霞む虹色写真

霞む虹色写真

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第一章 色褪せ始める記憶の欠片

それは、葵だけの秘密だった。心臓が喜びで高鳴る時も、胸を締め付けるほどの切なさに苛まれる時も、手のひらに小さな写真が生まれる。息をのむほど鮮やかで、その瞬間の感情を凝縮したような色彩を放つ写真。だが、それは時間の流れと共に、じわじわと色彩を失い、やがてはモノクロの輪郭だけを残し、最後には光の粒子となって消え去ってしまうのだ。

高校二年の春、僕の日常は、そんな秘密と、幼なじみの光によって彩られていた。光は僕とは正反対の人間で、太陽のように明るく、奔放な笑顔がよく似合う。隣にいるだけで、澱んだ心が浄化されるような存在だった。今日も放課後、僕たちはいつものように屋上へ向かっていた。錆びついた手すりに肘をつき、街を見下ろす光の横顔は、夕焼けに染まってどこか神聖に見えた。僕は、そんな光の姿を胸に焼き付けようと、そっと手を握りしめた。すると、じんわりと温かさが広がり、手のひらに一枚の写真が浮かび上がった。光が、僕を見上げて屈託なく笑う瞬間が切り取られている。しかし、その写真の端は、すでにほんのわずかに、しかし確実に色褪せ始めていた。

「どうしたの、葵? 今日はなんだか元気ないね」光が心配そうに僕の顔を覗き込む。

僕は咄嗟に「なんでもない」と答えたが、内心では、また一つの大切な瞬間が、消えゆく運命にあることに焦りを感じていた。僕の持つ写真たちは、僕自身の青春の記録だ。喜びも、悲しみも、友情も、そして淡い恋心も、全てがこの手の中に生まれては消えていく。その全てを、僕は記憶として留めておきたいのに、それが叶わないことが、いつも心の奥底で重くのしかかっていた。

ある朝、登校途中のことだった。いつものように鞄に手を突っ込み、昨日生まれたばかりの、まだ鮮やかな光の笑顔の写真を確かめようとした時、指先に触れたのは、別の一枚の、ほとんど白黒になりかけた写真だった。それは、僕が最初にこの能力に気づいた頃、まだ小学校低学年の時に生まれた、最も古い写真だった。何が写っているのかも判然としない、ただの霞んだ光の輪。いつもならすぐに鞄の奥へと押し戻すのに、その日はなぜか、その写真がわずかに、しかし確かに、脈打つように輝いた。まるで、遠い過去から呼びかけてくるかのように。僕は立ち止まり、写真の小さな光を見つめた。それは、何かを告げようとしているかのように、僕の心をざわつかせた。

第二章 日常と消えゆくアルバム

僕の能力を知る者は、光ただ一人だった。初めて光に打ち明けた時、彼女は驚きはしたものの、すぐに「すごいね、葵! それって、まるで心のカメラみたい!」と、僕の不安を吹き飛ばすように笑ってくれた。それ以来、光は僕が写真を生成するたびに、その時々の感情を僕に尋ね、まるで自分ごとのように大切にしてくれた。時には、僕が忘れてしまいそうな感情を、光が鮮やかな言葉で表現し、僕の心に強く焼き付けてくれた。

僕たちは、ありふれた青春を駆け抜けていた。文化祭の出し物を決める話し合いで、夜遅くまで学校に残ったり、放課後に自転車を飛ばして、誰も知らない秘密の場所を探したり。光の隣にいる僕は、いつだって僕自身でいられた。彼女が笑うたび、僕の胸には喜びの波が押し寄せ、その感情は新しい写真となって手のひらに現れた。ノートには、そうして生まれた写真の「記憶」を書き留めるためのページが増えていく。日付と場所、そしてその時に感じたこと。拙い言葉で綴られたそれは、僕だけの「消えゆくアルバム」だった。僕は、写真が消えても、この文字だけは残ることを信じていた。

「ねえ、葵。この写真、本当にいつか消えちゃうの?」ある日の帰り道、光は僕が手のひらから取り出した、僕と彼女が初めて出会った日の写真を心配そうに見ていた。それは、ほとんどセピア色に染まっていて、輪郭も朧げになっていた。

「うん、たぶん。でも、だからこそ、今を大切にしないとって思うんだ。」僕の言葉に、光は少し寂しそうに微笑んだ。

「そっか。じゃあ、たくさん思い出作って、葵のノートにいっぱい書き残してね。私も、ちゃんと覚えてるから。」

その言葉は、僕の心を温かく包み込み、同時に、いつかこの温かさも消えてしまうのではないかという、漠然とした恐怖を改めて呼び覚ました。僕にとって、光との思い出は、何よりも大切なものだった。それらが写真と共に消えてしまうなんて、考えたくもなかった。

僕は、あの古い、ほとんど白黒の写真について光に話した。「何か意味があるのかもしれない」と、光は僕の言葉に真剣に耳を傾けてくれた。「もしかしたら、未来の葵が今の葵に送ったメッセージだったりして!」光は冗談めかして言ったが、その言葉は僕の心に、小さな波紋を広げた。

第三章 色褪せた時間からの声

文化祭が近づき、クラスは準備で活気に満ちていた。僕たちのクラスは、カフェを企画することになった。光は持ち前の行動力で、リーダーシップを発揮していた。僕は、裏方で飾り付けの絵を描いたり、メニュー表を作成したり。そんな日々の中で、僕と光は些細なことから口論になってしまった。

発端は、光の無茶なアイデアだった。カフェの目玉として、奇抜な仮装を提案したのだ。僕は、準備の遅れや予算のこともあり、それに反対した。感情的になった光は、「葵はいつもそうだ! 面白いことには水を差すし、新しいことには挑戦しない!」と、僕が最も恐れていた言葉を投げつけた。僕は反論しようとしたが、喉の奥が詰まり、何も言葉が出てこなかった。ただ、胸の奥がキリキリと痛み、張り裂けそうなほどの悲しみが押し寄せた。

その瞬間、僕の手のひらに、これまで見たこともない、黒に近い暗い色の写真が生まれた。それは、生まれた直後から猛烈な勢いで色彩を失い、見る見るうちに深いモノクロへと沈んでいく。まるで僕の心が、絶望の淵に沈んでいくかのようだった。光は、僕の手のひらの写真を見て、一瞬言葉を失った。そして、何も言わずにその場を立ち去ってしまった。僕の心には、ぽっかりと穴が開いたようだった。このままでは、光との美しい記憶も、いつかこの暗い写真のように、急速に色褪せ、消えてしまうのだろうか。僕は、僕自身の能力に、絶望的な感情を抱いた。

その夜、自室のベッドで、僕は光との口論の後に生まれた、真っ黒な写真を見つめていた。それはすでに、光を失った夜空のようだった。その隣には、一番古く、ほとんど白黒になりかけていた、あの最初の写真が置いてあった。なぜか、その写真が気になって仕方なかった。僕はそれを手に取り、じっと見つめる。すると、写真の中の霞んだ光の輪が、次第に形を成し始めた。それは、どこかの街角、古びたカフェの看板、そしてその脇に置かれた、色とりどりの花々が飾られた小さなイーゼルだった。

そして、信じられないことに、写真の縁に、手書きの文字が浮かび上がった。

「失うことを恐れるな、葵。記憶は色褪せても、心に残る。そして、その『色褪せた時間』こそが、未来を創る色になる。」

僕は息を呑んだ。このメッセージは、僕が今、最も求めていた言葉だった。だが、誰が? 何が?

震える指で写真の裏側をなぞると、さらに小さな文字が刻まれていることに気づいた。「20年後の葵より」。

僕の心臓が、激しく脈打った。この写真は、未来の僕からのメッセージだったのだ。写真に写るカフェは、未来の僕が、この能力と共に画家としての夢を叶え、初めて個展を開く場所だということも、そこには記されていた。

僕の価値観は、根底から揺さぶられた。消えゆく写真は、終わりではなく、未来への希望を秘めていたのだ。失われると思っていた記憶は、形を変えて僕の心に残り、そして、未来の僕を形作る色となる。この能力は、僕を苦しめるものではなく、未来への道標だったのだ。

第四章 色彩を取り戻す画布

未来の僕からのメッセージは、僕に深く、そして静かに染み渡った。写真が色褪せ、やがて消えることは、終わりではない。それは、記憶が心の中で熟成され、新たな意味を持つためのプロセスだったのだ。失うことを恐れるあまり、僕は「今」を真正面から見つめることを避けていたのかもしれない。だが、未来の僕は、その「色褪せた時間」こそが、未来を創る色になるのだと教えてくれた。

翌日、僕は光を探した。彼女は、教室の隅で、いつもとは違う憂鬱な顔で窓の外を見ていた。僕は、意を決して光に話しかけた。

「光、昨日はごめん。僕が、君のアイデアを頭ごなしに否定してしまった。僕は、変わるのが怖くて、君の自由な発想を理解しようとしてなかったんだ。」

光は、ゆっくりと僕の方を振り向いた。その目には、まだ少し悲しみが宿っていた。

「私も、ごめんね、葵。言いすぎた。葵が大事なものを失うことを恐れているって、知ってたのに。」

僕たちは、しばらくの間、ただ互いの顔を見つめ合っていた。そして、自然と、僕の手に一枚の写真が生まれた。それは、あの黒い写真とは対照的に、穏やかな虹色を帯びていた。そして、今まで見たどんな写真よりも、ゆっくりと、しかし確かなペースで色彩を保っていた。

その瞬間、僕の心の中で何かが弾けた。写真が消えても、その時に抱いた感情や、光との経験、そこから得られた学びは、決して消えないのだと。むしろ、それは僕の心の中に深く刻まれ、僕という人間を形成していく。僕は、ノートに言葉を書き留めるだけでなく、その感情を『絵』として表現し始めた。スケッチブックを開き、光との思い出、未来の僕からのメッセージ、そして今感じている希望を、色鉛筆や水彩で描いていく。写真が消えても、僕自身がその記憶を再構築し、新しい形として残せることに気づいたのだ。それは、僕が内面で成長し、自らの能力と向き合い、克服した証だった。

文化祭当日、僕たちのクラスのカフェは大盛況だった。光は仮装こそしなかったが、持ち前の明るさで客を惹きつけ、僕は、壁に飾られたイラストで、カフェを彩っていた。僕の描いた絵は、一枚一枚が、僕たちの青春の記憶の断片だった。光の笑顔、夕焼けの屋上、そしてあの未来のカフェの風景。どれもが鮮やかな色彩で描かれ、来客の目を引いた。光は、僕の絵を見て、「葵、すごい! この絵、すごく葵らしいよ!」と、心から喜んでくれた。僕の心は、温かい光に満たされていた。

第五章 虹の彼方、終わらない色彩

やがて、高校卒業の日が来た。光は、遠い大学へ進学するために、故郷を離れることになっていた。体育館での卒業式を終え、僕たちはいつもの屋上へと足を運んだ。春の陽光が降り注ぎ、風が優しく頬を撫でる。光は、相変わらずの笑顔で、しかしその瞳の奥には、どこか寂しさを湛えていた。

「ねえ、葵。私、遠くに行っちゃうけど、私との思い出、ちゃんと全部覚えててくれる?」

光の言葉に、僕は小さく頷いた。その時、僕の手のひらに、一枚の写真が生まれた。それは、これまでのどんな写真よりも鮮やかで、そして、虹色の光を放っていた。光と僕が、肩を寄せ合い、未来を語り合う姿が写っている。まるで、僕たちの青春の全てを凝縮したかのような、美しい一枚だった。しかし、その写真もまた、緩やかに、しかし確実に色褪せていく運命にある。

僕は、色褪せ始める虹色の写真を見つめながら、微笑んだ。もう、失うことを恐れてはいない。写真が消えても、その記憶がもたらした感情、光が教えてくれたこと、そして光という存在そのものが、僕の心に深く刻まれていることを知っているからだ。それは、僕自身の画帖に、無限の色彩となって描き続けられるだろう。

「覚えてるよ、光。全部、僕の心の中に、ずっと残ってる。そして、この『色褪せた時間』が、きっと未来の僕を彩る色になるんだ。」

光は、僕の言葉に目を潤ませ、そして、太陽のような笑顔を見せた。「うん! 私も、葵のこと、ずっと忘れないから!」

僕たちは、それぞれの道を歩み始める。光との記憶は、写真としては消えていくかもしれない。しかし、その記憶がもたらした感情、教え、そして光という存在そのものが、葵の心に深く刻まれ、未来の画帖を彩る。

僕は新しいスケッチブックを開き、そこに最初の虹色を描き始める。消えゆく記憶のその先に、無限の色彩が広がっていることを信じて。青春は、消えゆく写真ではない。それは、自分だけの画帖に描き続ける、終わらない色彩の旅なのだ。

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