ラスト・フレームの君

ラスト・フレームの君

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第一章 空白の絵葉書

水野蒼(みずのあおい)の日常は、限りなく透明に近い灰色をしていた。都内の撮影スタジオで、売れっ子カメラマンのアシスタントとして働く日々。ライトを組み立て、レフ板を構え、撮影データを管理する。ファインダーを覗くのは、いつも自分ではない誰かだった。かつて写真家を夢見た情熱は、現像液の匂いが染みついた部屋の隅で、埃をかぶっていた。

そんな蒼の世界で、唯一鮮やかな色彩を放つ存在がいた。月島陽(つきしまはる)。幼馴染であり、唯一無二の親友。高校を卒業すると同時に「世界中の空をこの目に焼き付ける」と宣言し、リュック一つで日本を飛び出した男。蒼とは正反対の、太陽のような人間だった。

陽からは毎年、蒼の誕生日に必ず絵葉書が届いた。アンデスの乾いた風、サハラの燃えるような夕日、アイスランドのオーロラ。拙いながらも温かい文字で綴られる近況報告は、蒼にとって世界と繋がる唯一の窓であり、陽がこの世界のどこかで、元気に笑っている証だった。

しかし、二十六歳になった今年の誕生日、郵便受けは空っぽだった。一日待ち、三日待ち、一週間が過ぎても、陽からの便りは届かなかった。胸の内に、じわりと冷たい染みが広がっていく。陽に限って、そんなはずはない。何かがあったのだろうか。不安が現実味を帯びて、灰色の日常をさらに色褪せさせていった。

誕生日から十日ほど過ぎた雨の夜。チャイムの音にドアを開けると、そこには誰もいなかった。ただ、足元に小さな段ボール箱が一つ、雨に濡れて置かれているだけだった。差出人の名前はない。不審に思いながらも部屋に運び入れ、カッターで封を開ける。緩衝材に包まれていたのは、見覚えのある一台の古いフィルムカメラだった。

「ライカM3……」

思わず声が漏れた。陽が宝物のように首から下げ、世界中を共に旅したカメラと同じモデルだ。そっと手に取ると、ずしりとした金属の冷たさと、使い込まれた革の質感が指に伝わる。陽の体温がまだ残っているかのような錯覚に陥った。

巻き上げレバーは固く、フィルムカウンターは「1」を指している。まだ一枚、撮れるということか。ファインダーに目を当て、部屋の明かりにレンズを向ける。その瞬間、蒼は息を呑んだ。

そこに見えたのは、薄暗い自室の風景ではなかった。どこまでも広がる青い海と、白い砂浜。砕ける波の音が、耳の奥で響くような気さえした。目を離し、もう一度覗き込む。やはり同じ光景が見える。まるで、このカメラが遠いどこかの風景を、今この瞬間に切り取っているかのように。

これは、陽からのメッセージなのか。あの絵葉書の代わりに。だとすれば、なぜ彼は何も言わずにこれを送ってきたのか。そして、このファイン-ダー越しの風景は、一体どこなのだ。

残された最後の一枚のフィルム。このシャッターを切ることが、蒼にとって解くべき謎の始まりとなった。灰色の世界に投じられた、あまりにも鮮やかで、そして不可解な一石だった。

第二章 ファインダー越しの追憶

陽の行方を探す手がかりは、あまりにも少なかった。彼の実家に連絡を入れても、両親ですら「最近は連絡がなくてね」と心配している様子だった。途方に暮れた蒼は、一縷の望みをかけて、陽が最後に送ってきた一年前の絵葉書を何度も見返した。消印はスペインの小さな港町。そこに何かヒントがあるかもしれない。

蒼は、有給休暇をすべて使い、その港町へ飛んだ。強い陽射しと、潮の香りが全身を包む。石畳の路地、壁を埋め尽くすブーゲンビリア、陽気な漁師たちの声。陽が好きそうな、生命力に満ち溢れた場所だった。

陽の写真を片手に、聞き込みを始める。カフェの店主、ホテルのコンシェルジュ、土産物屋の老婆。誰もが首を横に振った。「こんな東洋人の若者は、見たことがないね」。陽がここにいたはずだという確信が、少しずつ揺らいでいく。

歩き疲れて港の突堤に腰を下ろした蒼は、鞄からあのライカを取り出した。ファインダーを覗くと、やはりあの青い海と白い砂浜が見える。だが、今、目の前に広がる港の風景とは明らかに違っていた。これは幻などではない。このカメラには、何か特別な力が宿っているのだろうか。

陽との記憶が、波の音と共に蘇る。いつも輪の中心で笑っていた陽。その隣で、黙ってシャッターを切っていた自分。陽はいつも言っていた。「蒼の写真は、優しいな。お前は世界を愛してるのが伝わってくる。だから、もっと撮れよ。お前の目で見た世界を、俺にも見せてくれ」。

自分には才能がないと卑下する蒼を、陽だけはいつも肯定してくれた。彼の存在が眩しくて、同時に少しだけ息苦しかった。彼のようにはなれない。その劣等感が、いつしか蒼からカメラを遠ざけていた。

「陽……お前は今、どこにいるんだよ」

呟きが、カモメの鳴き声に掻き消される。諦めかけていたその時、ふと、一軒の古びた下宿屋が目に留まった。観光客向けのホテルとは違う、地元の人々が使うような宿。何かに引き寄せられるように、蒼はその錆びた鉄の扉を押した。

「ごめんください」

奥から出てきた白髪の女主人は、蒼が差し出した陽の写真を見ると、僅かに目を見開いた。

「……ああ、ハルかい。覚えてるよ。去年の夏、しばらくここにいたからね」

ようやく見つけた手がかりに、蒼の心臓が高鳴る。しかし、女主人の表情はどこか曇っていた。彼女はゆっくりと口を開く。「あの子、ずいぶん痩せて、辛そうだったよ。時々、ひどく咳き込んでいたからね」。

その言葉は、蒼が抱いていた「自由な冒険家・月島陽」のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。

第三章 約束のシャッター

女主人の案内で、陽が泊まっていたという屋根裏部屋に通された。小さな窓から港が見下ろせる、簡素な部屋。そこに漂う空気は、どことなく陽の匂いがするようで、蒼は胸が締め付けられるのを感じた。

「あの子はね、毎日手紙を書いていたよ。日本の、大事な友達に送るんだって、嬉しそうに話してた」。女主人はそう言うと、戸棚の奥から一通の古びた封筒を取り出した。「これは、君に渡してくれって預かっていたものだ。いつか君がここを訪ねてくると、ハルは信じていたみたいだね」

震える手で封筒を受け取る。宛名には、確かに自分の名前が、陽の少し癖のある文字で書かれていた。封を切り、便箋を広げる。そこに綴られていたのは、蒼の予想を根底から覆す、衝撃的な真実だった。

『蒼へ。この手紙を読んでいるってことは、お前はちゃんと俺を見つけてくれたんだな。さすが、俺の相棒だ。ごめんな。ずっと嘘をついてて』

手紙によれば、陽は高校を卒業してすぐに、重い肺の病気を患っていた。世界中を旅しているというのは、真っ赤な嘘だった。実際には、日本の病院で入退院を繰り返す日々。蒼に送っていた絵葉書は、昔、短期留学で訪れた国の写真ストックを使い、海外にいる友人に投函を頼んでいたものだったという。

『お前に心配かけたくなかった。俺は、お前にとっての太陽でいたかったんだ。お前が俺の旅の話を聞いて、目を輝かせるのが好きだった。俺の見てきた世界が、お前の写真のインスピレーションになればって、本気で思ってた』

文字が、涙で滲んで読めなくなる。陽は、自分のためではなく、蒼のために「冒険家」を演じ続けていたのだ。自分が抱いていた劣等感や息苦しさは、陽の途方もない優しさの前に、あまりにもちっぽけで、身勝手なものに思えた。

『このカメラは、俺の最後の我儘だ。俺はもう、ファインダーを覗く力も残ってない。だから、お前に託す。最後の一枚、お前が本当に撮りたいものを撮ってくれ。それが、俺とお前の友情の証だ。お前の写真で、俺が見たかった最後の景色を見せてくれ』

手紙の最後は、こう締め括られていた。

『約束だぞ、蒼』

蒼は、その場に崩れ落ちて声を上げて泣いた。陽の苦しみも知らず、自分はなんて鈍感だったのだろう。友情に依存していたのは、自分だけではなかった。陽もまた、蒼という存在を支えに、病という過酷な現実と戦っていたのだ。

ファインダー越しのあの青い海は、陽が蒼に見せたかった、偽りの、しかし真心のこもった夢の風景だったのだ。カメラに残された最後の一枚。そのシャッターに込められた陽の想いの重さに、蒼は打ち震えた。

第四章 ラスト・フレーム

日本に戻った蒼は、スタジオに辞表を提出した。もう、誰かの影の中にいるのは終わりだ。陽が命を懸けて繋いでくれたバトンを、受け取らなければならない。

陽が見たかった最後の景色とは、何だろう。蒼は考え続けた。そして、一つの場所に思い至った。それは、二人がまだ子供だった頃、秘密基地にしていた街外れの丘だった。夕暮れ時、眼下に広がる街の灯りを見下ろしながら、二人は夢を語り合った。「俺は世界を撮る写真家になる」「じゃあ、俺は蒼の最初の個展を開くプロデューサーだな」。他愛もない、しかし、二人にとっては本気の約束だった。

蒼は夜明け前、ライカを首から下げてその丘に登った。東の空が白み始め、世界が藍色から茜色へとゆっくりと表情を変えていく。冷たい空気が肌を刺し、草葉の上には朝露が光っていた。かつてと何も変わらない風景。だが、隣に陽はいない。

カメラを構え、ファインダーを覗く。不思議なことに、あの海辺の風景は消え、ありのままの丘の景色がそこにはあった。まるで、陽が蒼に「もう夢はいい。お前の現実を撮れ」と語りかけているようだった。

陽と過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。彼の笑顔、彼の声、彼の眼差し。彼はもういない。だが、彼の魂は、このカメラの中に、そして自分の心の中に、確かに生きている。

「見てるか、陽。これが、俺が見たかった景色だ。そして、お前に見せたかった景色だ」

蒼は、静かに息を吸い込んだ。そして、陽への感謝と、これから一人で歩んでいく決意を込めて、優しくシャッターを切った。カシャッという乾いた音が、夜明けの静寂に響き渡った。それは、長い別れと、新しい始まりの合図だった。

数年後。

都内の一角にある小さなギャラリーで、写真家・水野蒼の初めての個展が開かれていた。壁には、彼がその後旅した世界各地の風景と、そこに生きる人々の素顔を捉えた写真が並んでいる。どれも、陽が褒めてくれた「優しい」眼差しに満ちていた。

会場の中央、ひときわ目立つ場所に、一枚だけ引き伸ばされた写真が飾られている。

タイトルは、『約束』。

朝焼けに染まる、誰もいない丘の写真だ。

しかし、その写真を見つめる人々の心には、肩を並べて未来を語り合う、二人の親友の姿が確かに見えていた。

ギャラリーの片隅で、蒼は静かにその写真を見つめていた。彼の表情は穏やかで、その瞳は、かつての灰色の世界にいた青年とは思えないほど、強く、澄んだ光を宿していた。友情は、たとえ片方がこの世を去っても、遺された者の心の中で、そして作品の中で、永遠に生き続ける。ラスト・フレームに焼き付けられたのは、風景だけではない。二人の魂そのものだった。

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