声が色彩を失う日
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声が色彩を失う日

第一章 色褪せる橙

僕、アオイの声には、奇妙な力が宿っている。僕が言葉を紡ぐと、その声が触れた者の脳裏に、まだ訪れていない「未来の記憶」が断片的なイメージとして流れ込むのだ。それは霧の中の風景のように曖昧で、見た者さえはっきりと意味を掴めない、不確かな幻。

僕たちの住むこの港町では、もう一つの不思議が日常だった。友情や愛情、あるいは仕事への熱意といった強い感情は、持ち主の頭上に淡い「感情の色」となって常に輝いている。真鍮のように輝く情熱、新緑のような信頼、そして、太陽を溶かしたような橙色の友情。感情が昂れば色は濃くなり、薄れれば淡くなる。誰の目にもそれは明らかだった。

しかし、近頃、街は静かな病に侵されていた。特に僕らのような若者の間で、頭上の「友情の色」が、まるで長雨に打たれた絵の具のように、次々と色褪せて消えていくのだ。人々はそれを「友情褪色病」と呼び、見えない不安に顔を曇らせていた。

「また向こうの通りで二人、色が消えたらしいぜ」

放課後のカフェテラス。潮風が運んできた微かな塩の香りが、コーヒーの香りと混じり合う。向かいに座る親友のハルが、こともなげにそう言った。彼の頭上には、かつて燃えるようだった橙色が、今は頼りなく揺らめいている。その淡さに、僕は気づかないふりをしてカップを傾けた。

「他人事みたいに言うなよ」

「だって、俺たちには関係ないだろ?」

ハルは屈託なく笑う。だが、その笑顔がひどく脆いものに見えて、僕の胸はきりりと痛んだ。彼との友情だけは、決して失いたくない。この橙色だけは。

その思いが、言葉になった。

「ハルとの未来は、ずっとこの色のままだよな?」

声が震えた。その瞬間、僕の力が暴発する。周囲にいた学生たちの動きが止まり、その瞳が虚空を彷徨う。彼らの頭に、ハルの未来が流れ込んでいるのだ。だが、僕自身の脳裏に映ったのは、絶望的なほどに色のない光景だった。海辺に立つ二つの人影。それは間違いなく僕とハルだ。しかし、そこには感情の色が一切存在しない。ただ、輪郭だけの、灰色の影。

僕の親友の未来だけが、なぜかいつも「影」としてしか見えない。そして彼の友情の色は、今日もまた少し、薄くなった気がした。

第二章 空白の石の囁き

不安に駆られた僕は、一人、夕暮れの「友情の広場」に来ていた。石畳が茜色に染まる広場の中央には、街の伝承が息づく「空白の石」が鎮座している。かつてこの街で最も強く輝いた友情の色が、その持ち主が亡くなる際に凝縮して生まれたという伝説の石。だが、今ではその輝きをすべて失い、ただの大きな水晶のように透明だった。

冷たい石の表面にそっと触れてみる。何も感じない。ただ、ひんやりとした硬質な感触が指先を包むだけだ。僕の能力をもってしても、この石は沈黙を守っている。

「アオイも、気になってたのか」

不意に背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこにハルが立っていた。彼の薄れかけた橙色が、夕陽の赤と混じり合って、儚く揺れている。

「ハル……」

「みんな、自分の色が消えるのを怖がってる。俺も、正直……少しだけな」

彼は寂しげに笑い、僕の隣に立つと、躊躇いがちに「空白の石」へと手を伸ばした。彼の指先が石に触れた、その瞬間だった。

透明だった石の内部に、無数の光の粒が瞬いた。橙、萌黄、空色……かつてこの街を満たしていたであろう友情の色が、幻のように揺らめき、泡のように弾けて消えていく。それはまるで、遠い過去の記憶が奏でる、声なき声の残響。僕たちは、その儚い光景に息を呑んだ。石は何も語らない。だが、その内に秘めた無数の物語が、見えない絆の確かさを訴えかけているようだった。

やがて光は消え、石は再び静かな透明に戻った。ハルの頭上の橙色が、また少しだけ淡くなったように見えたのは、きっと気のせいではない。

第三章 影の未来図

僕たちは帰り道、昔のように他愛ない話をしようと努めた。だが、一度生まれてしまった亀裂は、そう簡単には埋まらない。僕らの間には、どこかぎこちない沈黙が漂っていた。

「なあ、ハル」

僕は立ち止まり、彼の目を見た。

「俺たちの未来って、どんな色をしていると思う?」

僕の言葉が、再び未来の扉をこじ開ける。ハルの未来図が、僕の脳裏に焼き付く。

やはり、影だ。

二人で崖の上から海を見下ろしている。風に髪がなびき、コートの裾が揺れる。だが、そこには喜びも悲しみも、どんな感情の色も存在しない。ただ、精巧に描かれた鉛筆画のように、モノクロームの世界が広がっているだけ。

恐怖が僕の心を鷲掴みにした。

「どうして……どうして色がないんだ! 友情が消えたら、俺たちの未来には、こんな空っぽの景色しか残らないのか!」

僕はハルに詰め寄っていた。抑えきれない感情が、声となって溢れ出す。

ハルは僕の言葉を静かに受け止めていた。彼の瞳は凪いだ海のように穏やかで、それが僕を一層苛立たせた。やがて彼は、ぽつりと呟いた。

「色が、すべてじゃない」

その一言が、ガラスの壁のように僕たちの間に横たわった。それ以上、何も言えなかった。街灯が灯り始め、僕とハルの影を長く、長く引き伸ばしていた。

第四章 声と沈黙の果て

街の「友情褪色病」は、まるで本当の病のように蔓延していった。友情の色を失った若者たちは互いを信じられなくなり、些細なことで諍いを起こし、孤立していった。人々は目に見える絆の証を失うことを、死ぬことよりも恐れていた。

僕のせいじゃないか?

僕の声が、友情という不確かなものを揺さぶり、壊しているのではないか?

自責の念が、鉛のように僕の心に沈み込んでいく。

そんな折だった。ハルが倒れた、と知らせが入ったのは。

病院に駆けつけると、ハルは白いベッドの上で静かに眠っていた。彼の頭上に揺れていたはずの橙色は、今はもう、蝋燭の最後の灯火のようにか細く、いつ消えてもおかしくないほどにまでなっていた。

医師は原因不明の衰弱だと告げた。まるで、感情の色が生命力そのものであるかのように。

僕は、眠るハルの冷たい手を握りしめた。指先がかじかむほどに冷たい。このまま、彼を失ってしまうのか。友情と、そして彼自身をも。

いやだ。

そんな未来は、絶対に受け入れられない。

僕は決意した。たとえどんな結末が待っていようと、もう一度、彼の未来を見る。

「ハル」

僕は囁いた。祈るように、彼の手に自分の額を押し当てて。

「俺たちの未来を、もう一度見せてくれ。どんなものでも、今度は必ず受け入れるから」

僕の声が、静かな病室に響き渡る。

その瞬間、今までで最も鮮烈なビジョンが、僕の脳髄を貫いた。

それは、やはり「影」の未来だった。

影のハルと、影の僕。色のない世界。しかし、その光景は以前とはまるで違って見えた。

影の二人は、ただ寄り添っていた。互いの肩にもたれかかり、静かに同じ景色を眺めている。そこに派手な色の輝きはない。だが、その影と影が触れ合う輪郭は、言葉にならないほどの優しさと慈しみに満ちていた。

そして、僕は見た。

影のハルの口元が、確かに、穏やかに、微笑んでいるのを。

色は、ない。

だが、そこには確かな「感情」があった。視覚を超えた、魂の温もりがあった。

第五章 名前のない光

そうか、そういうことだったのか。

僕は、雷に打たれたように真実を理解した。

友情の色が消えるのは、関係の終わりなどではなかった。それは、友情という名前では収まりきらない、より深く、より本質的な絆へと関係が変質する前触れだったのだ。

言葉や視覚で安易に定義できない、魂の結びつき。それはもはや「友情」という枠を超え、静かで普遍的な「愛」と呼ぶべきものへと昇華していた。

その絆は、物理的な「色」として他人の目に映ることはない。あまりにも内面的で、本質的すぎるから。だから、ハルの頭上の色は消え、僕の能力では「影」としてしか認識できなかったのだ。僕の力は、まだその深遠な感情の形を捉えきれなかった。

僕がその答えに辿り着いた、まさにその時。

「……アオイ」

か細い声が僕を呼んだ。ハルが、ゆっくりと目を開けていた。

彼の頭上から、最後の橙色の光が、ふっと静かに消え失せた。完全に。

しかし、彼の瞳は、以前よりもずっと深く、穏やかな光を宿して僕を見つめていた。

「気づいたんだな」

彼の声は弱々しい。だが、その響きには確かな安堵が滲んでいた。

僕たちは、夜明け前の冷たい空気に身を晒しながら、あの「友情の広場」へと向かった。眠り続ける街の石畳を、二人でゆっくりと踏みしめていく。

広場の中央、ハルは再び「空白の石」に触れた。

今度は、過去の色の残像は現れなかった。

代わりに、石そのものが、内側から淡い光を放ち始めた。それは何色でもない、名付けようのない、清浄な光だった。色を超えた絆だけが放つことのできる、魂の輝き。

「これが、俺たちの新しい形だ」

ハルが、光を映す石を見つめながら言った。

僕は黙って頷いた。もう、未来の断片を恐れることはない。僕の声が映し出す未来がたとえ「影」であっても、その影が持つ本当の意味を、僕はもう知っているからだ。

第六章 色のない空の夜明け

街から友情の色が消える現象は、その後も続いた。多くの若者が戸惑い、孤独に苛まれた。だが、僕とハルのように、色の消滅の先にあるものを見出す者たちが、少しずつ、本当に少しずつだが現れ始めた。彼らは、目に見える色に一喜一憂するのをやめ、見えない絆の温もりを、その手で確かめるようになった。

僕とハルは、港を見下ろす丘の上に座っている。

僕らの頭上には、もう何の色も浮かんでいない。空っぽだ。だが、隣にいる彼の体温、静かな呼吸、時折交わす視線。そのすべてが、どんな鮮やかな色よりも豊かで、僕の心を確かに満たしていた。

東の空が、白み始めている。夜の闇と朝の光が混じり合う、まだ色のない空。

「なあ、ハル」

僕は、その空を見つめながら問いかけた。

「この感情に、なんて名前をつけようか」

友情でもなく、恋でもない。もっと静かで、揺るぎない、この繋がり。

ハルはふっと微笑んで、僕と同じように空を見上げた。

「まだ、名前はなくていい」

彼の声は、夜明けの澄んだ空気の中に溶けていく。

「俺たちが、最初の二人になるんだから」

僕たちは言葉を交わすことなく、ただ隣に座り、ゆっくりと世界に色が戻り始める瞬間を待っていた。僕らの絆にふさわしい名前を、この新しい世界の中で、いつか見つけるために。


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