記憶のビー玉が、輝かなくても

記憶のビー玉が、輝かなくても

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第一章 硝子の瓶に満ちる追憶

水島湊(みなしま みなと)の日常は、過去の光のかけらで彩られていた。彼の職業は装丁家。古びた紙の匂いや、インクが乾くまでの静かな時間、指先で感じる布クロスの質感をこよなく愛していた。だが、彼の心を真に満たすのは、仕事場の窓辺に置かれた大きなガラス瓶だった。

瓶の中には、色とりどりのビー玉が数百個、互いに光を反射させながらきらめいている。それは単なるガラス玉ではない。一つひとつが、湊の記憶そのものだった。

湊には、特別な能力があった。彼は自らの記憶を、物理的なビー玉として頭の中から取り出すことができるのだ。やり方は簡単。特定の記憶に強く意識を集中させ、こめかみにそっと指を当てる。すると、まるで涙が結晶化するように、指先に冷たくて硬い感触が生まれ、小さな球体が現れる。

そのビー玉を光にかざすと、瞼の裏に、封じ込めた記憶が鮮やかに蘇る。亡き祖母が焼いてくれたパンケーキの甘い香り、大学時代に友人たちと見た夏祭りの花火の音、初めてデザインした本が書店に並んだ時の胸の高鳴り。それは完璧な再現だった。感情の揺らぎまで、寸分違わずに。

しかし、この能力には代償があった。一度ビー玉として取り出した記憶は、湊自身の脳内からは急速に色褪せ、曖昧な輪郭だけが残る。まるで古い写真のように、ディテールは失われ、ただ「そういうことがあった」という事実だけが漂うのだ。だから、ビー玉は唯一無二の記録媒体であり、彼の宝物だった。失いたくない、美しい瞬間だけを選りすぐって結晶化し、大切に保管していた。

「また、見てるの?」

背後から、恋人である沙耶(さや)の声がした。彼女は淹れたてのコーヒーのマグカップを二つ、湊の隣のデスクに置く。湯気の向こうで、その表情が少しだけ曇っていることに、湊は気づかないふりをした。

「ああ、ちょっとだけ。このビー玉は、子供の頃、初めて一人で電車に乗った時の記憶なんだ。窓の外の景色が、まるで映画みたいに流れていって……」

湊がうっとりと語るのを、沙耶は黙って聞いていた。彼女の眼差しには、優しさと、それ以上の寂しさが混じっていた。

「湊。過去も素敵だけど、今も、ちゃんとここにあるよ」

その言葉は、凪いだ水面に投げられた小石のように、湊の心に小さな波紋を広げた。

その夜、湊はふと、沙耶との記憶をビー玉にしたことがないことに思い至った。付き合って三年。美しい思い出は数え切れないほどある。そうだ、一番大切な記憶を形にしよう。二人が初めて出会った、あの雨上がりの公園の記憶を。

湊は目を閉じ、意識を集中させた。図書館の帰り道、にわか雨に降られ、公園の東屋で雨宿りをしていた湊。同じように駆け込んできたのが沙耶だった。雨上がりの濡れた土の匂い、木の葉から滴る雫の音、そして、気まずい沈黙を破って「すごい雨でしたね」と笑った彼女の声。光に透ける髪の色。

鮮明に思い出せる。なのに、何度試しても、こめかみからは何も生まれてこなかった。指先は空を掻くだけで、あの冷たい結晶の感触は一向に現れない。まるで、彼の能力がその記憶だけを拒絶しているかのようだった。なぜだ? あれほど大切で、輝かしい記憶が、どうしてビー玉にならないんだ? 湊の完璧な日常に、初めて説明のつかない亀裂が入った瞬間だった。

第二章 結晶にならない現在

その日から、湊の心には焦燥感が巣食い始めた。「初めて出会った日の記憶」が取り出せない。その事実が、彼の築き上げてきた秩序を静かに蝕んでいった。彼はまるで実験を繰り返す科学者のように、他の沙耶との記憶を結晶化しようと試みた。

去年の夏、二人で訪れた海辺の町の記憶。夕暮れの砂浜、寄せては返す波の音、潮風に混じる彼女の笑い声。――こめかみから、アクアマリンのような淡い青色のビー玉が生まれた。成功だ。瓶に入れると、他のビー玉と触れ合って、からんと涼やかな音を立てた。

次に、些細な日常の記憶。一緒にスーパーで買い物をして、献立を言い争った日のこと。――それは、ミルク色の穏やかなビー玉になった。

取り出せる。沙耶との記憶も、他の記憶と同じようにビー玉にできる。それなのに、なぜ「出会いの日」だけが例外なのだ? 湊は安堵するどころか、ますます混乱に陥った。

そして、彼はもう一つの変化に気づき始めていた。沙耶との記憶をビー玉にするたび、現実の彼女との間に、薄い膜が一枚挟まるような感覚。ビー玉の中の彼女は、完璧な笑顔で、完璧な言葉を投げかけてくる。しかし、目の前の沙耶が同じように笑いかけても、その感情が以前ほど強く胸に響いてこない。記憶を外部に保存した代償として、彼の内なる体験が希薄になっているのだ。

「湊、最近、なんだか上の空じゃない?」

ある週末の午後、リビングで本を読んでいた沙耶が、ふと顔を上げて言った。

「心、ここにないみたい。私の話、聞いてる?」

「聞いてるよ」

湊は慌てて答えたが、その声は自分でも驚くほど空虚に響いた。沙耶が何を話していたか、思い出せない。彼の意識は、ついさっき取り出したばかりの「海辺の町のビー玉」が放つ、完璧な夕日の光に囚われていた。

沙耶は悲しそうに目を伏せた。

「あなたは、ビー玉の中の思い出のほうが好きなのね。今の私よりも」

違う、と湊は叫びたかった。だが、言葉が喉に詰まる。本当に違うのだろうか。彼は、予測不能で、時に些細なことで機嫌を損ねる現実の沙耶よりも、ガラス玉の中に永遠に保存された、完璧な笑顔の沙耶のほうを愛しているのではないか。

その自己嫌悪が、彼をさらにビー玉への執着へと駆り立てた。現実が不確かだからこそ、確かな形で残る過去に縋りたくなる。彼は書斎に籠もり、次々と沙耶との思い出をビー玉に変えていった。誕生日、記念日、喧嘩して仲直りした夜。ガラス瓶は美しい記憶で満たされていく。それと反比例するように、リビングから聞こえる沙耶の立てる生活音は、遠く、か細くなっていくように感じられた。

第三章 生きている記憶の証明

湊の日常は、もはや瓶の中の光を眺めることでしか成り立たなくなっていた。沙耶との会話は減り、家の空気は重く沈んでいた。彼は、すべての元凶である「結晶にならない最初の記憶」の謎を解き明かせば、何かが変わるはずだと信じていた。

彼は自分の能力そのものについて、深く内省する時間を取った。なぜ記憶はビー玉になるのか。なぜ取り出すと曖昧になるのか。今まで当たり前のこととして受け入れてきた現象の根源を、必死に探った。

書斎の床に、すべてのビー玉を広げた。祖母との記憶、友人との記憶、終わった恋の記憶、達成感に満ちた仕事の記憶。それらを一つひとつ手に取り、光にかざし、追体験していく。何時間もそうしているうちに、湊は一つの法則性に、雷に打たれたように気づいた。

ここにある記憶は、すべてが「完結」している。

祖母はもういない。彼女との時間は、決して未来に続くことはない。学生時代の友人たちとは疎遠になり、あの頃のような馬鹿騒ぎは二度とできない。過去の恋は終わりを告げ、その物語は幕を閉じた。仕事の達成感も、そのプロジェクトが完了した瞬間の、過去の感情だ。

彼のビー玉は、すべてが「過去形」の物語だったのだ。美しく、完璧で、そして、二度と変化することのない、死んだ時間。

その瞬間、すべてのピースが繋がった。

沙耶との「初めて出会った日」の記憶がビー玉にならない理由。それは、その記憶がまだ「終わっていない」からだ。あの出会いは、過去の点ではない。今日へと、そして明日へと続く、物語の始まりの点だったからだ。それはまだ変化の途上にあり、未来に向かって開かれている、生きている記憶。だから、ビー玉という「完結した形」に封じ込めることなど、できるはずがなかったのだ。

湊は愕然とした。

彼が今まで宝物だと思っていたものは、美しい思い出の墓標のコレクションに過ぎなかった。彼は過去という安全な霊廟に閉じこもり、生きている現在から目を逸らし続けてきたのだ。沙耶が感じていた寂しさの正体も、痛いほどに理解できた。彼は、生きている彼女を、過去の標本にしようとしていたのだ。

窓の外では、夕日が街を茜色に染めていた。いつもなら、この美しい光景をいつかビー玉にしようと考えるだろう。だが、今の湊には、その光景がまったく違うものに見えた。それは、明日へと続いていく、流動的な時間の象徴だった。止めることのできない、だからこそ尊い、生命そのものの輝きだった。

第四章 空っぽの瓶と、満たされる心

湊は、床に散らばったビー玉を一瞥すると、勢いよく立ち上がった。書斎を飛び出し、リビングのドアを開ける。ソファに座り、窓の外をぼんやりと眺めていた沙耶が、驚いて振り返った。彼女の目には、諦めと悲しみが深く宿っていた。

「沙耶」

湊は息を切らしながら、彼女の前に立った。何から話せばいいのか分からない。だが、伝えなければならない。

「僕の、僕の能力のこと、聞いてくれるか」

彼はすべてを話した。記憶をビー玉として取り出せること。そうすると、その記憶が自分の中から薄れてしまうこと。そして、今日、気づいてしまった真実を。

「君との出会いの記憶だけが、どうしてもビー玉にならなかった。ずっと、どうしてか分からなかった。でも、今、分かったんだ。僕らの物語は、まだ終わってないからだ。それは過去じゃなくて、今も、これからも続いていく、生きている記憶だからなんだ」

湊は沙耶の手を取り、書斎へといざなった。そして、窓辺に置かれた大きなガラス瓶を指さした。

「これは、僕が集めてきた『終わった物語』のコレクションだ。綺麗だけど、もう動かない。僕は、こんなものばかりを大切にして、一番大事なものを見失っていた」

彼は瓶の中から、ひときわ美しく輝く、夕焼け色のビー玉を一つ掴み取った。それは、沙耶と出会う前の、過去の恋人との最後の美しい思い出だった。湊が最も執着していた記憶の一つだ。

彼は躊躇わずに窓を開け、そのビー玉を夜空に向かって力いっぱい投げた。ガラス玉は小さな光跡を描いて闇に吸い込まれていく。砕ける音は聞こえない。だが、湊の心の中で、古く錆びついた錠が、カチリと音を立てて開いた気がした。

「これからは、ビー玉にならない記憶を、君と一緒に作っていきたい。二度と取り出せなくてもいい。忘れてしまってもいい。それでも、終わらない物語を、君と生きていきたいんだ」

沙耶の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。ようやく、目の前の湊が、自分と同じ「今」に立ってくれたことへの、安堵と喜びの涙だった。彼女は言葉なく、ただ強く頷いた。

それから数日後の、よく晴れた午後。湊と沙耶は、名前も知らない道を、手を繋いで歩いていた。午後の柔らかな日差しが、二人の頬を撫でる。道端に咲く花の名前を教え合う沙耶の声。隣を歩く湊の、穏やかな呼吸。

その瞬間、湊はもう、この光景をビー玉にしたいとは思わなかった。ただ、隣にいる沙耶の指の温もりを、頬をかすめる風の匂いを、遠くで聞こえる子供たちの笑い声を、自分の五感のすべてで味わっていた。

彼の書斎のガラス瓶は、もう二度と新しいビー玉で満たされることはないだろう。それは少しずつ空っぽになっていくのかもしれない。だが、湊の心は、不確かで、予測不能で、だからこそ愛おしい「今」という輝きで、かつてないほど豊かに満たされていくのだった。過去を保存する日常は終わり、未来を紡いでいく本当の日常が、今、始まった。

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