第一章 星屑拾いの天文学部
僕、相葉湊(あいばみなと)が所属する天文学部は、たぶん日本で一番奇妙な活動をしている。部員は、部長である三年生の月島栞(つきしましおり)先輩と、僕の二人だけ。活動場所は、立ち入り禁止の札を無視した学校の屋上。そして、活動内容は、夜空から降ってくる「何か」を拾い集めることだった。
「湊くん、今日もいい夜だね。絶好の星屑拾い日和」
隣で栞先輩が、銀色のピンセットをカチリと鳴らしながら微笑む。彼女が「星屑」と呼ぶそれは、本物の星のかけらなんかじゃない。満月や新月の夜、まるで季節外れの雪のように、淡い光を帯びたガラス片のようなものが、音もなく空から舞い降りてくるのだ。大きさも形もまちまちで、指先ほどのものもあれば、砂粒のように細かいものもある。それらは地面に落ちると、数分で光を失い、ただの塵に変わってしまう。
僕たちの仕事は、それが光を失う前に、ピンセットでそっと拾い上げ、コルク栓のついた小瓶に保管すること。ただそれだけ。
「先輩。これ、一体なんなんですか」
入部してから三ヶ月、僕は何度目かになる質問を投げかけた。栞先輩はいつも通り、夜空から目を離さずに答える。
「さあ、なんだろうね。でも、きっと誰かにとって、すごく大切なものだよ」
その横顔は真剣そのもので、僕が抱く疑問や冷めた感情を、いともたやすく退けてしまう。僕がこの意味不明な活動に付き合っているのは、彼女に誘われたから、ただそれだけだ。去年の秋、教室の隅で文庫本ばかり読んでいた僕に、彼女は「君の瞳、夜空の色をしてるね。一緒に星を見ない?」と声をかけてきた。そのミステリアスな魅力に抗えず、気づけば僕は、毎晩のように彼女と屋上にいた。
その夜も、僕たちはいつものように、点々と光りながら落ちてくる星屑を拾っていた。湿った夜風が、夏の終わりの匂いを運んでくる。遠くで鳴る電車の走行音が、世界の現実感をかろうじて繋ぎとめていた。
「あっ」
栞先輩が小さな声を上げた。見ると、少し離れた場所に、ひときわ明るく、青白い光を放つ星屑が落ちていた。他のものより一回り大きい。先輩がそちらへ駆け寄ろうとした、その時だった。強い風が吹き抜け、その星屑が僕の足元まで転がってきた。
思わず、僕はそれを素手で拾い上げてしまった。栞先輩が「ダメ!」と叫んだのと、僕の指先がそれに触れたのは、ほぼ同時だった。
瞬間、頭の中に、知らないはずの光景が流れ込んできた。
——浴衣姿の少年と少女。夜空を埋め尽くす、大輪の花火。りんご飴の甘ったるい匂い。繋いだ手の、汗ばんだ感触。少女の笑い声と、それに答える自分のものじゃない、少し声の高い少年の声。「来年も、また来ような」という、確かな約束の言葉——。
「……はっ!」
息を呑んで目を開けると、僕は屋上のコンクリートの上に膝をついていた。手の中の光は消え、何も残っていない。心臓が激しく脈打っていた。今の、はなんだ? まるで、他人の人生の一場面を、五感すべてで体験したような……。
「湊くん、大丈夫!?」
駆け寄ってきた栞先輩が、心配そうに僕の顔を覗き込む。彼女の瞳には、僕が決して見せることのなかった焦りの色が浮かんでいた。
「今のは……記憶だ。誰かの、夏祭りの記憶……」
僕が掠れた声で呟くと、栞先輩は一瞬目を見開いた後、悲しそうに微笑んだ。
「うん。……それが、星屑の正体だよ」
その言葉は、僕が過ごしてきた退屈な日常の終わりと、奇妙で、切なくて、そして忘れられない日々の始まりを告げる号砲のように、静かな屋上に響き渡った。
第二章 忘れられた記憶の万華鏡
あの日を境に、僕の世界は一変した。栞先輩が語った真実は、僕の想像を遥かに超えていた。
「星屑は、誰かが強く願ったり、あるいは忘れてしまったりした記憶の欠片。この町の上空には、そういう記憶が集まりやすい『通り道』があるんだって。古い伝承でね」
僕たちはそれからも、星屑拾いを続けた。けれど、その活動の意味合いは、僕の中で全く違うものに変わっていた。以前はただのガラス片にしか見えなかったものが、今では一つ一つが、誰かの人生の一コマを内包したタイムカプセルのように思えた。
栞先輩の許可を得て、僕は時々、拾った星屑にそっと触れてみた。流れ込んでくる記憶は、まさに万華鏡のようだった。
ある星屑は、初めて補助輪なしで自転車に乗れた男の子の、高揚感に満ちた記憶だった。ペダルを漕ぐ足の感触、頬を撫でる風の心地よさ、そして「できた!」と叫んだ母親の喜びの声。僕はその記憶に触れながら、自分も幼い頃に同じ経験をしたことを思い出し、胸の奥が温かくなった。
またある星屑は、大喧嘩した親友と、気まずい沈黙の末に仲直りした放課後の教室の記憶だった。西陽が差し込む窓、チョークの匂い、「ごめん」という言葉の重みと、それが言えた時の安堵感。知らないはずの二人の友情に、僕はなぜか涙ぐんでしまった。
失くしたペットとの最後の散歩。コンクールで金賞を取った瞬間の喝采。祖母が握ってくれた、温かくて少ししょっぱいおにぎりの味。他人の記憶に触れるたび、僕の心の中には、今まで感じたことのない種類の感情が蓄積されていった。過去の出来事に縛られ、どこか世界を斜めに見ていた僕の心が、他人の人生の断片によって、少しずつ彩りを取り戻していくのを感じていた。
「湊くん、最近、表情が柔らかくなったね」
ある夜、小瓶に星屑を詰めながら、栞先輩がふと言った。
「そうですか?」
「うん。初めて会った時は、世界で一番つまらない映画を、無理やり見せられているみたいな顔してたから」
軽口を叩きながらも、彼女の眼差しは優しい。僕は少し照れくさくて、視線を逸らした。
「……先輩は、どうしてこの活動を始めたんですか?」
僕は、ずっと気になっていたことを尋ねた。これだけの数の記憶を集めて、一体どうするつもりなのだろう。
栞先輩は、ピンセットを置くと、夜空の向こう、一番明るく輝く月に目を向けた。
「私にもね、探している記憶があるんだ。とても大切で、でも、どうしても思い出せない記憶が」
その声には、いつもの明るさとは違う、微かな震えが混じっていた。
「いつか、この空から降ってきてくれるかもしれない。だから、待ってるの」
彼女の横顔に宿る切実な願いに、僕は何も言えなくなった。ただ、隣に座り、彼女と一緒に月を見上げた。僕たちは、ただの先輩と後輩でも、天文学部の部員同士でもない、もっと特別な何かで繋がっているような気がした。失われた記憶を探す彼女と、他人の記憶に救われている僕。二人だけの秘密の時間が、かけがえのないものに思えてならなかった。
第三章 満月の涙
季節は秋に移り、空気が澄み渡るようになった。その夜は、一年で最も月が美しく見えるという中秋の名月だった。銀色の光が屋上を白く照らし、星屑の軌跡がいつもより鮮明に見えた。
「今夜は、すごいのが来るかもしれない」
栞先輩は、どこか緊張した面持ちで呟いた。彼女の言葉を証明するかのように、その夜の星屑は、どれも強い光を放っていた。僕たちは無我夢中で、次々と舞い降りる光の粒を拾い集めた。
その時だった。
ひときわ大きく、まるで小さな太陽のように眩い黄金色の光を放つ星屑が、僕たちの視界の端を、流星のように横切った。それは、今まで見たどの星屑よりも巨大で、力強い光を宿していた。
「……待ってた」
栞先輩が、震える声で呟いた。彼女は弾かれたように立ち上がると、その光が落ちていく方向へと走り出した。普段の落ち着いた彼女からは想像もつかない、切羽詰まった姿だった。
「先輩!」
僕は慌てて彼女の後を追った。黄金の星屑は、屋上の給水塔の裏手へと吸い込まれるように消えていく。
給水塔の影にたどり着いた時、その星屑は、地面に落ちる寸前でふわりと浮いていた。栞先輩が、震える手を伸ばす。
「お願い……」
祈るような声。僕は、彼女が何をしようとしているのか悟った。これは、彼女がずっと探し続けていた記憶なのだ。
だが、強い風が再び吹き荒れ、星屑は彼女の手をすり抜けて、僕の方へと流されてきた。まずい、と思った時にはもう遅い。僕の手が、ほとんど無意識に、その強烈な光に触れてしまっていた。
——激しい光の洪水が、僕の意識を飲み込んだ。
見えたのは、栞先輩の記憶だった。今よりも少し幼い、中学生くらいの彼女。そして、その隣には、彼女によく似た、もっと小さな男の子がいた。二人は、河原で水切りをして笑い合っている。
「姉ちゃん、見て!五回も跳んだよ!」
「すごいじゃん、拓海!でも私は七回だよー!」
拓海、と呼ばれた少年が、悔しそうに唇を尖らせる。栞先輩が、その頭を優しく撫でる。夏の日の、あまりにもありふれた、幸せな光景。
次の瞬間、場面が切り替わる。けたたましいブレーキ音。悲鳴。道路に転がる、小さな自転車。そして、アスファルトに広がる、鮮やかな赤。
「拓海……!拓海!」
泣き叫ぶ彼女の声が、僕の鼓膜を突き破る。それは、数年前に起きた交通事故の記憶。彼女が、事故のショックで失ってしまった、最愛の弟との最後の日の記憶だった。
「……う、あ……」
意識が現実に戻ると、僕はその場に崩れ落ちていた。目の前には、呆然と立ち尽くす栞先輩がいた。彼女の大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出し、月の光を反射してきらきらと頬を伝っていく。
「たくみ……。そう、だ。拓海……」
彼女は、弟の名前を何度も、何度も繰り返した。忘却の彼方にあったはずの名前を、慈しむように、確かめるように。
「ごめんなさい……ごめんなさい、先輩……俺が、見てしまって……」
僕が謝ると、彼女はゆっくりと首を振った。そして、涙で濡れた顔のまま、僕に微笑みかけた。それは、僕が今まで見た彼女のどんな笑顔よりも、儚く、そして美しい笑顔だった。
「ううん。ありがとう、湊くん。思い出させてくれて。……やっと、会えた」
満月が照らす屋上で、僕たちはただ、泣いていた。一人は、失われた温もりを取り戻して。もう一人は、人の心の、あまりにも深い痛みと愛に触れて。僕が「青春」と呼んでいた時間が、その瞬間、取り返しのつかないほどの重みと輝きをもって、僕の胸に刻み込まれた。
第四章 夜明けの約束
あの日以来、栞先輩は変わった。弟・拓海くんの記憶を取り戻した彼女は、悲しみの底に沈むのではなく、むしろ憑き物が落ちたように、穏やかで、晴れやかな表情を見せるようになった。失われた記憶は、彼女を縛る鎖ではなく、未来へ進むための優しい光になったのだ。
「私、卒業したら、小児科のお医者さんになろうと思うんだ」
ある日、彼女は唐突に言った。
「弟みたいな子を、一人でも多く救いたい。ずっと、どうして自分が医者を目指してるのか、心のどこかで分からなかった。でも、やっと分かった」
その決意は、揺るぎない光を宿していた。僕もまた、彼女の姿を見て、自分自身と向き合わなければならないと感じていた。僕がずっと引きずっていた、親の都合で遠くへ引っ越してしまった幼馴染との、何も言えなかった辛い別れの記憶。逃げてばかりいたその過去に、今なら向き合える気がした。
卒業式を数日後に控えた、最後の部活動の日。僕たちはいつものように屋上にいた。でも、その夜は二人とも、星屑を拾おうとはしなかった。ただ、 молча、街の灯りと、空に瞬く本物の星を眺めていた。
「この天文学部も、今日で終わりだね」と栞先輩が言う。
「湊くんに、これを託します」
そう言って彼女が差し出したのは、今まで集めた星屑が詰まった、たくさんの小瓶だった。色とりどりの光が、瓶の中で静かに瞬いている。
「この活動を続けるかどうかは、湊くんが決めていい。でも、誰かの記憶に寄り添うことが、どれだけ温かいことか。私は、忘れない」
僕は黙って小瓶を受け取った。そして、ポケットから、ずっと持っていた小さな星屑を一つ取り出した。それは、初めて栞先輩と屋上で星を見た日の、僕自身の記憶だった。
「先輩。これは、俺の記憶です」
僕はそれを、彼女の掌にそっと乗せた。
「今日、先輩と一緒にここから星を見た、この瞬間の記憶。忘れたくないから、先輩に預かっていてほしいんです」
栞先輩は驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑んで、その星屑を大切そうに握りしめた。
「うん。……預かるね。絶対に、失くさないから」
それが、僕たちの交わした、夜明け前の約束だった。
季節は巡り、春が来た。栞先輩は卒業し、僕は高校三年生になった。一人になった屋上で、僕は時々、夜空を見上げる。相変わらず、空からは淡い光の粒が、静かに降ってくる。
でも、僕はもうそれを拾わない。
失われた記憶を追い求めることの切実さも、他人の記憶に触れることの温かさも知った。けれど、それ以上に大切なのは、これから僕が紡いでいく、まだ形のない未来の記憶なのだと気づいたから。
過去は、僕の一部だ。でも、僕の全てじゃない。
僕は空を見上げ、深く息を吸い込む。春の夜風が、新しい始まりの匂いを運んでくる。星屑が舞う空の下で、僕の本当の青春が、今、始まろうとしていた。