忘却の響き、黎明の歌

忘却の響き、黎明の歌

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第一章 忘却のレクイエム

硝煙の代わりに、沈黙が戦場を支配していた。俺、リョウが所属する第七記憶殲滅部隊の任務は、物理的な破壊ではない。我々は、敵国「西アルカディア」の魂を、その歴史と文化ごと消し去るための尖兵だ。

「目標、セクター4、旧中央図書館。殲滅を開始せよ」

ヘッドセットから響く上官の冷静な声に、俺は短く「了」とだけ応えた。目の前には、荘厳な石造りの図書館が、死を待つ巨人のように静まり返っている。我々が使う兵器は「忘却の響き(オブリビオン・エコー)」。高周波の精神干渉波を照射し、物質に宿る情報の集合体――人々が「記憶」や「物語」と呼ぶものを、素粒子レベルで分解・消去する装置だ。殺戮なき戦争。それが、我が国「東ユーフォリア」が掲げる大義だった。

俺はチームの先頭に立ち、図書館の重い扉を押し開ける。ひんやりとした空気が、埃と古い紙の匂いを乗せて頬を撫でた。何万冊という本が、墓標のように整然と並んでいる。それら一つひとつが、敵国の世代を超えて受け継がれてきた知恵であり、感情であり、アイデンティティそのものだ。そして俺の仕事は、それを白紙に戻すこと。

「照射準備、完了」

部下の一人が報告する。俺は背嚢から円盤状の装置を取り出し、図書館の中央で起動させた。キーン、という耳鳴りのような微かな音が響き渡り、空間が陽炎のように揺らぎ始める。本棚に並ぶ書物の背表紙から、淡い光の粒子が立ち上り、渦を巻いて空気に溶けていくのが見えた。文字が意味を失い、物語が輪郭をなくし、紡がれた想いが霧散していく。美しいとさえ思える、残酷な光景。俺はこの、静謐な破壊に、ある種の誇りを感じていた。我々は、血を流さずに国を守っているのだと。

任務は順調に進んでいた。だが、その時だった。ふと、床に落ちていた一冊の小さな絵本が目に入った。豪奢な装丁の本が多い中で、それは何の変哲もない、子供向けの童話集のようだった。任務の妨げになると判断し、それを無造作に拾い上げた瞬間――。

世界が、砕けた。

脳裏に、灼けつくようなイメージが流れ込んできた。陽光が降り注ぐ草原。俺より少し幼い、栗色の髪の少女。彼女が差し出す、野いちごの赤い実。そして、耳元で聞こえる、優しい歌声。知らないはずのメロディー、知らないはずの少女、知らないはずの記憶。だが、その温もりだけは、あまりにも鮮明に、俺の心を締め付けた。

「隊長? どうかしましたか?」

部下の声で、我に返る。俺は額に滲んだ冷や汗を拭い、激しく打つ心臓を抑えながら、手にしていた童話集に視線を落とした。表紙には、かすれた文字で『ふたつの川とひとつの空』と書かれている。なぜだ。これは敵国の本のはずだ。この記憶は、俺のものであるはずがない。俺の記録された経歴に、こんな過去は存在しない。これは、破壊すべき偽りの物語(フィクション)の一部に過ぎない。そう頭では理解しているのに、胸の奥で疼くこの痛みは、何なんだ。

忘却の響きが奏でるレクイエムの中で、俺は初めて、消し去ろうとしているものの重さに気づき、立ち尽くしていた。

第二章 ひび割れた記録

あの任務以来、俺の世界は静かにひび割れ始めていた。昼はエリート兵士として完璧に任務をこなし、夜は寮の自室で、あのフラッシュバックの正体を探る日々。俺は、あの童話集を誰にも気づかれずに持ち帰っていた。それは、キャリアを終わらせかねない重大な規律違反だった。

童話集を開くたびに、胸の疼きは増していく。物語は、東の川と西の川が、いつか一つの大きな空の下で再び出会うことを夢見る、という単純なものだった。だが、そこに添えられた挿絵の風景――緩やかな丘陵や、特徴的な形の雲――が、俺の心の奥底にある原風景と奇妙に重なる。そして、物語の最後に記された子守唄の楽譜。そのメロディーは、まさしく、あのフラッシュバックで聞いた少女の歌声であり、さらに言えば、俺が幼い頃に母が口ずさんでいた歌と、驚くほど似通っていた。

「ありえない……」

母は、純粋な東ユーフォリアの人間だ。敵国の文化に触れる機会など、あるはずがない。俺は国のデータベースにアクセスし、両国の文化様式を比較し始めた。公式には、我々の文化は独自の発展を遂げ、西アルカディアのものは退廃的で模倣に満ちている、とされている。だが、深く掘り下げれば掘り下げるほど、無視できない類似点が浮かび上がってきた。建築様式に見られるアーチの意匠、伝統的な織物のパターン、さらには神話の骨子まで。まるで、一つの源流から分かれた二本の川のようだった。

疑念は、日に日に確信へと変わっていく。俺たちが「破壊」しているものは、本当に「敵」なのだろうか。俺たちが「守って」いるものは、本当に「真実」なのだろうか。

変化は、俺の任務への姿勢にも影を落とし始めた。以前は誇りだった記憶の殲滅が、今はただの虚しい破壊行為にしか思えない。光の粒子となって消えていく物語の中に、俺は、あの少女のような子供たちの笑い声や、母親たちの子守唄を幻視するようになった。

「リョウ、貴様、最近様子がおかしいぞ」

ある日のブリーフィング後、上官に呼び止められた。彼の鋭い目が、俺の心の内を見透かそうとしている。

「任務に私情を挟むな。我々の使命を忘れたか? 西の蛮族から、我々の聖なる文化を守ることこそが、我々の存在意義だ」

「……承知しています」

「ならいい。次の任務は、西アルカディアの中央記録保管庫だ。奴らの歴史の根幹を、完全に消し去る。これは、この戦争の趨勢を決める重要な作戦になる。しくじるなよ」

中央記録保管庫。そこには、この国の始まりから現在までの、全ての記憶データが眠っているはずだ。それを消せば、西アルカディアは抜け殻になる。だが、俺の心によぎったのは、別の考えだった。もし、そこに全ての記録があるのなら。もし、そこに、この戦争の、そして俺の記憶の謎を解く鍵があるのなら――。

俺は、禁忌を犯す覚悟を決めた。破壊する前に、その記憶を「読む」ことを。

第三章 共有された創世記

漆黒の闇の中、俺は一人、中央記録保管庫の最深部にいた。チームの仲間たちを偽の警報で別の区画へ誘導し、手に入れた時間はわずか十分。目の前には、白く輝く巨大な結晶体「オリジン・クリスタル」が、心臓のようにゆっくりと明滅を繰り返している。西アルカディアの、原初の記憶が封じられた場所だ。

本来であれば、俺はここに「忘却の響き」を設置し、この光を永遠に消し去らなければならない。だが、俺は装置を起動させず、代わりに携帯端末をクリスタルに接続した。解析プログラムを走らせる。許されざる行為。もし見つかれば、俺は殲滅対象の「汚染された記憶」として処理されるだろう。

モニターに、膨大なデータが雪崩のように流れ込んでくる。フィルタリングをかけ、最も古い記録――創世記のデータを探す。数分が永遠のように感じられた。そして、ついに俺は、ファイルを見つけ出した。タイトルは、『ユーフォリア・アルカディア共同宣言』。

クリックした瞬間、俺の意識は再び奔流に飲み込まれた。

それは、戦争の記録ではなかった。そこに映し出されたのは、祝祭の光景だった。東の民と西の民が、同じ広場で手を取り合い、同じ歌を歌い、笑い合っている。豊かな自然。活気のある街並み。彼らが自らを呼ぶ名は、ただ一つ。「ユーフォリア・アルカディア」の民。

そうだ、元々、我々は一つの国だったのだ。

二つの川は、一つの水源から流れていた。しかし、些細な思想の対立――効率を重んじる東と、伝統を尊ぶ西――が、為政者たちの権力争いによって増幅され、亀裂は決定的なものとなった。国は二つに引き裂かれ、互いの正当性を主張するために、相手の存在を歴史から抹消し始めた。文化を「退廃的」と罵り、記憶を「偽り」と断じた。共有していたはずの歴史は改竄され、子守唄は「敵国の歌」となり、隣人は「蛮族」になった。

そして、俺が見たあの少女との記憶。それは、分裂直前の時代、まだ二つの民が交流していた頃の、俺自身の、本物の記憶だった。俺の故郷は、国境が引かれる前は、西アルカディアンの少女が住む村の隣にあったのだ。

戦争は、巨大な嘘だった。権力者たちが作り上げた、悲劇的な物語(フィクション)だった。

さらに衝撃的な事実が明らかになる。「忘却の響き」――我々が破壊のために使っているこの装置は、元々は、分裂の際に失われた共有記憶を「修復」し、人々を再び繋ぐために開発された技術だったのだ。破壊ではなく、創造のための道具。その本来の目的を知った時、俺の中で何かが、音を立てて砕け散った。

「見つけたぞ、裏切り者!」

背後から、上官の怒声が響いた。複数の足音が迫ってくる。もう時間がない。だが、俺の心は不思議なほど静かだった。絶望ではない。真実を知った者だけが持つ、痛みを伴う覚醒。

俺はもう、偽りの物語の登場人物ではいられない。破壊者(イレイサー)の役は、今日で終わりだ。

第四章 記憶の夜明け

包囲網が狭まる中、俺は震える手で「忘却の響き」を掴んだ。だが、その目的は破壊ではなかった。俺は装置の制御パネルをこじ開け、配線を無理やり引き抜いて繋ぎ変える。かつて読んだ、この装置の本来の設計図を脳裏に思い浮かべながら。破壊エネルギーを、再生エネルギーへと逆流させる。暴挙だった。成功する保証などどこにもない。失敗すれば、俺の精神が焼き切れるだけだ。

「やめろ、リョウ! それは……!」

上官の制止の声が聞こえる。だが、もう遅い。俺はオリジン・クリスタルから抽出した、あの祝祭の日の「共有された記憶」のデータを、改造した装置に流し込んだ。そして、最大出力で起動させる。

キーン、という耳鳴りではない。世界が、優しい鐘の音のような響きに包まれた。

装置から放たれたのは、破壊の光ではない。淡い、虹色の光の波紋だった。それは壁を、天井を、そして大地を透過し、保管庫の外へ、戦場全域へと広がっていく。

次の瞬間、戦場を支配していた静寂が破られた。あちこちから、戸惑いの声が上がる。ヘッドセットからは、敵味方を問わず、兵士たちの混乱した報告が飛び交っていた。

「なんだ、これは……頭の中に、誰かの記憶が……」

「この歌……知っている……なぜだ?」

「敵兵の顔が……子供の頃に見た、隣人の顔に……」

俺が流した「共有された記憶」の断片が、彼らの脳に直接、流れ込んでいるのだ。敵であるはずの相手と、同じ祭りで笑い合った記憶。同じ子守唄を口ずさんだ記憶。引き裂かれる前の、温かい共同体の記憶。

それは、完全な再生ではない。ほんの僅かな、記憶の夜明けだ。だが、引き金を引こうとしていた指は止まり、構えられていた銃口は、力なく地面へと向けられていく。兵士たちは、敵ではなく、目の前にいる人間の顔に浮かんだ同じ困惑の色を見て、呆然と立ち尽くしていた。

戦争は、終わるのかもしれない。あるいは、この大混乱が、さらに大きな悲劇を生むのかもしれない。真実は、必ずしも人を幸福にするとは限らない。

だが、俺は選んだのだ。偽りの平和の上で静かに死んでいくより、真実の痛みの中から、もう一度生き始めることを。

やがて俺は、駆けつけた兵士たちに取り押さえられた。抵抗はしなかった。俺の役目は終わったのだから。連行される途中、俺は足元に落ちていた、あの童話集『ふたつの川とひとつの空』を、そっと拾い上げた。

これから俺を待つのが処刑台であろうと、独房であろうと、構わない。この手の中には、失われた物語がある。破壊された記憶の瓦礫の中から、俺は、俺たちは、きっとまた新しい物語を紡ぎ始めることができるだろう。

二つの川が、いつか再び出会うことを夢見て。

夜明けの光が染め始めた空の下、俺はかすかに、あの懐かしい子守唄のメロディーを口ずさんでいた。

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