第一章 透明な男と残された詩集
朝の七時半。新宿駅の西口広場は、黒とグレーのスーツに身を包んだ人々の川だった。皆、同じ方向へ、同じような無表情で流れていく。俺、平野健太(ひらのけんた)、三十二歳も、その川の一部だった。大手広告代理店でクリエイティブディレクターとして働く俺の信条は、効率と成果。無駄な感情や時間は、人生のノイズでしかない。
その流れに逆らうように、広場の隅、巨大な柱の根元に、いつも「彼」はいた。年の頃は七十前後だろうか。日に焼けて深い皺が刻まれた顔。着古したジャンパーに、埃っぽいズボン。いわゆる、ホームレスだ。だが、彼は他の誰とも違っていた。物乞いをするでもなく、ただ静かに、分厚い文庫本を読んでいた。その姿はまるで、周囲の喧騒から切り離されたモノクロ映画のワンシーンのようだった。
俺は彼を「透明な男」と呼んでいた。誰もが彼の存在を認識しながら、まるでそこにいないかのように通り過ぎていくからだ。俺自身も、彼を風景の一部、都市の染み程度にしか思っていなかった。「自己責任」という便利な言葉で、彼のような存在を思考の外に追いやって。
その朝、何かが違った。いつもの場所に、彼の姿がなかったのだ。代わりに、彼がいつも座っていた段ボールの上に、一冊の古びた文庫本と、握りこぶしほどの灰色の石がちょこんと置かれていた。人々は気にも留めず、その横を足早に通り過ぎていく。だが、俺の足はなぜか、その場で縫い付けられたように動かなくなった。
何かが、俺の中の硬い殻を、コツンと叩いた気がした。まるで、あの石のように。衝動的に、俺は人波をかき分け、その本を拾い上げた。ひどく日に焼け、ページの角が丸まった詩集。表紙には『空の欠片(かけら)』とだけ記されていた。ざらりとした感触が、指先に妙な現実感を与える。俺は詩集をカバンに押し込むと、何事もなかったかのように再び人々の川に合流した。だが、心臓の鼓動は、明らかにいつもより速かった。
第二章 影を追って
その夜、俺は高級マンションの一室で、透明な男が残した詩集を開いていた。普段なら、持ち帰った仕事の資料か経済誌に目を通している時間だ。ガラス窓の向こうには、宝石を撒き散らしたような東京の夜景が広がっている。成功の証であるはずのその光景が、今夜はなぜか空虚に見えた。
『アスファルトの隙間に咲く花は/誰の涙を吸って色づくのか』
最初のページにあった、短い詩。平易な言葉で綴られているのに、ずしりとした重みがあった。俺はページをめくる手を止められなかった。そこには、俺がノイズとして切り捨ててきた世界の、痛みや、ささやかな喜びが、静かに息づいていた。都会の片隅で見る月、雨の匂い、誰かに忘れられた猫。その一つひとつが、乾ききっていたはずの俺の心に、染みのように広がっていく。
翌日から、俺の行動は奇妙に変化した。仕事の合間を縫って、あの広場に通い、彼の行方を知る人間はいないか探し始めたのだ。初めは皆、胡散臭そうな目で俺を見た。小綺麗なスーツを着た男が、ホームレスの安否を気遣う。それは彼らの世界では、あり得ない光景だったのだろう。
「あの爺さんかい? さあね、二、三日前から見ないね。風邪でもこじらせたんじゃないか」
炊き出しの列に並ぶ男が、面倒くさそうに言った。
「読書好きの田中さん? ああ、あの方は昔、教養のある人だったみたいだよ。でも、自分のことは何も話さないんだ」
支援団体の若い女性スタッフは、少しだけ心配そうな顔をした。
誰も彼の素性を知らなかった。彼は、社会の記録から完全に抹消された影のような存在だった。だが、俺は諦めきれなかった。彼を探すことは、いつしか、俺自身の空虚さを埋めるための行為に変わっていた。俺が見下していた世界に、俺が失くしてしまった何かがある。そんな予感が、俺を突き動かしていた。調査を続けるうち、俺はこれまで目を背けてきた現実を目の当たりにする。病気になっても病院に行けない人々、家族から見放された老人、夢破れて路上で暮らす若者。彼ら一人ひとりに、語られることのない物語があった。俺が信じてきた「自己責任」という言葉が、いかに傲慢で、冷たい刃であったかを思い知らされた。
第三章 石の下の真実
一週間が過ぎた頃、俺は再び詩集を手に取っていた。何度も読み返した詩の間に、何か硬い感触があることに気づいた。慎重にページを開くと、一枚の古い写真がはらりと落ちた。
セピア色に変色したその写真には、三人の男女が写っていた。人の良さそうな笑顔を浮かべた若い男。その隣で幸せそうに微笑む美しい女性。そして、男の腕に抱かれた、三歳くらいの小さな男の子。背景は、どこにでもありそうな小さな家の前だった。ありふれた、幸福な家族の肖像。
胸が締め付けられるような、懐かしい痛み。俺は写真を裏返した。そこには、震えるような、けれど力のこもった文字で、こう書かれていた。
『我が息子、健太へ。父より』
時間が、止まった。呼吸の仕方を忘れた。耳の奥で、キーンという金属音が鳴り響く。健太。それは、俺の名前だ。写真の幼子は、紛れもなく、アルバムで見た幼い頃の俺だった。そして、隣で笑う女性は、若き日の母。
では、この男は――。
「お父さんは、お前が三つの時に、事故で死んだのよ」
母が何度も繰り返した言葉が、頭の中で木霊する。嘘だ。そんなはずはない。だが、写真の男の面影は、鏡に映る自分自身の輪郭と、嫌というほど重なった。あの透明な男。俺が見下し、汚いもののように扱っていた、あのホームレスの老人が。俺が幼い頃に事業に失敗し、莫大な借金を残して家族を捨て、蒸発した、実の父親――。
俺の世界が、足元からガラガラと崩れ落ちていく音がした。自己責任。そう切り捨ててきた存在は、俺自身のルーツだった。俺が築き上げてきたプライドも、成功も、価値観も、すべてが砂上の楼閣のように思えた。俺は一体、誰を裁いていたんだ? 俺は、自分の父親を、風景の一部として、透明な存在として、毎日踏みつけて生きてきたのか。
床に落ちた写真を拾い上げる指が、震えていた。写真の中の父は、ただ優しく笑っている。その笑顔が、鋭いガラスの破片となって、俺の胸に突き刺さった。
第四章 アスファルトに咲く詩
俺は、父親の行方を知っているかもしれない唯一の場所、支援団体の事務所に駆け込んだ。やつれた俺の姿を見て、以前話した女性スタッフが驚いた顔をしたが、構ってはいられなかった。「田中さん、本名は田中昭雄(あきお)さんです! 彼がどこにいるか知りませんか!」
彼女の表情が、哀れみと悲しみに変わった。
「平野さん……落ち着いて聞いてください。田中さんは、三日前に、私たちが運営するシェルターで……亡くなりました。末期の癌でした」
最期の言葉は、聞き取れないほど弱々しかったという。ただ、彼女に、一冊の詩集と石を託した。「もし、立派なスーツを着た息子が探しに来たら、これを渡してほしい。来ないなら、そっと捨ててくれ」と。石は、彼が昔、幼い息子と拾った思い出の品らしかった。
「息子さんを、ずっと遠くから見守っていたみたいです。あなたの会社のビルの前で、嬉しそうに空を見上げていることがありました。あなたに会って、迷惑をかけたくなかった。自分のせいで、惨めな思いをさせたくなかった、と……。本当に、あなたのことを誇りに思っていました」
涙が、溢れて止まらなかった。父親は、俺を捨てたのではなかった。守ろうとしていたのだ。彼のやり方で。俺が「透明」だと思っていた彼は、誰よりも俺のことを見ていてくれた。俺が彼に貼った「自己責任」というレッテルは、そのままブーメランのように、俺自身に突き刺さった。
俺は会社に辞表を出した。母親に、すべてを話した。母は静かに泣き、そして初めて、父を許すと言った。俺たちは、何十年も止まっていた家族の時間を取り戻し始めた。
数日後、俺は再び新宿駅の西口広場に立っていた。手には、小さな花束。父親がいつも座っていた柱の根元は、もう誰の場所でもなかった。俺はそこに、そっと花を供えた。アスファルトの冷たい地面に置かれた、ささやかな彩り。
人々は相変わらず、無関心に俺の横を通り過ぎていく。だが、もう彼らは俺にとって、ただの「人々の川」ではなかった。一人ひとりに、語られない物語があり、痛みがあり、そして愛がある。
父が残した詩集の最後の一節が、心に蘇る。
『空を見上げろ/欠片でもいい/そこには確かに、青が広がっている』
俺は空を見上げた。ビルの隙間から覗く空は、どこまでも青く澄み渡っていた。俺はこれから、このアスファルトの街で、見過ごされてきた小さな花に水をやるような生き方をしよう。それは、父が俺に遺してくれた、最も大切な詩なのかもしれない。冷たい風が頬を撫でたが、不思議と寒くはなかった。俺の人生の第二章が、静かに始まろうとしていた。