第一章 蒼穹のキャンバス
朝の光が瞼を透過し、意識を淡い覚醒へと誘う。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、絵の具の匂いが微かに染みついた、ロフトのあるアトリエだった。使い込まれたイーゼル、無造作に置かれたキャンバス、床に点々と散らばる色の染み。その全てが、まるで長年連れ添った友人のように、しっくりと馴染む。俺は画家なのだ。脳裏には、油彩の粘り気や、筆がカンバスを滑る感触まで、鮮明に刻み込まれている。
「アオイ、起きた?」
階下から聞こえる柔らかな声に、胸の奥がきゅっと甘く疼いた。俺の恋人、ユキの声だ。階段を駆け下りると、エプロン姿の彼女が、湯気の立つコーヒーカップを片手に微笑んでいた。その笑顔を見るだけで、世界が祝福されているような気になれた。
「おはよう、ユキ」
自然に言葉が紡がれる。彼女の頬にキスをし、テーブルにつく。焼きたてのトーストの香ばしい匂い。窓の外では、名も知らぬ鳥がさえずっている。完璧な朝だ。なのに、どうしてだろう。心の片隅で、冷たい風が吹き抜けるような、拭いがたい違和感が渦巻いている。
ふと、視線が窓辺に吸い寄せられた。そこに、ひとつだけ場違いなものが置かれている。滑らかな曲線を描く、透き通ったガラスの砂時計。中の砂は、陽光を浴びてキラキラと輝きながら、静かに、しかし絶え間なく流れ落ちていた。
その砂時計を見つめていると、頭の奥で何かが弾けた。知らない顔、聞いたことのない声、触れたことのない肌の感触。膨大な記憶の断片が、奔流となって脳内を駆け巡り、すぐに霧散していく。俺はこめかみを押さえた。ユキが心配そうに顔を覗き込む。
「どうしたの、アオイ? 顔色が悪いわ」
「…いや、なんでもない。少し、眩暈がしただけだ」
嘘をついた。本当は、自分が誰なのか、ほんの一瞬、分からなくなった。この腕に残る筋肉の記憶も、ユキを愛しいと思うこの感情も、本当に俺自身のものなのだろうか。砂時計の砂は、ただ静かに、世界の時間を刻み続けているように見えた。
第二章 錆びた歯車
金属と油が混じり合った、噎せ返るような匂い。耳をつんざく機械の轟音と、床を伝わる鈍い振動。
次に目覚めた時、俺は薄汚れた作業着を身に纏い、巨大な工場の整備ラインに立っていた。俺はテツヤ。この工場の歯車を回す、しがない整備士だ。ごわごわとした手袋越しのスパナの冷たさも、ボルトを締める腕の疲労も、全てが昨日からずっと続いていたことのように感じられる。
周囲の同僚たちは、当たり前のように俺を「テツヤ」と呼び、軽口を叩きながら仕事をこなしていく。俺もまた、彼らの名前を自然に呼び、淀みなく作業を進める。だが、頭の中では警報が鳴り響いていた。昨日の記憶はどこへ行った? アトリエの絵の具の匂いも、ユキの柔らかな笑顔も、まるで遠い夢のように霞んでいる。
「おいテツヤ、ぼーっとするなよ。手が止まってるぞ」
先輩の怒声に、はっと我に返る。しかし、俺の意識は別のものに囚われていた。記憶の片隅に、陽光の中で静かに砂を落とす、あのガラスの砂時計のイメージだけが、焼き付いたように離れないのだ。あれは一体、何だったのか。
昼休み、汗を拭いながら工場の外に出ると、目の前を数人の女性が通り過ぎていった。その中に、見覚えのある横顔があった。
ユキだ。
思わず声が出そうになるのを、必死でこらえた。彼女は俺の知らない同僚の男と親しげに笑い合い、俺のことなどまるで存在しないかのように通り過ぎていく。胸を鋭い何かが貫いた。彼女は俺を知らない。画家のアオイの記憶も、あの完璧だった朝も、この世界では存在しないらしい。
俺だけが、昨日という名の幻を覚えている。この世界で、俺はたった一人、迷子だった。
第三章 不協和音
指が、鍵盤の上を舞う。ショパンのノクターンが、荘厳なコンサートホールの隅々まで満たしていく。鳴り響く喝采と、肌を粟立たせる興奮。俺はカナデ。将来を嘱望されるピアニストだ。
目覚めるたびに変わる人生。画家、整備士、そして音楽家。もはや驚きはなかった。ただ、深い孤独と、得体の知れない恐怖だけが、心の底に澱のように溜まっていく。鏡に映るのは、繊細で、どこか神経質そうな見知らぬ青年の顔。俺は一体、何人分の人生を生きているのだろう。
この日、俺は街を彷徨っていた。無数の人々がすれ違う。彼らは皆、揺るぎない「自分」を持っているように見えた。自分の過去を疑わず、明日が今日と同じように続くことを信じて疑わない顔。彼らにとって、記憶とは消費するものなのだろうか。古い記憶をエネルギーにして、新しい一日を生きる。だから、誰も何も覚えていない。誰も、俺の変化に気づかない。
ふと、雑踏の中に、あの砂時計が見えた気がした。ショーウィンドウの片隅に、路地裏のゴミの山に、カフェのテーブルの上に。それは幻影のように現れては消える。そして、その砂がさらさらと流れ落ちるたびに、俺の脳裏には誰かの人生の断片――初めて自転車に乗れた少年の喜び、愛する人に別れを告げた老女の涙――が流れ込んできては、俺自身の記憶と混ざり合っていく。
俺は誰なんだ。
この問いが、不協和音となって頭の中で鳴り響く。俺という存在は、様々な人生の記憶を継ぎ接ぎした、空っぽの器に過ぎないのではないか。俺だけが、この世界の法則から外れた異物なのだ。
第四章 砕け散る硝子
「シオリさん、閉館の時間ですよ」
柔らかな声に呼びかけられ、我に返る。今朝の俺は、古びた図書館の司書だった。指先には、古い紙の乾いた感触が残っている。一日中、俺は何かを探していた。この世界の真実、あの砂時計の正体。その手がかりが、この知の宝庫にあるような気がしてならなかった。
閉館後の静寂に包まれた図書館で、俺は禁書庫へと足を踏み入れた。埃っぽい空気と、インクの古びた匂い。何かに導かれるように、書架の最も奥、忘れ去られたような一角へと進む。そこに、分厚い革の表紙で装丁された一冊の本があった。タイトルはない。
震える手でページをめくると、そこには信じられないものが描かれていた。俺だけが見えるはずの、あの『透き通ったガラスの砂時計』の精密なスケッチ。そして、その横には解読不能な古代文字で、びっしりと何かが書き連ねてある。だが、不思議とその意味が頭の中に流れ込んできた。
『世界は記憶を糧とする。人々は過去を消費し、未来を紡ぐ』
『停滞は存在の霧散を意味する』
『ただ一人、全ての記憶を受け取る者あり。彼は閲覧者』
閲覧者――その言葉が、雷のように俺を撃ち抜いた。俺のことだ。
その本に強く触れた、その瞬間だった。
ポケットの中に、いつからあったのか、冷たく硬い感触があった。取り出すと、それはあのガラスの砂時計だった。本と共鳴するように激しく光を放ち始めたかと思うと、次の瞬間、甲高い音を立てて俺の手から滑り落ち、石の床に叩きつけられて粉々に砕け散った。
第五章 アーカイブの創造主
世界が、音を立てて崩れていく。
砕けた砂時計から溢れ出した無数の光の粒が、図書館の風景を侵食し、デジタルノイズのように掻き消していく。書架も、本も、床も、全てが意味を失ったデータの羅列へと還元され、やがて完全な闇と静寂が訪れた。
俺は、何もない空間にひとり、漂っていた。
すると、目の前の闇がゆっくりと晴れ、そこに一人の老人が現れた。深く刻まれた皺、全てを見通すような穏やかな瞳。その顔は、俺が今まで鏡の中で見てきたどの顔とも違っていたが、魂の奥底で理解した。あれは、紛れもなく『俺自身』の、遠い未来の姿だった。
「ようこそ、閲覧者。我が創造した、失われた可能性の図書館へ」
老いた俺は、静かに語り始めた。ここは、遠い未来の俺が、たった一つの人生を選ぶ前に放棄した、無数の『選択されなかった人生』を保存した仮想アーカイブなのだと。画家のアオイも、整備士のテツヤも、ピアニストのカナデも、全ては俺が生きるはずだった、可能性の一つだったのだ。
「人々が記憶を消費するのは、このアーカイブを維持するための安全装置だ。無限に生成される記憶がオーバーフローしないよう、常に循環させる必要がある。そして君が毎日違う人生を送っていたのは、全ての可能性を偏りなく体験し尽くすためだ」
周囲の人々が俺の変化に気づかなかったのは、彼らがこのアーカイブを構成するNPCであり、閲覧者である俺の設定に合わせて、毎朝その記憶が最適化されていたからだった。
「君は孤独だっただろう。だが、その孤独こそが、君が唯一無二の閲覧者である証だったのだ」
老いた俺の言葉が、深く、深く、俺の魂に染み渡っていった。
第六章 ただ一つの朝
全ての謎は解けた。俺は、自分自身の膨大な可能性を旅する、孤独な閲覧者だったのだ。
「全ての人生を、君は体験し終えた」
老いた俺がそう告げると、彼の姿がゆっくりと薄れ始めた。アーカイブの役目は終わったのだ。目の前の空間に、今まで俺が生きてきた無数の人生が、走馬灯のように駆け巡る。
ユキの笑顔。汗と油にまみれた充実感。鳴り止まない拍手喝采。禁書庫の埃っぽい匂い。それら全てが、紛れもなく俺自身の経験として、胸に刻まれていく。どれ一つとして、無駄な人生はなかった。喜びも、悲しみも、孤独さえも、全てが俺を形作る、かけがえのない一片だった。
やがて、眩い光が全てを包み込む。
次に目を開けた時、俺は静かな部屋のベッドの上にいた。窓の外からは、見慣れているはずなのに、どこか全く新しい、朝の光が差し込んでいる。ゆっくりと体を起こすと、自分の手が、足が、そこにあることが不思議な感覚だった。鏡を覗き込むと、そこには見知らぬ、しかしこれが『本当の自分』なのだと確信できる、一人の青年の顔があった。
ベッドサイドのテーブルには、あのガラスの砂時計が、今は砂の流れを止めて静かに佇んでいた。それは、俺が巡ってきた無数の人生の記憶を封じ込めた、記念碑のようにも見えた。
俺は深く、息を吸い込んだ。朝の新鮮な空気が、肺を満たす。これから始まるのは、誰のものでもない、たった一つの俺の人生だ。その選択の重みと、無限の可能性の中から選び取られた輝きを胸に、俺は静かに、新しい世界の扉へと歩き出した。