沈黙のプリズム

沈黙のプリズム

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第一章 彩りの交響曲と透明な波紋

僕、水島蓮が住むこの海辺の街には、奇妙な風習というより、もはや日常と化した現象がある。一日に一度、不規則な時間に訪れる数分間、すべての「音」が、その正体を剥き出しにするかのように色を帯びるのだ。街の人間はそれを「彩音現象(さいおんげんしょう)」と呼んでいた。

僕がアルバイトをしている古びたレコード店のドアが開く音は、いつも錆びた銅色(あかがねいろ)のしぶきを上げる。常連客の穏やかな挨拶は、柔らかな黄色い球体となって宙を漂い、店内に流れるビバップ・ジャズは、琥珀色と藍色が混じり合った渦を巻く。窓の外では、車の走行音が鈍い灰色の帯を引き、子供たちの甲高い笑い声が、シャボン玉のような虹色の粒子となって弾けていた。

彩音現象は、この退屈な日常における、ほんの少しの気まぐれなスパイスだった。初めて体験した時は驚いたが、二十四歳になった今では、テレビの天気予報と同じくらい、当たり前の風景になっていた。僕はカウンターに肘をつき、色とりどりの光が乱舞する様を、ただぼんやりと眺める。美しいとは思う。だが、その美しさは僕の心にまでは届かず、乾いた網膜の上を滑っていくだけだった。過去のある出来事から、僕の世界はすっかり色褪せてしまっていたから。

その日も、彩音現象は予告なく始まった。午後の柔らかな日差しが店内に差し込む、いつも通りの時間。カラン、とドアベルがくすんだ銅色の飛沫を散らした。入ってきたのは、週に一度、決まった曜日に訪れる物静かな老女だった。千代さん、と僕が心の中で呼んでいる彼女は、いつも何かを探すように、ゆっくりと店内を歩く。

「こんにちは」

彼女の挨拶は、か細く、まるで淡雪のような白い綿毛となってふわりと浮いた。僕は「いらっしゃいませ」と返し、僕のくぐもった声は、濁ったオリーブグリーンの煙となって消えた。

千代さんはいつものように、クラシックのピアノ曲が収められた棚へ向かう。その時だった。僕は、今まで一度も見たことのない光景に目を奪われた。

彩音現象の最中、あらゆるものが固有の色を放つこの世界で、彼女の周りだけが、まるで真空地帯のように「無色」だったのだ。いや、無ではない。よく見ると、彼女を中心に、まるで水面に小石を落とした時のような、透明な波紋が静かに、そしてゆっくりと広がっていた。それは音の色ではない。むしろ、音が徹底的に欠如した「沈黙」そのものが、形を持ってしまったかのような、異質で、そしてどこか神聖ささえ感じさせる光景だった。

店内に満ちる琥珀色のジャズの渦も、窓の外を流れる灰色の雑踏の帯も、その透明な波紋に触れると、すうっとその勢いを弱め、吸い込まれるように消えていく。まるで、彼女の静寂が、世界のすべての音を飲み込んでいるかのようだった。

僕はカウンターから身を乗り出していた。心臓が、久しぶりにトクン、と大きく脈打つのを感じる。なんだ、あれは。なぜ、彼女の周りだけ?

退屈な日常の風景だったはずの彩音現象が、突如として僕に解き明かすべき謎を突きつけてきた。僕は初めて、この現象の奥底に、自分の知らない深淵が広がっていることを予感した。千代さんの纏う、あの透明な波紋の正体を、どうしても知りたくなった。

第二章 失われたメロディ

その日から、僕の意識は千代さんに釘付けになった。彼女が店に現れる火曜日の午後が、一週間の中で最も待ち遠しい時間へと変わった。無気力な日常に、小さな杭が打ち込まれたような感覚だった。

「何か、お探しのレコードがあるんですか?」

次の火曜日、僕は思い切って声をかけた。僕の言葉は、相変わらず冴えないオリーブグリーンの煙となって漂ったが、以前より少しだけ輪郭がはっきりしているように感じた。

千代さんは、ゆっくりと僕の方を振り返った。節くれだった指が、一枚のレコードジャケットをそっと撫でている。

「ええ……ずっと探しているものがあるんです」彼女の声は、やはり淡雪のような白い綿毛だった。「主人が、昔聴かせてくれた曲で」

彼女はぽつりぽつりと語り始めた。それは、何十年も前の話。彼女の夫が、遠い戦地へ赴く前の晩、二人で聴いたレコードがあったという。曲名も、演奏家も覚えていない。ただ、ひどく静かで、優しい雨が降るようなピアノの曲だった、と。

「あの音を、もう一度聴きたくて」

そう言って微笑む彼女の目には、遠い過去を懐かしむ光と、決して埋まることのない喪失の影が、静かに同居していた。

僕は、その日から彼女のためにレコードを探し始めた。店の膨大な在庫の中から、「雨のよう」「優しい」「ピアノ曲」という、あまりに曖昧な手がかりだけを頼りに。ドビュッシーの『雨の庭』、ショパンの『雨だれ』、サティのジムノペディ。僕は見つけ出したレコードを、彼女が訪れるたびに試聴機で聴かせた。

ヘッドフォンをつけた彼女は、いつも静かに目を閉じ、耳を澄ませる。だが、数分後には小さく首を横に振り、「ありがとう。でも、違います」とだけ言うのだった。彼女が首を振るたび、僕の胸には小さな失望と、次こそはという微かな希望が交互に押し寄せた。

彩音現象が起きるたび、僕は彼女の周りに広がる透明な波紋を観察した。それは、どんなに美しいピアノの音色が店内に満ちても、決して色づくことはなかった。ただ静かに、揺らぎ続けるだけ。まるで、どんなメロディも拒絶しているかのように。

レコードを探す日々は、僕の内面に変化をもたらした。棚の埃を払い、作曲家の背景を調べ、ピアノの音色に耳を澄ませる。それは、今までただ時間をやり過ごすためだけだった労働とは、まったく違うものだった。誰かのために何かをしたい、という純粋な思いが、僕の心に錆びついていた歯車を、少しずつ動かし始めていた。

第三章 沈黙の色

何週間が過ぎただろうか。季節は夏から秋へと移ろい、店内に差し込む光も、どこか寂しげな色合いを帯び始めていた。その日の午後も、僕は千代さんのために探し出した数枚のレコードをカウンターに並べていた。彼女はいつものように静かに試聴し、そして静かに首を振った。

その直後だった。街が再び、彩りのシンフォニーに包まれた。彩音現象だ。

僕はカウンターから、がっかりした表情で棚に戻る千代さんの背中を見つめた。彼女の周りには、やはりあの透明な波紋が広がっている。その静謐な揺らめきを見つめているうちに、僕の頭に、雷に打たれたような一つの考えが閃いた。

もし、あれが「音」ではないとしたら?

もし、あれが「音の不在」、つまり「沈黙」そのものだとしたら?

彩音現象は、音を可視化する。ならば、完全な沈黙もまた、何らかの形で可視化されるのではないか。千代さんが纏っているのは、音のないことの証明、沈黙の「色」なのではないか。

その考えに至った瞬間、僕の脳裏に、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇った。

ピアニストだった母が、事故でこの世を去った日のこと。家中を満たしていたはずのピアノの音が、ぷっつりと途絶えた。それからの我が家は、息が詰まるほどの沈黙に支配された。父も僕も、どうしようもない喪失感を抱えながら、その沈黙の中で互いに心を閉ざしていった。僕が実家を飛び出し、この街で無気力に生きているのも、すべてはあの日の沈黙から逃れるためだった。

そうだ。僕もずっと、心の中に大きな「沈黙」を抱えて生きてきたのだ。

だから、見えたのかもしれない。他の誰にも見えない、彼女の沈黙の色が。

僕はハッとして千代さんを見た。彼女が探しているのは、本当に「特定の曲」なのだろうか。違うのではないか。彼女が本当に求めているのは、夫と共に過ごした、音楽が流れる穏やかな「時間」そのものであり、それが失われたことで生まれた、心の中の巨大な空白――「沈黙」を、優しく埋めてくれる何かではないだろうか。特定のメロディではなく、ただ、そこに寄り添ってくれる「音」そのものを。

僕の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れていく。僕は今まで、失われたものは二度と戻らないと、ただ諦めていた。しかし、千代さんは違う。彼女は何十年も、その失われた時間と、そこから生まれた沈黙と、向き合い続けてきたのだ。彼女の周りの透明な波紋は、彼女が背負ってきた、途方もない時間の重さそのものだった。

第四章 二人だけの演奏会

僕は決意した。

次の火曜日、僕は店の奥にある物置から、埃をかぶった古いアップライトピアノを引っ張り出してきた。店主が昔使っていたもので、今は誰も弾く者はいない。調律は狂っていたが、かろうじて音は出た。

そして、千代さんが店にやってきた。

「千代さん、こちらへ」

僕は彼女を、レコード棚の奥、ピアノが置かれた一角へと招いた。彼女は不思議そうな顔をしている。

僕はピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。幼い頃、母に教わったきりで、指はすっかりこわばっている。それでも、僕はゆっくりと鍵盤を押し始めた。

ポロン、ポロン……。

それは特定の曲ではなかった。僕が、彼女の話からイメージした「優しい、雨のような」メロディ。拙く、おぼつかない、即興の調べ。けれど、僕の持てるすべての思いを込めた音だった。

千代さんは、ただ黙って、その音に耳を傾けていた。

ちょうどその時、窓の外が輝きを増した。彩音現象が始まったのだ。

僕の奏でるピアノの音は、柔らかな水色の光の粒となって、ゆっくりと舞い上がった。それはまるで、乾いた大地に染み込む、最初の雨粒のようだった。

そして、奇跡が起きた。

水色の光の粒が、千代さんの周りに広がっていた透明な波紋に触れた瞬間――。

波紋は、まるでプリズムのように、眩い光を放った。

水色の光は、その透明な波紋を通過することで、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……数えきれないほどの虹色の光の破片へと分かれ、キラキラと輝きながら店内に拡散した。それは、何十年という長い時間凍てついていた沈黙が、ようやく優しい音と出会い、歓喜の涙を流しながら溶けていくかのような、あまりに幻想的で、荘厳な光景だった。

千代さんの頬を、一筋の涙が伝った。

「……ああ」

彼女は震える声で言った。

「これです。私が、聴きたかったのは……この音です」

彼女が探していたのは、過去のレコードの音ではなかった。今、ここに響く、彼女の沈黙に寄り添ってくれる、たった一つの優しい音だったのだ。僕の抱えていた沈黙と、彼女が背負ってきた沈黙が共鳴し、新たな「色」と「音」を生み出した。それは喪失を乗り越えるのではなく、喪失という名の沈黙と共に生きていくことの、静かな肯定のように思えた。

それから、千代さんは毎週火曜日に店へやってくる。だが、もうレコードを探すことはない。ただ、僕が弾くピアノを聴くために。

彩音現象が起きるたび、僕と彼女の周りには、沈黙のプリズムから生まれた優しい虹色の光が、穏やかに満ちるようになった。

僕の日常は、何も変わらない。相変わらず古いレコード店で働き、彩音現象が起きる街で暮らしている。だが、その日常を見つめる僕の瞳の色は、もう以前のような色褪せたものではなかった。音のない場所にも、沈黙の中にも、豊かな世界は広がっている。僕は、そのことを知った。

窓の外で、街の音たちが色とりどりの光となって踊っている。僕はその光景を、心からの微笑みで見つめていた。僕の世界は、ようやく、本当の色を取り戻し始めていた。

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