メメント・ブルーの水平線

メメント・ブルーの水平線

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***第一章 忘却の水平線***

僕の住むこの海沿いの町には、奇妙な風習がある。誰もが十八歳になると、人生で最も大切な記憶を一つだけ、岬の突端に立つ古い灯台に捧げなければならないのだ。町の人間はそれを「記憶献納」と呼び、大人になるための神聖な通過儀礼だと信じて疑わない。捧げられた記憶は、灯台の光となり、町を未来永劫照らし続けるのだと、誰もがそう聞かされて育つ。

僕、水島湊の十八歳の誕生日まで、あと一ヶ月。写真部の部室の窓から見える空は、夏の終わりの気怠さを滲ませた青色をしていた。現像液のツンとした匂いが満ちる暗室で、僕は一枚の写真を乾かしていた。幼馴染の夏川陽菜が、満開の紫陽花の前で笑っている。彼女の快活な笑顔は、まるで世界中の光を集めたように眩しかった。

「またその写真、見てるの?」
不意に背後から声がして、僕はびくりと肩を震わせた。陽菜だった。いつからそこにいたのか、彼女は僕の手元を覗き込んで、少しだけ寂しそうな、それでいてどこか諦めたような表情を浮かべた。
「いい加減、決めなよ。湊が捧げる記憶」
「……まだ、選べない」
「ふぅん。まあ、湊は記憶を撮るのが仕事みたいなもんだもんね。選ぶの大変か」

陽菜は去年、十八歳になった。彼女が何を捧げたのか、僕は知らない。儀式の内容は、本人以外には決して明かされないのが決まりだ。ただ、あの日を境に、陽菜は時々、僕の知らない遠い場所を見つめるような目をするようになった。僕たちの間に、薄くて透明な、けれど決して破れない膜ができたような気がしていた。

苛立ちと焦りが、胸の中で渦を巻く。なぜ、最も美しい思い出を捨てなければならないのか。それは、自分という人間を形作る一片を、自ら削り取るような行為ではないのか。

その日の放課後、僕は町の小さな図書館の郷土資料室にいた。何か手がかりはないか。この儀式の本当の意味を知りたかった。埃っぽい書架の奥で見つけたのは、町の創設者によって書かれたという古い航海日誌だった。黄ばんだページを慎重にめくっていくと、震えるようなインクの文字が目に飛び込んできた。

『この地に満ちる『悲嘆の霧』から民を守るため、我々は灯台を建て、最も強い光――すなわち、人の幸福の記憶を捧げることを決めた。これは祝福ではない。忘却による防衛である。記憶は、捧げた者から、そしていずれは町全体から、その熱量を失い、ただの記録へと成り下がるだろう』

祝福なんかじゃなかった。これは、何かから町を守るための、悲しい儀式だったのだ。僕が信じてきた町の伝説が、足元からガラガラと崩れていく音がした。そして同時に、新たな疑問が生まれた。僕たちは、一体何を忘れさせられているんだ?

***第二章 色褪せたスナップショット***

航海日誌の記述は、僕の心に重たい錨を降ろした。翌日、僕は陽菜にそのことを話した。いつものように、部室の窓辺でフィルムを巻きながら。
「陽菜、記憶献納って、本当は町を守るための……」
「あー、それね。聞いたことあるよ、昔の迷信。悲しい霧がどうとかってやつでしょ?」
陽菜はこともなげに言って、僕の言葉を遮った。その態度は、まるで聞きたくない話に耳を塞ぐ子供のようだった。
「迷信なんかじゃ……」
「いいじゃん、どっちでも。大切な儀式だってことには変わりないんだから。それより、次のコンテストのテーマ、どうする?」
彼女は強引に話を変えた。その瞳の奥に、一瞬だけ怯えのような色がよぎったのを、僕は見逃さなかった。僕たちの間の透明な膜が、また少し厚くなった気がした。

それから僕は、一人で町を歩き回るようになった。ファインダー越しに見る世界は、どこか奇妙な歪みを抱えているように感じられた。例えば、町の広場にある、かつて英雄と讃えられたという男の銅像。台座には立派な名前が刻まれているのに、彼が何をした人物なのか、正確に答えられる大人は一人もいなかった。「確か、町を救った偉い人だよ」と、誰もが曖昧に笑うだけ。

毎年夏に開かれる盛大な祭りもそうだ。誰もが熱狂し、神輿を担ぐ。しかし、その祭りが何を祝うためのものなのか、その起源を語れる老人すらいなかった。まるで、物語のクライマックスだけが残り、そこに至るまでの導入や伏線がごっそりと抜け落ちてしまった脚本のようだ。

忘却は、静かに、だが確実にこの町を蝕んでいる。人々は大切な記憶のディテールを失い、感情の伴わない「記録」だけを抱えて生きている。僕の撮る写真も、いつかはこの町の風景のように、意味や感情が剥がれ落ちて、ただの色の集合体になってしまうのだろうか。

陽菜との関係も、ぎこちないままだった。彼女は僕を避けるわけではない。けれど、僕たちの会話はいつも、核心に触れる手前で不自然に途切れた。二人で撮りためた写真のアルバムを眺めていても、彼女の視線はいつも、僕が指さす写真の少しだけ隣にずれている。まるで、そこに写っているはずの「何か」が見えていないかのように。

ある雨の日、僕はびしょ濡れで彼女の家に駆け込んだ。傘を貸してほしいと頼むと、彼女は少し困った顔をして、玄関の傘立てを指さした。
「ごめん、私の傘、一本しかなくて……あ、そうだ。湊の置き傘、まだあるはず」
そう言って彼女が取り出したのは、僕が小学生の頃に忘れていった、カエルの絵が描かれた黄色い子供用の傘だった。僕がそれを最後に見たのは、十年近く前のことだ。
「陽菜、これ……」
「え? ああ、湊のでしょ? 前に雨の日に貸してって言ってたから、ずっと置いといたんだよ」
彼女は悪びれもせずに言った。しかし、僕が傘を借りに来たのは、今日が初めてだった。僕の記憶が間違っているのか? いや、そんなはずはない。彼女は、僕との最近の記憶のどこかを、すっぽりと失っている。僕の背筋を、冷たい汗が伝った。

***第三章 灯台の告白***

陽菜の些細な記憶の欠落。それは、僕の中で無視できない巨大な疑念へと膨れ上がっていった。僕は再び図書館へ向かい、過去数十年分の「記憶献納」の記録を漁った。そこに個人の名前や捧げた記憶の内容は記されていない。ただ、儀式が行われた日付と、その年の灯台の光の強度が記されているだけだった。

記録を遡るうち、僕は一つの法則性に気づいた。町の歴史の中で、数年に一度、灯台の光が異常なほど強く輝く年がある。そして、その年は決まって、周辺地域で原因不明の長期的な悪天候や、住民の集団的な鬱症状が報告された年と一致していたのだ。航海日誌にあった『悲嘆の霧』。それは迷信などではなく、実在する現象なのだ。霧は物理的なものではなく、人々の精神に干渉する何かだ。そして、町の人々はその霧から守られる代償として、幸福な記憶の一部を差し出し続けてきた。

僕は去年の記録に目を落とした。陽菜が十八歳になった年。その年の光は、過去五十年で最も強く、眩いものだったと記されていた。彼女は、一体どれほど強くて、大切な記憶を捧げたというのか。

答えは、意外な場所にあった。僕自身の部屋だ。陽菜と撮った写真を整理していた時、古いアルバムの一番後ろに挟まっていた一枚の封筒が、はらりと床に落ちた。それは陽菜からの手紙だった。差出日は、彼女の十八歳の誕生日の前日。僕は、こんな手紙を受け取った記憶はなかった。震える手で封を切る。

『湊へ。
明日、私は灯台へ行きます。何を捧げるか、ずっと考えて、やっと決めました。
私が捧げるのは、「湊と初めて出会った日の記憶」です。
あの日の河原の匂い、夕日の色、初めてカメラを教えてくれた時の、あなたの少し照れたような顔。私の宝物です。だから、これを捧げます。
最近、町を包む空気が重いのを、湊も感じているでしょう? 今年の霧は、とても濃いらしい。だから、私の一番の宝物で、みんなを守りたい。湊のいるこの町を守りたい。
この記憶を捧げたら、私はきっと、あなたとの始まりを忘れてしまう。あなたとどうやって友達になったのか、分からなくなってしまうかもしれない。もしかしたら、あなたをただの「昔からの知り合い」くらいにしか思えなくなるかもしれない。
それでも、私はあなたとの未来が欲しい。始まりを失っても、明日からのあなたとの時間を、私は大切にしたい。だから、これはさよならじゃない。明日から、また新しい私たちを始めるための、私からのお願いです。
ごめんね、湊。そして、ありがとう。
陽菜』

手紙が、手から滑り落ちた。そういうことだったのか。陽菜が時折見せる戸惑いも、僕との間に感じていた距離も、全てはこのせいだったのだ。彼女は僕との関係の礎を、僕とこの町のために、自ら手放した。僕が大切に磨き上げてきた「僕たちの思い出」という宝物は、彼女の中では既に、土台の欠けた不確かなものになっていた。

僕が守りたかった記憶の価値を、誰よりも信じていたはずの陽菜が、それを捨てた。いや、捨てたのではない。守るために、捧げたのだ。僕が過去に固執している間に、彼女はとっくに未来を見ていた。僕は打ちのめされた。自分の未熟さが、ひどく恥ずかしかった。窓の外では、灯台の光が、まるで涙のように滲んで見えた。

***第四章 きみがはじまる朝***

十八歳の誕生日、夜明け前に僕は家を出た。湿った潮風が頬を撫でる。手には、愛用のカメラだけを握りしめていた。岬へと続く坂道を登りながら、僕の心は不思議なほど穏やかだった。迷いは、もうなかった。

灯台の前に立つと、扉がひとりでに開いた。中は螺旋階段になっており、壁にはこれまで捧げられてきた無数の記憶が、淡い光の粒子となって漂っていた。誰かの初恋、家族との食卓、友と笑い合った放課後。それらはどれも美しく、そしてひどく儚げだった。

頂上に着くと、巨大な水晶のようなレンズが静かに光を放っていた。僕はその前に立ち、深く息を吸う。
僕が捧げる記憶。それは、陽菜の手紙を見つけ、彼女の犠牲と町の真実を知り、絶望し、苦悩し、そして今この場所に立つことを決意した、この一ヶ月の記憶だ。

それは、僕が初めて誰かのために何かを失う覚悟を決めた記憶。陽菜への本当の想いに気づいた記憶。過去に囚われていた子供の自分が死に、未来へ向かう覚悟を決めた、僕の青春そのものだった。悲しみと痛みに満ちているが、間違いなく、今の僕を形作る最も大切な記憶だ。

「さよなら、弱かった僕」

目を閉じると、この一ヶ月の情景が鮮やかに蘇り、そして光の粒子となって僕の身体から離れていくのを感じた。世界が一瞬だけ白く染まり、次に目を開けた時、僕は灯台の入り口に立っていた。何か、とても大事なことを成し遂げたような感覚と、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が同居していた。僕は何を、忘れたのだろうか。

町へ戻る道すがら、僕は陽菜と出会った。彼女は僕を見ると、少し驚いたように足を止め、そして、初めて会う人にするみたいに、はにかむように微笑んだ。
「おはよう。……いい天気だね」
「ああ、おはよう」
僕も、ぎこちなく返した。彼女の中から「僕との始まり」が消えているように、僕の中からも「彼女の真実を知った苦悩」は消えている。僕たちは、お互いにとって少しだけ遠い、ただの幼馴染に戻っていた。

けれど、それでいいと思った。僕の首にかかったカメラを、彼女が眩しそうに見つめている。
「そのカメラ、素敵だね」
「……写真、好き?」
僕が尋ねると、彼女は一瞬、何かを思い出すように遠くを見て、そして満面の笑みで頷いた。
「うん、大好き。なんだか、すごく懐かしい気持ちがする」

失われた記憶の上で、僕たちはもう一度出会う。きっと、これからたくさんのすれ違いや、もどかしい思いをするだろう。けれど、僕たちの魂のどこかには、お互いを守るために捧げた記憶の熱が、静かに灯っているはずだ。

灯台の光が、昇り始めた太陽の光と混じり合い、新しい一日が始まる海を照らしていた。僕はカメラを構え、陽菜にレンズを向けた。カシャッ、と乾いたシャッター音が響く。それは、僕たちの二度目の青春が始まる、合図のようだった。

この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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