サイレント・アーク

サイレント・アーク

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第一章 デジタル・ゴースト

真鍋翔太は、自分が構築した世界の静寂を愛していた。彼がプロジェクトリーダーとして心血を注いだ統合社会インフラシステム『ユニバース・コア』が、ついに全国で稼働を開始したのだ。あらゆる行政手続き、金融取引、物流、医療記録が、一つの強固なネットワークに集約される。それは効率と合理性の結晶であり、翔太にとっては至高の芸術作品だった。

ガラス張りのオフィス、その三十階から見下ろす東京の夜景は、コアによって制御された無数のデータの流れそのものだった。光の河がきらめき、整然と脈打っている。無駄も、遅滞も、曖昧さもない。完璧な世界。彼は冷えたブラックコーヒーを一口含み、満足のため息を漏らした。

その静寂を破ったのは、一本の内線電話だった。

「真鍋くん、ちょっといいかな」

上司の苦々しい声だった。会議室に呼び出された翔太の前に置かれたのは、一枚のレポート。そこには、赤字で『タイプ・デルタ:原因不明の消失事案』と記されていた。

「消失、ですか?」

「ああ。コアの稼働以降、特定の層の住民情報がシステム上から完全に探知できなくなっている。戸籍データはある。だが、銀行口座も、公共サービスの利用履歴も、通信記録も、すべてがぷっつりと途絶えている。まるで、デジタル社会から蒸発したみたいにな」

レポートによれば、「消失者」は全国で散発的に発生していたが、特に顕著なのが、かつて炭鉱で栄えたいくつかの地方都市だった。高齢者、低所得者層、そしてデジタルデバイスに不慣れな人々に偏っているという。

「移行期における、ユーザー側のリテラシー不足でしょう。想定内のエラーです」

翔太はこともなげに言った。彼の脳内では、すでに解決策のフローチャートが組み上がっていた。現地にサポートチームを派遣し、使い方を教えればいい。簡単な話だ。

だが、上司は首を振った。「それが、違うんだ。何人かは物理的に確認しに行った。家も、本人も、確かにある。だが、彼らは我々のシステムに存在しない。まるで、見えない壁に隔てられているようだ。…一番ひどい、灰音町(はいねちょう)という所へ行って、君の目で直接、原因を突き止めてきてくれ。これは君のシステムの問題だ」

灰音町。地図の上でさえ色褪せて見えるような、寂れた地名だった。翔太は眉をひそめた。なぜ僕が、そんな時代遅れの場所へ? 彼の完璧な世界に、初めて不協和音が混じった瞬間だった。彼はまだ、その不協和音が、自らの信じる世界そのものを根底から揺るがす序曲であることに、気づいていなかった。

第二章 灰色のユートピア

灰音町に降り立った翔太を包んだのは、湿った土の匂いと、どこか懐かしい石炭の微かな香りだった。東京の無機質な空気とはまるで違う、濃密な空気が肺を満たす。灰色の雲が低く垂れ込め、町全体が時間の流れから取り残されたような静けさに沈んでいた。

彼は最新鋭のタブレットを片手に、消失者リストの筆頭にあった家を訪ねた。古びた木造家屋の引き戸を開けると、縁側でひなたぼっこをしている老婆が、柔らかな目で彼を見上げた。老婆、早川千代は、リスト上では二週間前に「消失」したことになっている。

「あんた、都会の匂いがするねぇ」

千代はしわがれた声で言った。翔太は名刺を差し出し、ユニバース・コアのシステムについて説明を始めた。いかに便利で、安全で、そして不可欠なものであるか。しかし、千代はただ穏やかに相槌を打つだけで、その瞳には何の不安も焦りも見えなかった。

「その『こあ』とかいうもんは、わしらにはよう分からんよ。ここには、そんなもんなくても、みんな生きてる」

翔太は苛立ちを覚えた。彼が提供しようとしているのは、未来そのものだ。それを理解しようともしないこの老婆は、社会の進歩から取り残された、救済すべき「弱者」にしか見えなかった。

数日間、翔太は町に滞在し、調査を続けた。そこで彼が目にしたのは、信じがたい光景だった。この町では、現金さえもあまり使われていない。畑で採れた野菜が、漁師が獲ってきた魚と交換される。大工が隣家の屋根を直し、その礼に夕食に招かれる。子供たちは空き地で泥だらけになって遊び、老人たちは縁側で将棋を指しながら、何時間も語り合っている。そこには、翔太の知る「経済」も「効率」も存在しなかった。だが、人々の顔には、東京の雑踏で見かけるどんな人間よりも深い、充足の色が浮かんでいた。

彼らは、翔太のシステムなど必要としていなかった。むしろ、そのシステムが象徴する社会から、完全に隔絶された共同体を築いているように見えた。それはまるで、灰色の町に咲いた、ささやかだが力強い花々のようだった。翔太は、自分が彼らを「救済」しようとすること自体が、途方もない傲慢さであるかのような、奇妙な感覚に襲われ始めた。彼の内なる合理性が、目の前の非合理な幸福によって、少しずつ侵食されていくのを感じていた。

第三章 方舟の設計者

「なぜ、あなた方はシステムから消えたのか。技術的な原因を特定しなければ、私は帰れない」

翔太はついに、千代に単刀直入に問いかけた。彼の声には、混乱と、わずかな懇願が混じっていた。この非合理なユートピアの謎を解かなければ、彼の信じてきた世界が崩壊してしまう。

千代は黙って立ち上がり、家の奥にある仏間へと翔太を導いた。そこには、古びた写真が一枚、飾られていた。柔和な笑みを浮かべた、四十代くらいの男性。どこか懐かしさを感じるその顔に、翔太は息を呑んだ。

「伊吹…仁(いぶき じん)…?」

それは、翔太が神のように崇拝する伝説のプログラマーの顔だった。ユニバース・コアの基礎理論を十年以上も前に構築し、完成を待たずに病でこの世を去った天才。翔太は彼の論文を読み込み、その思想のすべてを受け継いだと自負していた。

「わしの、兄さ」

千代は静かに言った。「仁は、自分が何を作っているか、誰よりも分かっていた。人々を便利にする、素晴らしいシステム。じゃが、それは同時に、人々を数字に変え、管理し、人間らしさを奪う檻にもなりうる、と。兄は、そのシステムが完成する未来を恐れていた」

千代の言葉が、翔太の頭を殴りつけた。

「そんなはずは…彼は、完璧な効率社会を望んでいたはずだ!」

「あんたは、兄の論文の半分しか読んでいないのさ」。千代は諭すように続けた。「仁は晩年、自分の作ったシステムから、人間が『逃げる』ための方法を研究していた。その究極のシステムに支配されない、人間のための聖域(サンクチュアリ)を。そして、そのための『鍵』を、コアの最も深い場所に、誰にも気づかれずに埋め込んだ」

翔太は愕然とした。そういうことだったのか。彼らはシステムから「弾かれた」のではない。エラーで「消失」したのでもなかった。

彼らは自らの意志で、伊吹が遺したバックドア、いわば「デジタルの方舟」を使って、コアの支配する世界から「離脱」していたのだ。

「私たちはあんたたちの社会から捨てられたんじゃない」

千代は、真っ直ぐに翔太の目を見て言った。その瞳には、憐れみでも、怒りでもない、ただ静かで絶対的な意志が宿っていた。

「私たちがあんたたちの社会を、捨てたのさ」

その瞬間、翔太の世界は音を立てて砕け散った。自分が築き上げた完璧な世界の創造主が、その世界からの脱出口を用意していた。救済すべき弱者だと思っていた人々が、実は最も強靭な意志を持つ選択者だった。効率と進歩の頂点に立っていると信じていた自分こそが、巨大なシステムの檻に囚われた、哀れな囚人だったのかもしれない。

第四章 沈黙の共犯者

東京に戻った翔太が提出した報告書の結論は、簡潔だった。

『原因:旧世代インフラとの互換性に起因する、予測不能なデータデリート現象。対象地域のネットワーク環境が特殊なため、現行システムでの完全な捕捉は不可能。物理的な生活に支障はないため、経過観察とする』

嘘だった。だが、それは翔太にとって初めての、そして最も重要な真実だった。彼は、伊吹が遺した方舟の存在を、その設計図のすべてを、自らの胸の内に封印することを選んだ。灰音町という聖域を守るため、彼は沈黙の共犯者となったのだ。

オフィスから見下ろす東京の夜景は、もはや彼にとって芸術作品ではなかった。無数の光点は、ただ空虚に明滅するデジタル信号の群れにしか見えない。あの灰色の町で見た、囲炉裏の頼りない一つの炎の方が、よほど温かく、そして力強く感じられた。

効率。合理性。進歩。彼が人生のすべてを捧げて信じてきた価値観は、絶対的なものではなかった。その光が強ければ強いほど、濃くなる影がある。伊吹はそれに気づき、千代たちはその影の中で、光の中では得られない豊かさを育んでいた。どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。もはや翔太には分からなかった。

数週間後、翔太のもとに小さな小包が届いた。差出人は、早川千代。中には、少し不揃いな網目の、手編みのセーターが入っていた。添えられた手紙には、ただ一言、「冬は、これが一番あたたかい」とだけ書かれていた。

翔太はそのセーターに袖を通した。ふわりと、あの町の土の匂いがした。ウールの優しい感触が、彼の肌に、そして心に、ゆっくりと染み込んでいく。彼は窓辺に立ち、きらびやかな、しかしどこか冷たい都市の夜景を見つめた。その胸の内には、答えの出ない、しかし確かな温もりを伴った問いが深く刻まれていた。

本当の豊かさとは、何だ?

彼の完璧だった世界には、もう戻れない。だが、翔太はそれでいいと思った。欠陥を抱え、矛盾に悩み、非効率な温もりを探し求めること。それこそが、システムに回収されることのない、人間の証なのかもしれない。夜景の向こうに、彼は灰色の空の下で笑い合う人々の幻を見た気がした。

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