。酔客の吐瀉物、捨てられた花束、涙で滲んだ手紙の切れ端。それら一つ一つに、彼は名もなき人々の感情の澱を、微かに感じ取ることができた。それは呪いであり、同時に、虚無を埋める唯一のよすがでもあった。

「亮さん、A地区終わったんで、次、クリアス・ガーデン行きますよ」

年下の同僚の声に、亮は無言で頷いた。

クリアス・ガーデン。一年前にオープンした再開発エリアだ。古い木造住宅が密集していた地区を一掃し、ガラスと鉄骨のタワーが聳え立つ、未来都市のショールームのような場所。そこは、亮の職場の中でも異質な空間だった。あまりにも、綺麗すぎるのだ。

特に、中央広場に設置された純白の大理石のベンチは、異様ですらあった。

亮は、そのベンチの前に立つ。深夜の冷気の中でも、その白さは人工的な温かみさえ帯びているように見える。この一年、彼は一度もこのベンチが汚れているのを見たことがなかった。雨が降れば水滴は蓮の葉の上を転がるように滑り落ち、風が吹けば埃一つ残さず吹き払われる。子供がアイスクリームをこぼしても、カラスが糞を落としても、次の瞬間には何事もなかったかのように、その純白を取り戻すのだ。

「不気味なほど、綺麗だ」

亮は思わず呟いていた。汚れを商売道具にする彼にとって、この完璧な清浄さは、自然の摂理に反する冒涜に思えた。まるで、この場所だけが世界の理から切り離されているかのようだ。

彼はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が白いベンチの輪郭を曖昧に溶かす。だが、煙が晴れると、そこにはやはり、一点の曇りもない白が存在していた。まるで、亮自身のくすんだ存在を嘲笑うかのように。

このベンチには、何か秘密がある。

亮の心に、忘れかけていた探求心のようなものが、小さな火種となって灯った。それは、彼がこの無機質な都市で初めて抱いた、人間的な感情だったのかもしれない。

第二章 ベンチの老婆

その日を境に、亮の行動は変わった。仕事が終わると、彼は夜明け前のクリアス・ガーデンへ向かい、あの白いベンチをただ眺めるようになった。ベンチに座る人々を観察し、その完璧な白がどう保たれているのかを、執拗に探り始めた。

そして、彼は気づいた。毎日のように、同じ時間に同じ老婆がそのベンチに座っていることに。

老婆は、千代と名乗った。皺の刻まれた顔は穏やかだったが、その瞳の奥には、拭い去れない深い悲しみの色が宿っていた。彼女は、亮が毎朝ベンチを見つめていることに気づいていたらしい。

「あなたも、この場所が好きかね」

ある朝、千代は亮にそう話しかけた。

「いえ……ただ、気になっているだけです。このベンチが」

亮は素直に答えた。

「そうかい。ここはね、特別な場所なんだよ」

千代は、愛おしむようにベンチの表面を撫でた。その指先が触れた場所は、やはり何一つ痕跡を残さない。

千代はぽつりぽつりと語り始めた。このクリアス・ガーデンが建つ前、ここには「ひだまり町」という名の古い町があったこと。彼女は夫と二人、小さな写真館を営んでいたこと。再開発の話が持ち上がった時、最後まで立ち退きに反対していたこと。そして、強制執行が迫った冬の日、夫が病で帰らぬ人となったこと。

「あの人はね、この町の埃っぽさも、雨上がりの土の匂いも、全部愛していたんだ。新しいビルが建つのは仕方ない。でも、この場所にあった人々の暮らしや、思い出まで消し去られてしまうのが、耐えられないと言っていた」

千代の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その雫は、白い大理石の上に落ちた瞬間、まるで幻だったかのように、すっと消えた。

亮は言葉を失った。彼が日々掃除している「汚れ」とは、まさに千代の夫が愛した、人々の暮らしの痕跡そのものではないか。彼は、千代の悲しみに、かつて自分が失ったものの影を重ねていた。数字だけを追い、人の感情を切り捨ててきた過去の自分。その結果、全てを失い、今は社会の「汚れ」と向き合っている。

「どうして、毎日ここに?」

亮は尋ねた。

「あの人の最後の場所だからね。ここに座っていると、まだ夫がすぐそばにいるような気がするんだ。でも……」

千代は言葉を区切ると、寂しそうに微笑んだ。

「日を追うごとに、その感覚が薄れていくんだ。夫の顔も、声も、だんだんと霞んでいくような気がして……怖くなるんだよ」

その言葉は、亮の胸に重く突き刺さった。この完璧な清浄さが、彼女から大切な記憶さえも奪おうとしている。亮は、このベンチに隠された謎を、ただの好奇心ではなく、千代のために解き明かさなければならないと強く感じ始めていた。

第三章 記憶の洗浄

亮の心は決まった。彼は自分の持てるすべて、つまり清掃員としての知識と道具を使って、ベンチの正体を暴くことを決意した。

月のない深夜、亮は一人、クリアス・ガーデンに忍び込んだ。周囲に人影がないことを確認し、彼は業務用の特殊な溶剤と、微細な凹凸を検出するセンサーを取り出した。これは、本来なら文化財に付着した見えないカビを探すための機材だ。

彼はベンチの表面に、慎重に溶剤を垂らした。普通の石材なら染みになるはずが、液体は玉となって弾かれる。だが、センサーをかざしたモニターには、信じられないものが映し出されていた。ベンチの表面が、ナノメートル単位の無数の機械、すなわちナノマシンでびっしりと覆われていたのだ。それらはまるで生き物のように蠢き、溶剤を分解し、消し去っていた。

「……ナノマシンによる自己浄化コーティングか」

亮は息を呑んだ。開発元の企業ロゴを、彼はベンチの隅に小さく刻印されているのを見つけた。「アルカディア・イノベーションズ」。かつて彼が勤めていた証券会社が、巨額の投資をしていたハイテク企業だった。

亮は、かつての同僚で、今はゴシップ記事を書いているジャーナリストの友人に連絡を取った。彼のトレーダー時代の知識と人脈が、ここで思わぬ形で役立った。友人は、アルカディア社が極秘に進めている「都市浄化プロジェクト」に関する内部資料を、危険を冒して手に入れてくれた。

資料を読んだ亮は、血の気が引くのを感じた。

その技術の名は、「クレンズ・ゾーン」。ナノマシンは、物理的な汚れだけを分解するのではなかった。その真の目的は、有機物に残留する微弱な生体情報――すなわち、人間の記憶や感情の痕跡までも検知し、分解・消去することにあった。

立ち退きを巡る住民の怒り。工事中の事故で流された血。ひだまり町に暮らした人々の喜びや悲しみ。それら都市にとって「不都合な記憶」を、文字通り「洗浄」するための技術。クリアス・ガーデンの輝かしい景観は、人々の痛みを消し去ることで成り立っていたのだ。

千代が感じていた記憶の薄れは、気のせいではなかった。このベンチは、彼女が必死に繋ぎ止めようとしている夫の記憶を、絶え間なく削り取っていたのだ。

「汚れ」とは、生きた証だった。

亮は愕然とした。自分がこれまで無感動に処理してきたゴミや染みは、一つ一つが誰かの人生の断片だった。それを消し去るこの完璧な「清浄さ」こそが、何よりも醜悪で、冒涜的な「汚れ」ではないか。

社会から目を背け、冷笑することで自分を守ってきた。だが、目の前にあるのは、看過できない巨大な悪意だ。怒りが、氷のように冷たい決意となって、彼の全身を貫いた。俺は、この汚れを許さない。

第四章 忘れられた汚れの守り人

亮は行動を開始した。彼が武器として選んだのは、彼が誰よりも知る、都市の「汚れ」そのものだった。

彼は何日もかけて、街中から「記憶の濃い汚れ」を収集した。ひったくり犯の血痕が残る路地のコンクリート片。恋人たちが愛を誓った落書きのある壁の一部。捨てられた赤ん坊がくるまれていた毛布の切れ端。それらは、アルカディア社の技術が消し去ろうとする、都市の生々しい記憶のアーカイブだった。

亮は、ジャーナリストの友人と共に、内部資料と、彼が集めた「汚れの証拠物件」を添えて、告発記事を作成した。記事は、小さなネットメディアで公開された。巨大企業アルカディア・イノベーションズは即座に全面否定し、法的措置をちらつかせた。大手メディアは沈黙し、世間の関心はすぐに別のスキャンダルへと移っていった。

社会は、簡単には変わらない。亮は、その事実を痛いほど知っていた。しかし、無力感に苛まれることはなかった。彼の心は、不思議なほど静かだった。

数日後の朝、亮がいつものようにクリアス・ガーデンを訪れると、信じられない光景が広がっていた。

あの真っ白なベンチの上に、誰かが手向けた一輪の野菊が置かれていたのだ。ナノマシンは、その花びらを異物と認識し、ゆっくりと分解しようと蠢いている。だが、花が完全に消える前に、また別の誰かが、小さなマリーゴールドをそっと隣に置いた。一人、また一人と、人々がベンチに花を手向け始める。亮の記事を読んだ、名もなき人々だった。それは、消されゆく記憶への、ささやかで、しかし確かな抵抗の始まりだった。

千代が、亮の隣にいつの間にか立っていた。彼女は、花で彩られたベンチを見て、静かに涙を流していた。

「ありがとう。これで……あの人を、ちゃんと覚えていられる」

その涙は、もうベンチに消されることはなかった。誰かが置いた花びらの上で、朝陽を浴びて、きらりと光っていた。

夜が明け、亮は再び清掃員の仕事に戻る。高圧洗浄機の音が、今はまるで、街の産声のように聞こえた。アスファルトの染みも、ゴミ袋の山も、もはや彼にはただの汚物には見えなかった。その一つ一つが、誰かがここで生きた証であり、愛おしい記憶の欠片だった。

彼は、この街の汚れを掃除し続けるだろう。だが、それはもはや単なる作業ではない。彼は、忘れられ、消されゆく人々の記憶を守り続ける「番人」なのだ。

空が白み始め、朝日に照らされた街路のゴミが、まるで打ち捨てられた宝石のように輝いて見えた。亮はヘラを握り直し、静かに呟いた。

「この街の痛みも、喜びも、俺が覚えておく」

その言葉は誰に聞かれることもなく、都市の喧騒の中に溶けていった。しかし、彼の内側で確かに輝きを取り戻した魂の光は、何よりも雄弁に、その決意を物語っていた。

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