第一章 心象の雲と空を見つめる少女
僕、神木空太(かみきそらた)には秘密がある。感情が昂ると、その心情を映した形の雲が、頭上の空に生まれてしまうのだ。
苛立ちを覚えれば、雷雲のように鋭く尖った暗雲が。誰かを想って胸が高鳴れば、ほんのり桃色を帯びた綿菓子のような雲が。それはまるで、言葉にできない僕の心のレントゲン写真みたいで、高校二年生になった今も、この奇妙な体質を誰にも打ち明けられずにいた。他人と深く関わることを避け、感情の起伏をできるだけ平坦に保つ。それが、僕が平穏な日常を送るための、唯一の処世術だった。
その均衡が崩れたのは、五月の、風がやけに生暖かい日の放課後のことだった。教室の窓から校庭を眺めていると、美術部の連中がイーゼルを立てて風景画を描いているのが見えた。その中に、一週間前に転校してきたばかりの女子生徒、月島澪(つきしまみお)の姿があった。彼女はキャンバスではなく、僕のいる窓の外、つまり空を見上げていた。その視線の先には、たった今、僕が生み出してしまった雲が浮かんでいた。今日の小テストの出来が悪くて感じた、焦燥感と自己嫌悪が入り混じった、歪な螺旋を描く灰色の雲が。
まずい。僕は咄嗟に窓から身を隠した。心臓が早鐘を打つ。あの雲が僕のせいだと気づかれたら?「変な奴」と噂が広まり、この狭い町で僕はもう、まともに顔を上げて歩けなくなるだろう。感情を鎮めろ、神木空太。僕は深呼吸を繰り返し、ゆっくりと空を見上げた。幸い、螺旋の雲は形を崩し、他の雲に紛れて消えかけていた。
ほっと胸を撫で下ろし、昇降口へ向かおうとした、その時だった。
「あの、神木くん」
背後からかけられた声に、心臓が凍りついた。振り返ると、スケッチブックを小脇に抱えた月島さんが、少し息を切らせて立っていた。色素の薄い瞳が、まっすぐに僕を射抜いている。
「さっきの雲、すごく面白かった」
「……え?」
「渦を巻いてて、なんだか迷子の星みたいだった。名前、あるのかな。ああいう雲に」
彼女の言葉は、僕の秘密の核心を、無邪気に、しかし鋭く抉った。僕は言葉に詰まり、ただ「さあ……」と曖昧に返すことしかできなかった。彼女は僕の狼狽には気づかない様子で、「そっか。でも、今日の空は特別だったな」と微笑んで、友人たちが待つ方へと駆けていった。
残された僕は、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女の「特別だった」という言葉が、不吉な予言のように耳の奥で響いていた。僕の平穏な日常は、どうやら終わりを告げようとしているらしかった。
第二章 交差する視線、戸惑いの空模様
あの日以来、僕は月島澪を意識的に避けるようになった。だが皮肉なことに、彼女は僕の世界に、まるで引力に引かれるように、ぐいぐいと入り込んできた。廊下ですれ違えば「今日の空は晴れてるね」と声をかけ、図書室で本を選んでいれば「その作家、私も好き」と隣に座る。
そのたびに、僕の頭上では感情の気象が荒れ模様になった。戸惑いは濃い霧のような雲となり、彼女の笑顔に不意に胸がときめけば、柔らかな光を帯びたレンズ雲が生まれる。そして決まって、彼女は空を見上げては「あ、また面白い雲」と嬉しそうに呟き、スケッチブックに鉛筆を走らせるのだ。
「お前、月島さんのこと意識しすぎだろ」
昼休み、屋上で弁当を広げながら、親友の陽介がニヤニヤと笑いながら言った。陽介は僕の体質を知る唯一の人間で、それを「便利な感情表現ツール」などと嘯く、良くも悪くも能天気な男だ。
「意識なんてしてない。あいつが勝手に絡んでくるんだ」
僕はむきになって反論したが、その瞬間、頭上に浮かんだであろう嫉妬と焦りの入り混じった積乱雲を想像して、すぐに口をつぐんだ。
「まあまあ。でもよ、あの月島さん、お前の雲のこと、なんか分かってんじゃないのか?」
「まさか」
僕は即座に否定した。そんなファンタジーみたいなことがあるはずがない。彼女はただ、空と雲が好きなだけだ。僕の存在と、空に浮かぶ奇妙な雲が、偶然同じタイミングで彼女の視界に入っているに過ぎない。そう自分に言い聞かせなければ、恐怖と、そしてほんの少しの期待で、どうにかなってしまいそうだった。
ある雨の日、僕は傘を忘れ、昇降口で立ち往生していた。雨粒が地面を叩く音を聞きながら、どうやって帰ろうかと思案していると、隣にすっと誰かが立った。月島さんだった。
「神木くんも、傘ないの?」
「……うん」
気まずい沈黙が流れる。雨のせいで、今日の空には僕の感情が干渉する余地はない。それが少しだけ、僕を安心させた。
「私、雲も好きだけど、雨の日の匂いも好きなんだ。土と、濡れたアスファルトの匂い。なんだか世界が一度リセットされる感じがして」
彼女はそう言って、閉じた空を穏やかな目で見つめた。僕は、彼女がなぜいつも空を見ているのか、ふと気になった。
「月島さんは、なんでそんなに空が好きなんだ?」
僕の問いに、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、それから少し寂しそうに微笑んだ。
「……なくしたくないものが、そこにあるから、かな」
その答えの意味を、僕は測りかねた。彼女は「じゃあね」と小さな会釈をすると、迎えに来たらしい母親の車に乗り込んで走り去ってしまった。
なくしたくないもの。その言葉が、僕の心に小さな棘のように刺さった。彼女の横顔に浮かんだ、あの微かな寂しさの正体は何なのだろう。僕は、彼女のことをもっと知りたいと、初めて強く思った。その純粋な好奇心は、雨上がりの空に、鮮やかな虹色の雲を描き出していた。幸いにも、それを見ていたのは僕だけだった。
第三章 夏の夜の告白
夏休みに入り、町は祭りの準備で浮き足立っていた。僕は、陽介に背中を押される形で、震える手で月島さんにメッセージを送った。「夏祭り、一緒に行かないか?」と。数分後、「うん、楽しみにしてる」という返信が来たとき、僕の部屋の窓の外には、喜びで弾けるポップコーンのような雲が、いくつもいくつも生まれては消えていった。
祭りの日、待ち合わせ場所に現れた彼女は、淡い水色の浴衣を着ていた。りんご飴の甘い匂い、ヨーヨーをすくう子供たちのはしゃぎ声、遠くから聞こえる祭り囃子。五感が幸福で満たされていく。僕の頭上では、きっと生涯で最も穏やかで美しい夕焼け色の雲が、たなびいているに違いなかった。
「神木くん、見て。スーパーボール、こんなに取れた」
彼女は無邪気に笑い、ビニール袋いっぱいのカラフルなボールを見せてくれた。その笑顔を見るたびに、僕の心臓は心地よい音を立てて跳ねる。この体質のことも、周囲の目も、今だけは全てどうでもよかった。ただ、彼女が隣にいる。その事実だけで、世界は完璧だった。
人混みを抜け、神社の裏手にある小高い丘へ向かう。そこは花火を見るための、僕たちだけの特等席だった。夜の帳が下り、湿った草の匂いが立ち上る。僕たちは並んで腰を下ろし、街の灯りが宝石のようにきらめくのを黙って眺めていた。
ヒュルルル、と甲高い音がして、最初の花火が打ち上がった。夜空に大輪の牡丹が咲き、光の粒子が降り注ぐ。彼女の横顔が、赤や青の光に照らされては消える。その幻想的な光景に、僕は決心した。今しかない。この気持ちを、ちゃんと自分の言葉で伝えよう。
「月島さん」
僕が口を開いたのと、彼女が「神木くん」と呟いたのは、ほぼ同時だった。
「あ、ごめん。先にどうぞ」と彼女は言う。僕は首を横に振った。
「いや、月島さんから」
彼女は少し躊躇うように視線を落とし、それから覚悟を決めたように顔を上げた。その瞳は、花火の光を映して、濡れたように潤んでいた。
「私ね、もうすぐ目が見えなくなるんだ」
その言葉は、どんな花火の音よりも大きく、僕の鼓膜を、そして心を激しく揺さぶった。
「……え?」
「進行性の病気でね。だんだん視野が狭くなって、色も分からなくなって……いずれは、光も。だから、今のうちに、見ておきたいものを全部、目に焼き付けておきたかったの。大好きな、空の景色を」
彼女は、静かに、けれどはっきりと続けた。
「君といる時の空は、いつも不思議だった。面白い形の雲が次々現れて、空がまるで生きているみたいで。だから、君のそばにいたかった。君が、私に特別な空を見せてくれているような気がして」
僕は言葉を失った。僕が呪ってきたこの体質が、彼女の世界を彩っていた? いや、違う。ふと、僕は気づいてしまった。
「……月島さん。僕の、頭の上の雲、見えてたのか?」
彼女はきょとんとした顔で僕を見た。
「頭の上? ううん、そうじゃなくて。君と話してると、遠くの空に、偶然きれいな雲が見えることが多かったから。ただの偶然なんだけどね」
偶然。そう、全ては偶然だったのだ。彼女は僕の体質など知らなかった。彼女は、失われゆく光の中で、必死に世界の美しさをつなぎとめようとしていただけだ。僕の存在は、そのきっかけに過ぎなかった。僕が自分のちっぽけな秘密に悩み、一喜一憂している間に、彼女は想像もつかないほどの大きな絶望と、たった一人で向き合っていたのだ。
ドーン、とひときわ大きな花火が打ち上がる。その閃光の中で、僕は自分の頬を何かが伝うのを感じた。それは、あまりにも無力で、情けない、ただの涙だった。
第四章 君のために描く空
祭りの夜から数日、僕は自分の部屋に閉じこもった。空には、僕の自己嫌悪と後悔を映した、鉛のように重い雨雲が停滞し続けた。彼女の抱える痛みに比べれば、僕の悩みなどなんと矮小なことだったか。彼女に特別な空を見せていたのは僕の能力ではなかった。ただの偶然。その事実が、僕を打ちのめした。僕には、彼女のためにできることなど何もないのだと。
「いつまでそうしてるつもりだ」
ドアをノックもせずに、陽介が入ってきた。
「お前が落ち込んでるせいで、町中ずっと曇り空だぞ。洗濯物が乾かないって、うちのオフクロが文句言ってた」
「……ほっといてくれ」
「ほっとけるかよ。お前、このまま終わらせる気か? 月島さんに何も伝えずに?」
陽介の言葉が、僕の胸に突き刺さる。そうだ。僕はまだ、何も伝えていない。僕の最も大切な感情を、言葉にできていない。
偶然だったかもしれない。でも、僕の感情が空を動かしていたのは事実だ。僕のこの力は、呪いなんかじゃない。言葉にできない想いを形にするための、僕だけの特別な言葉じゃないか。
僕はベッドから跳ね起きた。
「陽介、ありがとう」
「おう。行ってこいよ。最高の空、見せてやれ」
僕は家を飛び出し、月島さんの家へと走った。息を切らしてインターホンを鳴らすと、驚いた顔の彼女が出てきた。
「神木、くん……?」
「来てほしい場所があるんだ。今すぐ」
僕は彼女の手を取った。その手は、驚くほど小さくて、少し冷たかった。僕たちは無言で、祭りの夜に花火を見た、あの丘へと向かった。
丘の上に立つと、町並みが一望できた。まだ僕の憂鬱を引きずった灰色の雲が、空を覆っている。
「月島さん。僕には、君に伝えたいことがある」
僕は深呼吸をして、彼女に向き合った。
「僕は、君が好きだ。君が初めて僕に話しかけてくれた日から、ずっと。君の笑顔を見るたびに、僕の世界は色鮮やかになった。君が抱えている悲しみを、僕が全て拭うことなんてできないかもしれない。でも、これだけは信じてほしい。僕のこの気持ちは、本物だ」
言葉を紡ぐたびに、僕の感情が爆発的に高まっていく。申し訳なさ、愛しさ、切なさ、そして未来への祈り。それら全てが渦を巻いて、僕の体から空へと駆け上っていく。
すると、空を覆っていた灰色の雲が、みるみるうちに形を変え始めた。それは、巨大な翼だった。片方は朝焼けのような希望のオレンジ色に、もう片方は夜明け前の深い藍色に染まっている。喜びと悲しみが混じり合った、僕の全ての感情を乗せた、巨大な翼の雲。僕が、彼女のためだけに描いた、空への言葉。
彼女は、ぼやけ始めた視界で、懸命に空を見上げていた。
「……すごい。空が……燃えてるみたい」
その瞳にはっきりと翼の形が見えていないことは、分かっていた。でも、彼女は微笑んでいた。その頬を、一筋の涙が伝った。
「……きれい。今までで一番、きれいな空。見えるよ、神木くんの気持ち。ちゃんと、心で見える」
彼女は視覚ではなく、僕の感情そのものを、その気配を、全身で受け止めてくれていた。僕たちは、言葉も、視線も超えた場所で、確かに繋がったのだ。
それから数年が経った。
僕は、大学で気象学を学んでいる。隣には、白い杖を手に、穏やかに微笑む澪がいる。大人になるにつれて、僕の感情が雲を作ることはなくなった。嵐のような思春期と共に、あの不思議な力は役目を終えたように消えていったのだ。
でも、僕はもう、自分の感情を表現することを恐れない。
「澪。今日の空はね、君への想いみたいな、どこまでも続く、穏やかで大きなうろこ雲が広がってるよ」
僕は彼女の手を取り、そう語りかける。僕の言葉が、彼女の世界の空を描く。視力を失っても、彼女は僕の言葉を通して、誰よりも豊かな空を見ることができる。
空を見上げるたび、僕はあの夏の日を思い出す。言葉にならない想いが空に浮かんだ、青く、切ない季節。そして、僕が本当に伝えたいことは、雲になどしなくても、ちゃんとこの声で、この手で、伝えられるのだと知った日のことを。僕たちの青春は空に溶けて消えたわけじゃない。形を変えて、今も、この胸の中で輝き続けている。