夏空のフォトグラム

夏空のフォトグラム

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第一章 蜃気楼のファインダー

高校二年の夏は、まるで気の抜けた炭酸水のようだった。じりじりとアスファルトを焦がす太陽も、教室を満たすアンモニア臭混じりの熱気も、何もかもが現実感を失い、薄い膜の向こう側にある出来事のように感じられた。僕、水島湊は、そんな生温い日常を、カメラのファインダー越しに眺めることでやり過ごしていた。

写真部に籍を置いているものの、そこに情熱はなかった。ただ、四角いフレームで世界を切り取る行為が、煩わしい人間関係や、得体の知れない未来への不安から、僕を一時的に切り離してくれるだけだった。シャッター音だけが、僕がまだこの世界に存在していることの、か細い証明だった。

その日も、僕は目的もなく街を彷徨い、古びた商店街の奥にひっそりと佇む古書店に吸い寄せられた。黴と古紙の匂いが混じり合った独特の空気が、肺を満たす。埃をかぶったガラクタの山の中に、それはあった。黒い革張りのボディに、鈍い銀色のレンズ。無骨で、けれど確かな存在感を放つ、古いフィルムカメラだった。手に取ると、ずしりとした重みが心地よかった。何かに導かれるように、僕はなけなしの小遣いでそれを手に入れた。

帰り道、僕は蟬時雨が降り注ぐ公園のベンチに腰掛け、早速そのカメラを構えた。何を撮るでもなく、夏草が茂るだけの、ありふれた風景にレンズを向ける。カシャン、と小気味よくも重たいシャッター音が響いた。フィルムを一本撮り終え、近所の写真屋で現像を頼む。特別な期待など、何もなかった。

翌日、受け取った写真を見て、僕は息を呑んだ。脳が理解を拒絶する。心臓が嫌な音を立てて脈打った。

そこに写っていたのは、夏草の緑だけではなかった。写真の中央で、白いワンピースを着た少女が、こちらを向いて屈託なく笑っていたのだ。腰まで伸びた黒髪、少し困ったように下がる眉、そして、太陽の光をすべて吸い込んでしまうような、眩しい笑顔。

間違えるはずがない。それは、一年前に交通事故で死んだはずの僕の幼馴染、高梨夏帆だった。

僕がシャッターを切ったあの公園のベンチには、誰もいなかった。いるはずがなかった。なのに、写真の中の彼女は、まるでそこにいたかのように、あまりにも鮮明に、生き生きと写り込んでいる。これは、心霊写真なのだろうか。それとも、この茹だるような夏の暑さが見せる、幻なのだろうか。僕は混乱しながらも、他の写真を確認する。商店街の角、跨線橋の上、寂れたバス停。僕が撮ったはずの無人の風景のすべてに、様々な表情の夏帆がいた。まるで、僕の知らない彼女の一年間を、後から見せられているかのように。

僕の退屈な日常は、その日、静かに、しかし決定的に崩れ去った。ファインダーの向こうに、死んだはずの君がいる。この夏は、もう二度と、元の色には戻らないだろう。

第二章 重なる像、揺れる心

その日から、僕は呪われたようにシャッターを切り続けた。夏帆が写るカメラ。非科学的で、荒唐無稽な現象。けれど、ファインダー越しに彼女の幻影を追いかける行為は、僕の乾ききった心に、奇妙な潤いを与えた。

法則のようなものがあることに、やがて気づいた。夏帆との思い出が色濃く残る場所で撮ると、彼女はより鮮明に写るらしかった。二人で初めて映画を観た映画館の跡地。よく寄り道した駄菓子屋。彼女に「湊の写真は、なんだか優しいね」と、初めて褒めてくれた、夕暮れの河川敷。

僕は、失われた時間を取り戻すかのように、記憶の地図をなぞって歩いた。現像された写真の中の夏帆は、僕の知らない服を着て、僕の知らない表情をしていた。それが、彼女がまだどこかで生きている証のように思えて、胸が苦しく締め付けられた。僕は、夏帆の死から目を逸らし、彼女との思い出に蓋をすることで自分を守ってきた。だが、このカメラは、僕に過去と向き合うことを強要しているようだった。

そんな僕のモノクロームの世界に、突然、鮮やかな色彩を放つ存在が現れた。

「そのカメラ、かっこいいね。なんていう機種?」

放課後の写真部の部室。暗室の赤い光の中で、声をかけてきたのは転校生の一ノ瀬陽(いちのせあきら)だった。ショートカットがよく似合う、快活な少女。その笑顔が、なぜか一瞬、夏帆と重なって見えて、僕はどきりとした。

「……古いだけの、ガラクタだよ」

ぶっきらぼうに答える僕に、一ノ瀬は怯むことなく続けた。

「でも、水島くんが撮る写真は、すごく綺麗。光の捉え方が、なんていうか……切ない感じがして、好きだな」

彼女の真っ直ぐな言葉は、僕が築いてきた心の壁を、いとも簡単にすり抜けてきた。一ノ瀬は僕のカメラに純粋な興味を示し、僕たちの間にはぎこちないながらも、会話が生まれるようになった。彼女は太陽のように明るく、その隣にいると、僕の周りを覆っていた澱んだ空気が、少しだけ浄化されるような気がした。

ある週末、僕たちは二人で撮影に出かけた。海沿いの古い港町。潮の香りが鼻をくすぐり、ウミネコの鳴き声が空に響く。一ノ瀬は、錆びついた錨や、ペンキの剥げた漁船にレンズを向け、楽しそうにシャッターを切っていた。その無邪気な横顔を、僕は思わず自分のカメラで撮っていた。

「あ、今撮ったでしょ」

「……別に」

「見せてよ」

「だめだ。まだ現像してない」

僕は咄嗟に嘘をついた。本当は、怖かったのだ。このカメラで一ノ瀬を撮ったら、そこに夏帆が写り込んでしまうのではないか。目の前の確かな存在が、過去の幻影に侵食されてしまうことが、たまらなく恐ろしかった。一ノ瀬という現在と、夏帆という過去。二つの像が僕の中で重なり、心を揺さぶる。この不思議なカメラの秘密を、彼女に打ち明けるべきか。僕は答えを出せないまま、ただファインダーを覗き続けることしかできなかった。

第三章 二重露光の真実

心の振り子は、揺れ続けていた。このまま夏帆の幻影を追い続けるのか。それとも、一ノ瀬という光に手を伸ばすのか。僕は、けじめをつけなければならないと感じていた。すべての始まりであり、終わりである場所で、最後のシャッターを切る。そう、決心した。

向かったのは、街外れの緩やかなカーブが続く坂道。一年前の雨の日、夏帆が命を落とした場所だ。あの日の記憶は、今も生々しい。僕と些細なことで喧嘩をし、泣きながら自転車で走り去って行った彼女の背中。追いかけようとした僕の目の前で、スリップしたトラックが……。もし、僕があの時、彼女を引き留めていれば。後悔が、鉛のように心を沈ませる。

蝉の声が、あの日のサイレンの音と重なる。僕は震える手でカメラを構えた。夏帆との思い出が、最も強く、そして最も悲しく焼き付いたこの場所。ここで撮れば、きっと、彼女は何かを伝えてくれるはずだ。僕は祈るように、シャッターを切った。

翌日。写真屋から受け取った一枚のプリントを前に、僕は言葉を失った。そこに写っていたのは、事故当時の情景だった。雨に濡れたアスファルト。歪んだ自転車。そして、その傍らで倒れている夏帆の姿。あまりの生々しさに、吐き気がこみ上げる。

だが、僕を本当に震撼させたのは、そこではなかった。

写真の隅に、もう一人、人物が写り込んでいたのだ。傘を差し、呆然と立ち尽くす女性。その手には、僕が今持っているのと全く同じ、黒い革張りの古いカメラが握られていた。そして、その女性の顔には見覚えがあった。夏帆の一つ年上の姉、今は遠い街で暮らしているはずの、美咲さんだった。

その瞬間、雷に打たれたように、すべてのピースが繋がった。

これは、心霊カメラなどではなかった。このカメラは元々、美咲さんのものだったのだ。彼女は、最愛の妹を失った悲しみの中で、妹が生きていた証を、その姿を、必死に撮りためていたのだろう。僕が見ていた様々な表情の夏帆は、すべて美咲さんが撮影したものだった。そして、彼女が引っ越しの際に手放したカメラが、偶然、古書店に流れ着き、僕の手に渡った。

カメラの中には、まだ現像されていないフィルムが残っていた。僕がシャッターを切るたびに、古い未現像のフィルムが少しずつ巻き上げられ、美咲さんが撮った夏帆の姿と、僕が撮った風景が、二重露光となって一枚の写真に焼き付けられていただけなのだ。

僕が追いかけていたのは、夏帆の幻影ではなかった。それは、妹を深く愛した姉の、痛切な記憶そのものだった。

僕は、夏帆の死から逃げ、彼女の思い出に蓋をしていた。一方、美咲さんは、その思い出と向き合い、写真という形で永遠に留めようとしていた。同じ喪失を体験しながら、僕たちの向き合い方は、あまりにも違っていた。自分の身勝手さが、浅はかさが、どうしようもなく恥ずかしかった。ファインダー越しに見つめていたのは、夏帆じゃない。自分の罪悪感が生み出した、都合のいい幻だったのだ。

足元から、世界が崩れていくような感覚に襲われた。僕の夏は、幻だった。

第四章 未来へのシャッター

真実の重みに、僕は打ちのめされていた。部室で一人、膝を抱えていると、心配した一ノ瀬がやってきた。僕は、ぽつりぽつりと、カメラにまつわるすべてを彼女に話した。僕の独りよがりな感傷も、醜い罪悪感も、すべて。彼女は黙って、最後まで聞いてくれた。

「……会って、謝りたい。夏帆のお姉さんに。そして、このカメラを返さなきゃいけない」

それが、僕がようやく絞り出した答えだった。

「うん」と頷いて、一ノ瀬は言った。「一緒に行くよ。一人じゃ、心細いでしょ」

その言葉が、どれほど僕を救ってくれたか、彼女は知らないだろう。

週末、僕たちは美咲さんが住む街へと向かった。電車の窓から流れる景色が、まるで別の世界のもののようだった。インターホンを押し、現れた美咲さんは、写真で見たよりも少し大人びて見えた。僕がカメラを差し出すと、彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「そう、このカメラ……。あなたが持っていたのね」

僕が事情を話し、深く頭を下げると、美咲さんは静かに首を振った。

「謝らないで。むしろ、ありがとう。あなたのおかげで、このフィルムがちゃんと写真になれたんだから」

彼女は、現像された写真の束を愛おしそうに撫でた。

「このカメラのおかげで、あなたも、夏帆の新しい一面を見つけられたでしょう? あいつ、あなたの前じゃきっと、見せない顔もしてたはずだから」

美咲さんの言葉は、僕の罪悪感を、温かい光で包み込むようだった。

「写真はね、過去をただ閉じ込めておくためのものじゃないと思うの」と彼女は続けた。「未来へ進むために、大切な記憶をしまい、時々取り出して眺めるための、宝箱みたいなものよ。だから、あなたも自分の宝物を、これからたくさん撮っていきなさい」

帰り道、僕の心は不思議なほど軽やかだった。僕が撮っていたのは幻影ではなかった。それは過去そのものであり、決して消えない記憶の欠片だったのだ。過去から逃げるのではなく、それを受け入れて、胸にしまって生きていく。美咲さんの言葉が、僕にその覚悟をくれた。

東京に戻った僕は、久しぶりに自分のデジタルカメラを手に取った。そして、ファインダーを覗く。そこにいたのは、隣で心配そうに僕の顔を覗き込んでいる一ノ瀬だった。強い西日が彼女の髪を透かし、輪郭を金色に縁取っている。その笑顔は、夏帆に似ているようでいて、全く違う、一ノ瀬だけの強い輝きを放っていた。

カシャッ。

軽いシャッター音が響く。ファインダーの中の彼女は、僕が知る誰でもない、「今」を生きる一ノ瀬陽だった。

僕の夏は、幻なんかじゃなかった。失われた過去と向き合い、そして、かけがえのない現在を見つけるための、長い旅だったのだ。現像されたプリントには、光の中で笑う彼女がいた。その写真は、もう二度と、誰かと重なることはない。僕が、僕自身の瞳で捉えた、未来への最初のフォトグラムだった。

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