ベンチの上の万年筆

ベンチの上の万年筆

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第一章 色褪せた風景とインクの染み

柏木健太の日常は、限りなく透明に近かった。色も、味も、匂いもない。朝、無機質なアラーム音で目覚め、コンビニのサンドイッチを味気なく咀嚼し、満員電車に揺られてデザイン会社へ向かう。PCのモニターが放つ青白い光を浴び続け、夜になれば再び同じ電車で、借り物の寝床のようなワンルームアパートに帰る。そんな灰色のループを、彼はもう何年も繰り返していた。

変化を嫌い、人との深い関わりを避けてきた結果、彼の世界からは彩度が失われて久しい。友人と呼べる人間はほとんどおらず、会社の同僚とも当たり障りのない会話を交わすだけ。三十を過ぎた男の人生は、まるで使い古されたスケッチブックのように、ぼんやりとくすんでいた。

異変に気づいたのは、秋風が少し冷たくなってきた火曜日の朝だった。いつもの通勤路、古びた公園の脇にある木製のベンチ。その座面の真ん中に、一本の万年筆がぽつんと置かれていたのだ。深い藍色の軸に、銀色のクリップがきらりと光る、年代物らしい風格のある万年筆だった。

(誰かの忘れ物か)

健太は一瞥しただけで通り過ぎた。この都会では、忘れ物など日常茶飯事だ。すぐに持ち主が取りに来るか、誰かが交番に届けるだろう。そう思っていた。

しかし、翌日も、万年筆は同じ場所にあった。水曜日の朝、雨がアスファルトを濡らしていたが、万年筆は健在だった。まるでベンチの一部であるかのように、そこにあるのが当たり前だと言わんばかりに。さすがに気になり、健太は足を止めた。手に取ってみると、ずしりとした重みがある。キャップを外してみたが、ペン先は乾ききっていた。インクがないらしい。彼は万年筆を元の場所に戻し、首を傾げながら会社へ向かった。

木曜日も、金曜日も。週末を挟んだ月曜日でさえ、万年筆は変わらずそこに在り続けた。持ち主が現れる気配はない。誰かが悪戯で置いているのか? それにしても、こんな美しい万年筆を盗む者もいないとは。その不可解な存在は、健太の透明な日常に、ぽつりと落ちたインクの染みのように、じわりと無視できない輪郭を描き始めていた。

彼の心の中で、普段は固く閉ざされている好奇心の扉が、錆びた音を立てて少しだけ開いた。この万年筆は、一体誰が、何のために――。その小さな謎が、色褪せた風景の中で、唯一確かな色彩を放っているように思えた。

第二章 インクに溶けた記憶

一週間が過ぎた火曜日の夜、健太はついに衝動を抑えきれなくなった。会社からの帰り道、公園のベンチは街灯に寂しく照らされていた。万年筆は、今日も主を待つ忠犬のようにそこに座っている。彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ポケットからハンカチを取り出し、そっと万年筆を包み込んだ。心臓が妙に速く打っている。まるで禁じられた果実を盗むような、微かな罪悪感と高揚感が入り混じっていた。

アパートに帰り着き、デスクライトの下で万年筆を改めて眺める。使い込まれて角の取れた軸は、滑らかに手に馴染んだ。キャップには、『Eterna』という筆記体のロゴが刻まれている。健太は近所の文房具店で買ってきたブルーブラックのインクカートリッジを、慎重に装着した。

さて、書き味はどんなものだろうか。彼は無地のノートを開き、ペン先を紙に滑らせた。自分の名前でも書こうとした、その瞬間だった。

――ぐにゃり、と視界が歪んだ。

目の前のノートが消え、代わりに知らない部屋の光景が広がった。窓の外で金木犀が甘く香り、障子越しの柔らかな陽光が畳の上に温かい模様を描いている。目の前には、皺の刻まれた優しい顔の老婆が座り、編み物をしながら微笑んでいた。その光景は一瞬で消え、健太はハッと我に返った。自分の部屋の、冷たいデスクの前に座っている。何だ、今の幻覚は。疲れているのか。

彼はもう一度、ノートに線を引いた。すると今度は、子供の甲高い歓声が耳元で響いた。補助輪の外れた自転車がぐらつきながら進み、後ろから「そうだ、そのまま!」と励ます若い父親の声がする。転んだ子供の膝から滲む血の匂いと、土埃の味までが、現実のように感じられた。

健太は慄然とした。これはただの万年筆ではない。インクを流し、文字を綴ろうとすることで、この万年筆が過去に書き記してきた誰かの「記憶」を追体験できるのだ。彼は恐る恐る、そして次第に貪るように、ノートに意味のない線を描き続けた。

ページをめくるたびに、異なる人生が立ち現れた。卒業式で答辞を読む女子高生の震える声と、涙の塩辛さ。初めてのデートで、緊張しながら恋人の手に触れた時の、汗ばんだ感触。雪の降る駅のホームで、遠ざかる列車を見送る男の、胸を締め付けるような寂寥感。それは、健太が決して経験することのなかった、豊かで、切実で、人間味あふれる感情の奔流だった。

彼の透明だった日常は、この万年筆によって鮮やかに彩られていった。会社から帰ると、彼は食事もそこそこにデスクにかじりつき、他人の人生を覗き見る甘美な行為に没頭した。知らない誰かの喜びや悲しみに心を揺さぶられるたび、自分の人生がいかに空虚で、取るに足らないものかを痛感した。同時に、その空虚さから逃れるように、彼はますます記憶の世界に深く沈んでいった。

第三章 最後の一滴が描いた顔

万年筆の記憶に溺れる日々が続き、健太は会社を休みがちになった。現実世界の人間関係や仕事など、どうでもよくなっていた。彼の関心はただ一つ、インクカートリッジが空になる前に、どれだけ多くの人生を味わえるか、ということだけだった。インクが減るにつれて、流れ込んでくる記憶はより鮮明に、より濃密になっている気がした。この感動を、誰にも渡したくない。あのベンチに返さなくてよかった。そんな独善的な思いが、彼の心を支配していた。

ある晩、カートリッジの中のインクが、残りわずかになっていることに気づいた。最後の一滴。これで終わりだ。名残惜しさと寂しさを感じながら、健太はノートの新しいページに、最後の一線を引いた。

その瞬間、これまで経験したことのないほど強烈な光景が、彼の意識を飲み込んだ。

見覚えのある公園だった。自分が子供の頃によく遊んだ、あの公園。そして、目の前には、若く、少し不器用そうに笑う男がいた。自分の父親だ。数年前に病で他界した、父だった。

『健太、こうやって持つんだ。力を入れすぎると、紙が破れるぞ』

優しいが、少しぶっきらぼうな声。父の大きな手が、幼い自分の手を包み込むようにして、一本の万年筆を握らせている。それは、今まさに自分が手にしている、藍色の万年筆だった。

『父さん、これ、なんて読むの?』

『エ、テ、ル、ナ。……永遠、っていう意味だ』

父は、ひらがなを覚えたての健太に、その万年筆で文字の書き方を教えてくれていた。忘れていた。いや、忘れたふりをしていた、あまりにも温かい記憶の断片だった。父が病に倒れ、日に日に弱っていく姿を見るのが辛くて、健太は無意識のうちに父との幸せな記憶に蓋をしていたのだ。

記憶の奔流は止まらない。父が亡くなる数日前、病院のベッドで、掠れた声で健太に言った言葉が蘇る。

『健太……あの公園の、ベンチで……待ってるからな』

当時は、せん妄だと思っていた。意味のわからない、病が見せる幻だと。だが、違った。父は、この万年筆を、自分との思い出の品を、あのベンチに置くことで、何かを伝えたかったのだ。息子がいつか、この万年筆に気づき、手に取り、そして自分たちの絆を思い出してくれることを、願っていたのだ。

あの万年筆は、見ず知らずの誰かの忘れ物などではなかった。他の誰でもない、父から息子へ宛てた、声なき手紙だったのだ。

健太は愕然とした。自分はなんて愚かだったのだろう。父の最後の願いを無視し、その想いが宿った万年筆を、ただの退屈しのぎの道具として弄んでいた。他人の人生ばかりを追いかけ、自分自身の、最も大切にすべき記憶から目を背けていた。

ノートの上に、ぽた、ぽたと大粒の涙が落ち、滲んでいく。それは、他人の記憶から感じた借り物の感情ではない。柏木健太自身の、本物の涙だった。

第四章 君が綴る物語

万年筆を固く握りしめ、健太はアパートを飛び出した。夜の冷たい空気が肺を刺すのも構わず、彼は走った。思い出の公園へ。

ベンチは、主を失った今も、街灯の下で静かに佇んでいた。健太はそこにどさりと腰を下ろし、震える手でノートを開いた。インクはもう、ほとんど残っていないだろう。彼は万年筆のペン先を紙に押し当て、最後の一滴を振り絞るように、祈るように、文字を綴った。

『父さん、ありがとう』

その言葉を書き終えた瞬間、ペン先がかすれ、インクは完全に尽きた。もう、不思議な記憶が流れ込んでくることはない。万年筆は、魔法を失い、ただの古いペンに戻った。

だが、健太の心は、不思議なほどの静けさと温かさで満たされていた。空っぽだった心に、父との確かな記憶が、失われたと思っていた愛情が、再び注ぎ込まれたのだ。彼は空を見上げた。都会の夜空にも、瞬く星がいくつか見えた。父も、どこかからこの星を見ているだろうか。

翌朝、健太は久しぶりに、すっきりとした気持ちで目覚めた。窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。彼は丁寧に髭を剃り、アイロンのかかったシャツに袖を通した。いつもの通勤路。しかし、彼の目に映る世界は、昨日までとは全く違っていた。

道端に咲く名も知らぬ花の健気さ。風が運ぶパン屋の香ばしい匂い。すれ違う人々の、何気ない会話や表情。そのすべてが、生きていることの証として、鮮やかに輝いて見えた。彼の日常は、もともと透明などではなかったのだ。ただ、彼自身が目を閉じていただけだった。

会社に着くと、彼は自分のデスクに、父の万年筆をそっと置いた。それはもう、記憶を再生する魔法の道具ではない。父との絆であり、そしてこれからの自分の人生を歩むための、道標だった。彼は空になったカートリッジを抜き、新しいブルーブラックのインクを静かにセットした。

そして、真新しいノートを開く。

これから綴るのは、誰かの借り物の人生ではない。退屈だと嘆いていただけの、灰色の昨日でもない。

柏木健太自身の、物語だ。

彼は深く息を吸い、真っ白なページに、ゆっくりとペン先を下ろした。どんな物語が始まるのか、まだ誰にもわからない。だが、その第一行目が、確かな意志と希望の光を帯びていることだけは、間違いなかった。

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