空っぽのレゾナンス

空っぽのレゾナンス

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第一章 失われたサンキャッチャー

僕たちの高校には、一つの絶対的な掟がある。卒業までに、自分だけの「固有音(シグネチャー・サウンド)」を見つけること。それは、心臓の鼓動のように、あるいは呼吸のように、その人自身を証明する音だ。歩けば鳴り、笑えば響き、感情の昂りに合わせて音色を変える。優等生のクラス委員長からは澄んだピアノのアルペジオが、快活な運動部のキャプテンからは力強いドラムのフィルインが聞こえてくる。この音を持たない者は「空っぽ」と呼ばれ、社会的な存在価値を認められないまま、静寂の中で世界から卒業していく。

高校三年生の秋、僕、水凪湊(みなぎ みなと)は、まだその音を持たない「空っぽ」の一人だった。周囲の誰もが色とりどりの音を奏でる中、僕の周りだけはしんと静まり返っている。焦燥感が、音のない空間で不気味に膨らんでいく。そんな僕にとって、唯一の救いが親友の陽向蓮(ひなた れん)の存在だった。

蓮の音は、誰もが振り返るほどに美しかった。それは、いくつもの小さなガラスが風に揺れて奏でる、サンキャッチャーのような音。光の粒が降り注ぐような、きらびやかで優しい音色。彼の周りにはいつも人が集まり、その音に耳を傾け、誰もが笑顔になった。僕もその一人で、彼の音を聞いているだけで、自分の空虚さが少しだけ満たされる気がしていた。

その異変に気づいたのは、体育祭の練習が始まった月曜日のことだ。クラス対抗リレーのアンカーに選ばれた蓮が、グラウンドを疾走する。いつもなら、彼の走りに合わせて、シャラララ、と光を撒き散らすような音が響き渡るはずだった。だが、その日のグラウンドに響いたのは、乾いた足音と、生徒たちの歓声だけ。

蓮の音が、消えていた。

まるで、弦がぷつりと切れてしまったかのように、完璧に。

僕は呆然と立ち尽くす。他のクラスメイトたちも、どこか戸惑ったような、不安げな視線を蓮に送っている。しかし、誰もそのことには触れない。音の喪失は、この学校における最大のタブー。それは、死の宣告にも等しいからだ。

バトンを受け取った蓮は、何も変わらない、太陽のような笑顔でゴールテープを切った。けれど、その勝利を祝福するはずの輝かしい音は、どこにもなかった。喝采の喧騒の中で、蓮の周りだけが、まるで真空地帯のように、しんと静まり返っていた。僕の耳には、世界から色が失われていくような、不吉な静寂だけが聞こえていた。

第二章 静寂の共犯者

蓮の音が消えてから、世界は少しずつ変質していった。初めは些細なことだった。蓮が話しかけても、相手がワンテンポ遅れて気づく。彼が輪の中心にいても、会話は彼を避けるように進んでいく。音がなければ、そこに「いる」という存在証明が希薄になるのだ。蓮の輝きを愛していたはずの生徒たちは、無意識のうちに彼をいないものとして扱い始めていた。それは悪意のない、残酷な世界の法則だった。

蓮自身は、必死に明るく振る舞い続けた。以前と変わらない笑顔でジョークを飛ばし、誰にでも気さくに話しかける。だが、その笑顔は薄いガラス細工のように脆く、彼の足元には、誰にも聞こえないはずの静寂の影が、日に日に濃くなっているように見えた。

「なあ湊、今日の数学のノート、見せてくれないか?」

放課後の教室で、蓮が僕に話しかけてきた。彼の声は聞こえるのに、その存在感はまるで陽炎のようだ。僕は黙ってノートを差し出す。僕だけが、彼の静寂に気づき、その空虚さに寄り添う唯一の共犯者だった。

「蓮、お前の音……」

言いかけて、僕は口をつぐんだ。何と言えばいい?「どうしたんだ?」と聞くのは簡単だ。だが、それは彼の傷口に塩を塗り込む行為に他ならない。僕にできるのは、ただそばにいることだけだった。

僕は一人、図書館の古書が並ぶ薄暗い一角に通うようになった。この学校の奇妙な伝統、「固有音」の起源について何か手がかりがないかと思ったのだ。古い羊皮紙の記録や、卒業生が残した手記を読み漁るうちに、僕はいくつかの不気味な記述を見つけた。

『音は魂の共鳴なり』

『捧げることで、欠けたる魂を満たすべし』

『音の譲渡は、己が輝きを失うことと同義なり』

音の譲渡。その言葉が、鉛のように僕の胸に沈んだ。まさか、蓮は誰かに自分の音を?一体誰に、何のために?そんな馬鹿なことが、本当に可能なのだろうか。

その週末、僕は蓮の家を見舞うことにした。何度か遊びに行ったことのある、日当たりの良いリビング。しかし、その日はカーテンが閉め切られ、部屋は薄暗かった。蓮はソファにぐったりと横たわっていた。

「よお、湊。悪いな、なんか急に熱が出ちまって」

力なく笑う蓮の顔は、青白かった。彼の周りの空気は、しんと冷え切っている。僕は、テーブルの上に置かれた一枚の写真に目を留めた。それは、蓮と、彼によく似た少し年下の少女が、満面の笑みで写っている写真だった。少女は、細い腕に点滴の管を繋いでいた。

「妹さん……元気になったのか?」

以前、蓮が長期入院している妹がいると話していたのを思い出した。僕の言葉に、蓮は一瞬、息を呑んだ。そして、諦めたように、静かに、しかしはっきりと言った。

「ああ。……俺の音を、あいつにあげたんだ」

第三章 不協和音の告白

蓮の告白は、僕の頭上から降り注ぐ冷たい雨のようだった。図書館で読んだ「音の譲渡」という言葉が、おぞましいリアリティを持って僕の思考を侵食する。

「……どういう、ことだよ」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。蓮は、力なく体を起こすと、閉ざされたカーテンの隙間から漏れる細い光を見つめながら、静かに語り始めた。

「俺たちの『固有音』って、ただの比喩や個性じゃないんだ。あれは……生命エネルギーそのものなんだよ。この学校は、そのエネルギーを可聴化して、コントロールする技術を研究するために作られた場所らしい」

彼の言葉は、まるでSF小説の筋書きのようだった。だが、蓮の真剣な眼差しと、彼を包む圧倒的な静寂が、それが紛れもない事実だと物語っていた。

「妹のサキは、ずっと原因不明の病気で……日に日に弱っていった。医者も匙を投げて、もうダメかと思った時、この学校の古い記録を管理している先生が、一つの可能性を教えてくれたんだ。『音』を、つまり生命エネルギーを、他人に譲渡できるかもしれないって」

蓮の妹、サキ。写真の中で屈託なく笑っていた少女。彼女もまた「空っぽ」だったのだ。生まれつき、自分の音を持てない、生命力の弱い子供だった。

「俺は迷わなかった。俺の音でサキが助かるなら、それでいいって。俺のサンキャッチャーの音は、俺一人のものじゃない。あいつと一緒に笑ったり、泣いたりして、そうやって出来上がった音だから。だから、半分こにしたんだ」

半分こ。その言葉はあまりに軽く、彼の払った犠牲の重さとは不釣り合いだった。彼は、自分の存在証明そのものである輝きを、愛する妹のために捧げたのだ。

「最初は、少し音色がくすんだだけだった。でも、サキが元気になっていくのに反比例するように、俺の音はどんどん小さくなって……そして、先週、完全に消えた。先生は言ってた。譲渡したエネルギーが大きすぎると、元の持ち主の存在座標が不安定になるって。……つまり、俺は、この世界から消えかけてるんだよ」

蓮は、自嘲するように笑った。その笑顔は、今まで見てきたどんな表情よりも悲しく、痛々しかった。彼の周りの空気が、まるで蜃気楼のように揺らめいているように見える。僕の心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。

これは、ただの友情物語じゃない。残酷な選択と、自己犠牲の果てにある、静かな消滅の物語だ。僕が憧れていた蓮の輝きは、彼が命を削って燃やしていた光だった。

「なんで、俺に話してくれなかったんだ」

「言えるかよ。お前はまだ、自分の音を見つけられてない。そんなお前に、こんな重い話……。俺は、お前に自分の音を見つけて、ちゃんと卒業してほしかったんだ。俺の分まで、世界に音を響かせてくれよ」

蓮はそう言って、再び力なくソファに沈んだ。彼の言葉は、僕への信頼であり、同時に突き放すような響きを持っていた。世界に音を響かせろ?自分の音すら持たない、この空っぽの僕に、一体何ができるというのか。無力感が全身を支配する。蓮の静寂が、僕の静寂と共鳴し、部屋は底なしの闇に包まれていくようだった。

第四章 君と僕のオーケストラ

蓮の告白から数日、僕は抜け殻のようだった。授業も耳に入らず、ただ窓の外を流れる雲を眺めていた。僕に何ができる?自分の未熟な、まだ形にもなっていない音を蓮に分け与える?そんなことをすれば、共倒れになるだけだ。蓮の自己犠牲を無駄にしてしまう。思考は袋小路に迷い込み、答えは見つからなかった。

焦燥と無力感に苛まれながら、僕は無意識に屋上へと向かっていた。フェンスの向こうには、僕らが過ごした街が広がっている。風の音、遠くで鳴るサイレン、生徒たちの笑い声。様々な音が混じり合い、一つの大きな環境音を作っている。

その時、ふと気づいた。

僕は今まで、自分の「固有音」は、ピアノやドラムのような、一つの完成された楽器の音でなければならないと思い込んでいた。そうでなければ、価値がないと。だから、自分の内側から聞こえてくる、雑多で、統一感のない音の欠片たちに耳を塞いできたのだ。

蓮への憧れ。自分の空虚さへの劣等感。彼を救えない無力感。妹を想う蓮の優しさへの敬意。そして、消えゆく親友への悲しみと、どうしようもない怒り。僕の中には、矛盾した、不格好な感情が渦巻いていた。それらは決して美しいハーモニーにはならない。耳障りな不協和音だ。

だが、それでいいのではないか。

不協和音だって、音楽の一部だ。完璧な人間なんていないように、完璧な音なんて存在しない。僕の音は、この混沌とした感情のすべて。それこそが、水凪湊という人間の、唯一無二の音なのだ。

その瞬間、僕の内側で何かが弾けた。

最初は、か細いチェロの低音。すぐに、神経質なヴァイオリンの旋律が重なる。焦燥感を映すような性急なピアノのフレーズ、そして、悲しみを湛えたフルートの音色。それらが混じり合い、ぶつかり合い、一つの巨大な音の奔流を形作っていく。それは、一つの楽器では決して表現できない、複雑で、歪で、しかし間違いなく力強い、僕だけのオーケストラだった。

卒業式の日。体育館には、卒業生たちの色とりどりの固有音が響き渡っていた。僕は自分の席で、静かに目を閉じる。そして、僕のオーケストラを解き放った。

僕の音は、決して美しくはない。だが、それは僕が悩み、苦しみ、それでも前を向こうとする意志そのものだった。その音は体育館に響き渡り、他の生徒たちの音と混じり合った。

僕は、列の隅に座る蓮を見た。彼は「無音の卒業式」を迎えるはずだった。しかし、僕のオーケストラが彼に届いた瞬間、奇跡が起きた。

蓮の周りから、微かな、本当に微かな音が聞こえたのだ。それは、風鈴が一つだけ、ちりん、と鳴るような、儚くも澄んだ音。彼が失ったサンキャッチャーの、最後の欠片のような音だった。僕の不協和音が、彼の存在をこの世界に繋ぎ止め、彼の魂の奥底に残っていた音を、わずかに共鳴させたのだ。

蓮が、僕を見て、小さく微笑んだ。その笑顔は、もうガラス細工のように脆くはなかった。

卒業後、僕たちの道は分かれるだろう。蓮が完全に音を取り戻せるかは分からない。でも、僕たちは確かに繋がっていた。不完全な僕が、不完全な君を支え、僕たちの不協和音は、世界で最も美しいオーケストラになった。

僕はこれからも、この不格好なオーケストラを奏でて生きていく。空っぽだった僕の心は、今、数えきれないほどの音で満たされている。そして時折、遠いどこかで鳴っているであろう、あの小さな風鈴の音に、耳を澄ませるのだ。

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