永遠が砕ける音
第一章 硝子の心臓
世界は、薄氷の上に成り立っている。
少なくとも、僕の目にはそう映る。
街を歩けば、恋人たちの小指から、あるいは商談を交わす大人たちの握手から、淡い光の粒子が立ち上るのが見える。それは空中で結実し、幾何学的な『結晶』となって彼らの胸元に収まる。約束の結晶。美しく、脆い、信頼の形。
「絶対、ずっと一緒だよ」
カフェの隣の席で、少女が笑った。その瞬間、僕の視界が歪む。
脳裏に走る激痛と共に、未来の映像がフラッシュバックする。あんなにも輝いていた結晶が、どす黒く濁り、粉々に砕け散る光景。少女の胸にぽっかりと空いた穴。そして、その穴から溢れ出す、血のように赤い『後悔』の泥。
僕は吐き気を堪え、コーヒーを飲み干して席を立った。
僕だけが知っている。その『永遠』が、三年後に裏切りによって破綻することを。
僕はこの能力のせいで、誰とも約束を結べない。誓いを立てようとすれば、その瞬間に「終わり」が見えてしまうからだ。回避しようとあがけば、未来はより惨たらしい形へと修正される。だから僕は、他者との関わりを断ち、硝子細工を扱うように慎重に息をして生きてきた。
だが、どんな予知の夢にも、必ず『彼』が現れる。
逆光の中に立つ、少年のシルエット。顔は見えない。けれど、彼が悲しげに笑っていることだけは痛いほど伝わってくる。彼は、僕が失ったはずの親友、ケイだ。
なぜ、砕け散る約束の向こう側に、いつもケイがいるのか。
その答えを探すため、僕は足早に坂道を登る。かつて僕らが「秘密基地」と呼んだ、あの廃給水塔へ向かって。
第二章 琥珀色のタイムカプセル
錆びついた鉄の扉を押し開けると、埃と湿ったコンクリートの匂いが鼻をついた。
ここは時間が止まっている。
壁に刻まれた身長比べの傷跡も、床に散らばった漫画雑誌も、十年前のあの夏のままだ。
僕は部屋の隅、床板が緩んだ場所へ歩み寄る。
心臓の鼓動が、警鐘のように早鐘を打つ。予知能力が悲鳴を上げているのだ。「これに触れてはいけない」と。だが、僕は震える手で床板を剥がし、土に埋もれた小さな缶箱を掘り出した。
タイムカプセル。
十年前、僕とケイが埋めた『約束の結晶』の核。
泥を払うと、缶箱はまるで呼吸するように、熱く脈動していた。
その時、僕の脳内に強烈なビジョンが流れ込んできた。
いつもの、約束が破綻する予知ではない。これは、記憶だ。いや、この缶箱の中で膨れ上がり、変質し、世界そのものを歪めるほどに巨大化した『誓い』の悲鳴だ。
『僕たちは、大人にならない』
『ずっとこの場所で、今のままの僕らでいよう』
幼い日の僕の声が、呪いのように響く。
視界が明滅し、廃給水塔の景色が歪む。
そこに立っていたのは、十年前の姿のままのケイだった。
彼は透き通るような肌で、しかしその体には無数のひび割れが走っている。まるで、限界まで張り詰めた硝子細工のように。
「……やっと、気づいてくれたんだね」
ケイが口を開く。その声は、風鈴の音に似ていた。
第三章 さよならの代償
「ケイ、お前……」
言葉が出なかった。
彼はそこに「いる」のに、命の匂いがしない。
理解してしまったからだ。
僕が探し求めていた『失われた友人』であるケイは、もうとっくにこの世にはいない。あるいは、遠い昔に去ってしまったのか。
目の前にいる『ケイ』は、僕があの日、あまりにも強く、あまりにも純粋に願ってしまった「変わらないでほしい」という『永遠の約束』そのものが、実体化した姿だったのだ。
僕が約束の破綻を予知するたびに彼が現れたのは、彼自身が「破られるべき約束」の象徴だったからだ。
この世界に蓄積された『後悔』の結晶たちが、彼を形作っていた。
僕が大人になることを拒み、変化を恐れる心が、彼をこの場所に縛り付け、永遠という名の牢獄に閉じ込めていたのだ。
「痛いんだ」
ケイが胸を押さえる。彼を構成する結晶が、ギチギチと悲鳴を上げる。
「君が未来を恐れるたび、君が約束を避けるたび、僕は強くなる。でも、もう限界なんだよ。時間は流れるものだ。留めておけば、いつか腐り落ちる」
予知の中で見た、最も悲劇的な破綻。
それは、僕がこの約束を守り続け、心を閉ざしたまま孤独に死んでいく未来だ。
それを回避する唯一の方法。
それは、僕自身の手で、この『永遠の約束』を終わらせること。
「壊してくれ」
ケイは泣きそうな顔で微笑んだ。
「僕を壊して、君は先へ行くんだ」
第四章 プリズムの空
「嫌だ……!」
僕は叫んだ。缶箱を抱きしめる。
これを壊せば、ケイは消える。僕の青春のすべてが、嘘になってしまう気がした。
「やっと会えたのに。約束を守りたかっただけなのに!」
「それが、僕たちの罪だったんだよ」
ケイが僕の手を、缶箱ごと優しく包み込む。彼の手は氷のように冷たく、そして硬かった。
「変わっていくことは、裏切りじゃない。成長だ。君はもう、十分に守ってくれた」
彼の瞳から、一雫の光がこぼれ落ちた。
それが合図だった。
僕の中で、何かが弾けた。
悲しみも、愛しさも、後悔も、すべてが混ざり合った濁流のような感情が喉を焼き尽くす。
僕は泣き叫びながら、缶箱を高く振り上げた。
「うああああああッ!」
コンクリートの床に、全力で叩きつける。
硬い金属音。
そして、世界が割れる音がした。
パリン、と。
あまりにも軽やかで、美しい音色だった。
目の前のケイの体が、光の粒子となって崩れ落ちていく。
「ありがとう」
その唇が動いた瞬間、廃給水塔の屋根が吹き飛んだかのように、視界が一気に開けた。
砕け散ったケイの欠片は、空へと舞い上がり、世界中に漂っていた無数の『後悔』の塵を巻き込んでいく。
黒ずんでいた後悔たちは、解放された約束の光に触れ、浄化されていく。
それは巨大なオーロラとなって、夕暮れの空を七色に染め上げた。
第五章 始まりの残像
光の雨が降り注ぐ中、僕は一人、立ち尽くしていた。
手の中にあった缶箱は、錆びたガラクタに戻っている。
もう、未来の崩壊は見えない。予知能力は、きれいさっぱり消え失せていた。
胸の奥に、温かい痛みが残っている。
『約束』という呪縛が解けた代償に、僕の心の一部は確かに欠落したのかもしれない。
けれど、その空白に、新たな記憶が流れ込んでくる。
それは、結晶化された理想のケイではなく、生身の、少し生意気で、よく笑う少年の記憶。
喧嘩して、仲直りして、そして「またな」と言って別の街へ引っ越していった、等身大の友人の記憶。
僕たちは、永遠になんかなれなかった。
でも、あの夏の日々は、確かにそこにあったのだ。
僕は涙を拭い、空を見上げた。
プリズム色の光は、もう見えない。ただ、一番星が静かに瞬いているだけだ。
「またな、ケイ」
僕は錆びた缶箱をそっとポケットにしまい、扉を開けた。
吹き抜ける風は、もう夏の匂いを含んでいない。
少し肌寒い、秋の気配がした。
僕は一歩、明日へと足を踏み出す。