第一章 浮遊教室と虹彩の結晶
私たちの教室は、空に浮かんでいる。
窓の外には、どこまでも続くセルリアンブルーの空と、綿菓子のような雲の群れ。眼下には、緑青色の屋根瓦が点在する大人たちの街が、まるで精巧なジオラマのように広がっている。ここは、青春期を迎えた者たちが通う空中学園。誰もが自身の「心の重さ」に応じて、ふわりと体を宙に浮かせていた。
「なあ、ミナ。あれ、すごいよな」
隣の席のカイトが、指さす。彼の体は他の誰よりも高く浮いていて、椅子に固定されたベルトがなければ、天井に頭をぶつけてしまいそうだ。その視線の先では、一人の上級生が、眩い光の粒子を放ちながら空の彼方へと昇っていくところだった。噂の「昇天現象」。心の重さを完全に手放し、真の自由を手に入れた証だと、誰もが羨望の眼差しで見送っている。
「……自由、なのかな」
私は小さく呟き、自分の左の瞳にそっと触れた。私の体には「感情時間結晶化症候群」という、奇妙な呪いが刻まれている。強く心を揺さぶられるたび、その瞬間の時間が結晶となり、体の一部に根を張るのだ。私の左の虹彩には、幼い日に感じた悲しみの結晶が、氷片のように埋まっている。光の加減で、それは青く、鋭くきらめいた。
胸のポケットで、カチリ、と微かな音がした。私が自分の結晶を削って作った、透明な懐中時計。その秒針が、私の残り少ない「存在時間」を刻むように、不吉に震えていた。
第二章 透きとおる指先
この体質は、やがて私の体を内側から侵食し、存在そのものを透明にしてしまう。時間結晶が増えるほど、私の「今」は過去に喰われていく。最近では、ふとした瞬間に指先が陽光に透けるようになった。まるで、私がこの世界に存在したという事実そのものが、薄いガラスのように脆くなっていく感覚。
放課後の図書館は、古い紙の匂いと、静寂に満ちていた。私は「青春期の浮遊病」に関する文献を漁る。どの本にも、それは成長過程で誰もが経験する通過儀礼であり、「心の重さ」を獲得した者から順に、地に足をつけた「大人」になるのだと書かれているだけだった。昇天現象は、そのプロセスの稀な成功例として、数行で語られるのみ。
「古の時代、若者は空ではなく大地を歩んでいた」
たった一行の記述が、私の心に小さな波紋を広げた。私たちは、いつから空に縛られるようになったのだろう。この浮遊感は、本当に自由の証なのだろうか。
懐中時計をそっと取り出す。磨き上げられたガラスの内側で、結晶の秒針がまた一つ、カクン、と不自然に揺れた。私の時間が、また少し、削り取られた音だった。時計を強く握ると、周囲の世界が歪んで見える。カイトの軽い体は、今にも消えそうな儚い光を放ち、教室の誰もが、大小さまざまな輝きを持つ「感情時間結晶」を秘めているのが、私にだけは見えた。
第三章 祝福という名の忘却
昇天現象は、すぐ身近で起こった。
クラスメイトの一人、いつも物静かだった女子生徒が、授業の終わりにふっと体を浮かせたのだ。彼女の体から淡い光が溢れ、教室の誰もが息を呑んだ。それは神々しいまでの光景で、皆が口々に祝福の言葉を叫ぶ。
「おめでとう!」
「自由になるんだね!」
しかし、私の目には違うものが映っていた。懐中時計を通して視た彼女の瞳には、歓喜ではなく、戸惑いと恐怖の色が浮かんでいた。彼女が空へ消える瞬間、その体から弾けた結晶の光は、悲鳴のように鋭くきらめいた気がした。
翌日、教室には彼女の席がなかった。最初から、そこに誰もいなかったかのように。誰も彼女の名前を口にしない。いや、できないのだ。彼女が存在した記憶そのものが、世界から綺麗に消去されていた。私を除いては。
「いいよな、あいつも。悩みなんて、全部捨てちまったんだ」
カイトが、どこか虚ろな目で空を見上げながら言った。彼の笑顔が、ひどく危ういものに見える。
「カイト、あれは違う。自由なんかじゃ……」
「何が違うんだよ!地面に縛られてる大人たちより、ずっといいじゃないか!俺も、もっと軽くなりたい。ミナみたいに、色々考えすぎるのはやめにするんだ」
彼の言葉は、私の胸に冷たい結晶をまた一つ生み出した。それは、どうしようもない孤独の時間を固めたものだった。
第四章 無重力のサヨナラ
その日から、カイトは変わってしまった。彼は意図的に「心の重さ」を捨てようとし始めた。楽しかった思い出を忘れようとし、未来への不安から目を逸らし、ただひたすらに心を軽く、空っぽにしようと努めた。彼の体は日に日に高く浮き上がり、やがて、学園の屋上よりも高く、重力という概念から解き放たれてしまったかのように漂い始めた。
「やめて、カイト!」
私は必死に手を伸ばす。けれど、私の声は、彼が漂う高度までは届かない。
「見ててくれ、ミナ!俺、自由になるんだ!」
彼の叫びが、風に乗って微かに聞こえた。その瞬間、カイトの体から凄まじい光が迸る。それは、これまで見たどの昇天現象よりも強く、世界そのものを白く染め上げるほどの輝きだった。
私は咄嗟に懐中時計をかざした。視界がぐにゃりと歪む。カイトの体から、彼が生きてきた全ての時間の結晶が、無数の光の粒子となって溢れ出す。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ――その全てが、巨大な何かに吸い上げられるように、空の天頂へと昇っていく。
そして、光が収まった時、そこにカイトの姿はなかった。
空には、何事もなかったかのような青が広がっているだけ。
翌朝、カイトを知る者は、この世界にもう誰もいなかった。彼のいた席は空席ですらなく、初めから存在しなかった。世界から、彼の存在した痕跡が、記憶も記録も、完全に消え去っていた。
ただ、私の胸の内でだけ、彼の最後の笑顔が、決して消えない痛みの結晶となって、静かに脈打っていた。昇天の真実。それは祝福などではない。存在の完全な消滅だ。
第五章 世界の心臓
カイトを失った絶望と悲しみは、私の結晶化を急激に加速させた。腕は光にかざせば骨が透けて見え、呼吸をするたびに、体が内側から崩れていくような感覚に襲われる。死が、すぐそこまで迫っていた。
もう、どうなってもいい。
私は最後の力を振り絞り、懐中時計にたった一つの強い感情を込めた。
『真実が知りたい。この世界の、カイトが消えた理由の、全てを』
すると、時計が心臓のように激しく脈打ち、灼熱を帯びて輝き始めた。秒針が猛烈な速度で逆回転し、私の意識は、眩い光の奔流に飲み込まれていった。
次に目を開けた時、私は星空の真ん中にいた。いや、違う。周囲に浮かぶ無数の光点は、星ではない。一つ一つが、誰かの「感情時間結晶」だった。喜びの光、悲しみの光、愛しさの光。数え切れないほどの時間が、ここでは永遠にきらめき続けている。まるで、世界の記憶がすべて集められた、巨大な図書館のようだ。
世界の、心臓部。
第六章 クロノスの選択
そこで、私は全てを理解した。
この世界は、「青春」という儚くも強大なエネルギーによって維持されている。昇天した若者たちは消滅したのではない。彼らの抱えた「感情時間結晶」は、世界の時間と共鳴し、その根源へと還っていたのだ。過去へと遡り、未来の「青春」が生まれるためのエネルギーとして、世界のシステムに再利用される。カイトの時間もまた、この光の宇宙のどこかで、次の世代のために輝いている。
青春期の浮遊病は、若者たちの時間を効率よく集めるためのシステム。そして、私の「感情時間結晶化症候群」は、この巨大な循環システムに深く干渉できる、特異な鍵だった。
私には、道が示された。
このままカイトのように、記憶の彼方へと消え去るか。
それとも、自らの意志で、この世界の時間に溶け込むか。
私の体は、もうほとんど透明だった。選択の時間は、残されていなかった。
第七章 わたしは空に
私は、選んだ。
カイトのように、無に還るのは嫌だ。忘れられるのは、もうこりごりだ。
私は、この世界の時間に、私という存在を刻みつける。
残された全ての存在時間を、震える手で懐中時計に注ぎ込んだ。時計のガラスが砕け、中にあった私の最初の結晶――幼い日の悲しみの結晶が、時間の宇宙へと解き放たれる。
私の体は、最後の輪郭を失い、完全に光の中へと溶けていった。世界から、ミナという少女が存在した痕跡は、その瞬間、完全に消え失せた。
けれど、私の意識は、消えなかった。
私は、世界の管理者になった。時間の流れそのものと一体化したのだ。
私の視界は、空に浮かぶ全ての子供たちを、地に足つけて歩む全ての大人たちを、同時に捉えている。私の姿は誰にも見えない。私の声は誰にも届かない。
でも、それでいい。
時折、誰かが空を見上げる。失った友を想うとき、叶わない恋に胸を焦がすとき、未来への希望に心を震わせるとき。その強い感情が、空に小さな虹色の光をきらめかせる。
それは、かつてミナという少女が抱きしめた、喜びと悲しみの結晶の輝き。
カイト、聞こえる?
私はここにいる。消えたりしない。
この空が続く限り、未来永劫、あなたたちが生きた時間のすべてを、私が見守り続ける。