きみが忘れた、ぼくの輪郭
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きみが忘れた、ぼくの輪郭

第一章 彩度のない世界

アキが淹れたコーヒーは、いつも完璧な香りがした。しかし、今日の僕、カイの鼻腔をくすぐるのは、ただの湯気に似た何かだった。

「どう?カイ。新しい豆、試してみたんだ」

目の前で、アキは期待に満ちた瞳で僕を見る。その笑顔は、僕が守り続けてきた宝物だ。僕はカップを傾け、味のない黒い液体を喉に流し込んだ。舌の上を滑る熱だけが、これが飲み物であることを教えてくれる。

「…うん、美味いよ。少し、フルーティーな感じがする」

嘘だ。僕にはもう、味なんて分からない。

アキの深い悲しみを、絶望を、僕がこの身に引き受けるたび、世界は僕から一つずつ感覚を奪っていく。それが僕の持つ、呪いのような能力。最初は嗅覚だった。次は味覚。最近では、アキの弾くギターの繊細な音色が、水中で聴くようにぼやけて聞こえるようになっていた。

それでも、アキが笑ってくれるなら、それでよかった。彼女は知らない。僕の秘密も、僕が払っている代償も。それでいい。彼女の心が晴れやかであることこそ、僕の存在理由なのだから。

異変に気づいたのは、ある晴れた日の午後だった。僕たちは、幼い頃によく遊んだ丘の上の公園にいた。

「ねえ、カイ。覚えてる?あの古い灯台。初めて二人で見た夕日、燃えるみたいに綺麗で、世界が終わるかと思ったよね」

アキが無邪気に笑う。もちろん、覚えている。あの日の空の色、潮の香り、カモメの鳴き声。僕の記憶の中では、まだ鮮やかだ。

「ああ。覚えてるよ。お前、感動して泣いてたじゃないか」

「えー、そうだっけ?」

アキは楽しそうに首を傾げた。そして、遠くの海を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「…どんな夕日だったかな。なんだか、うまく思い出せないや」

その言葉は、僕の心臓に冷たい釘を打ち込んだ。ただの物忘れだろうか。いや、違う。彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、がらんどうの空虚が揺らめいたのを、僕は見逃さなかった。

僕の能力の副作用が、ついに彼女にまで及んでしまったのだろうか。僕が彼女の感情を肩代わりしすぎたせいで、その感情に紐づく記憶まで、僕が奪ってしまったというのか。自責の念が、鈍くなったはずの胸を鋭く抉った。

部屋に戻ると、窓辺に置かれた小さな砂時計に目が留まった。幼い頃、アキと見つけた「無音の砂時計」。砂は決して落ちきらず、永遠の友情の証として、彼女が僕に預けてくれたものだ。ガラスには、僕たちの名前が拙い字で刻まれている。

僕は知っている。僕がアキの痛みを引き受けるたび、この時計の砂は、音もなく僅かに落ちる。そして、僕が五感を一つ失うたび、まるで時間を拒むように、砂はほんの少しだけ逆流するのだ。

今、その砂は、僕が初めて見た時よりも、確実に下へと傾いていた。

第二章 見えない侵食

アキの記憶の欠落は、ゆっくりと、しかし確実に進行していった。二人でよく聴いたバンドの名前を忘れ、一緒に観た映画の結末を思い出せなくなった。彼女はそれを「最近、忘れっぽくて」と笑い飛ばしたが、その笑顔がひどく脆いものであることに、僕だけが気づいていた。

僕は自分の能力を呪った。アキを守るための力が、アキの大切なものを奪っている。この矛盾が、僕の精神をじわじわと蝕んでいく。

そんなある夜、悪夢にうなされて目を覚ました僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。隣の部屋で眠っているはずのアキの体から、 희미で禍々しいオーラが立ち上っているのが「見えた」のだ。それは、僕が彼女の感情を引き受ける時に感じる、負のエネルギーの奔流に似ていた。

僕は震える足で彼女の部屋に忍び込む。眠るアキの胸のあたりが、微かに黒く澱んでいる。僕が全ての力を集中させると、その澱の中心に、漆黒の小さな石のようなものが存在していることが分かった。

――侵食石。

古文書で一度だけ読んだことがある。人が抱えきれないほどの負の感情が、魂の奥底で結晶化したもの。宿主の幸福な記憶を糧に成長し、やがてその精神を完全に食い尽くすという呪いの石。なぜ、アキにこんなものが? 彼女がそれほど深い絶望を抱え込んでいるとは、到底思えなかった。僕が、常に彼女の悲しみを取り除いてきたはずなのだから。

まさか。

僕の脳裏に、一つの恐ろしい仮説が浮かび上がった。僕が彼女から引き受けた感情は、本当に「全て」消化できていたのだろうか。もし、僕の器から溢れた、消化しきれなかった悲しみの澱が、巡り巡って彼女の魂に還り、結晶化してしまったのだとしたら――。

僕がアキを守ろうとした行為そのものが、彼女を蝕む元凶だった。

その事実は、僕の失われつつある世界を、完全に崩壊させるのに十分だった。触覚が鈍り始めた指先で、無音の砂時計に触れる。ガラスの冷たささえ、もう感じない。だが、僕の決意は、かつてないほど熱く、鋭く固まっていた。

原因が僕にあるのなら、僕が終わらせなければならない。アキの記憶が全て消え去る前に。この石を取り除く方法を、見つけ出さなければ。

第三章 砕けた約束の欠片

侵食石の正体を探るため、僕は記憶の海を深く、深く潜っていった。アキの笑顔の裏に隠された、僕が引き受けた無数の悲しみを辿っていく。そして、ついにその源流に辿り着いた。

三年前の、雨の夜。

アキは、音楽家になるという夢を、彼女が誰よりも尊敬していた父親に、生まれて初めて否定された。「お前に才能はない」「現実を見ろ」という無慈悲な言葉は、彼女の心を粉々に打ち砕いた。

部屋で膝を抱え、声を殺して泣くアキの背中は、今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。僕は黙って彼女の隣に座り、その絶望が僕の中に流れ込んでくるのに身を任せた。それは、今まで経験したことのないほど巨大で、冷たく、重い感情の濁流だった。僕の能力の許容量を、明らかに超えていた。

引き受けた後、僕は三日三晩、高熱にうなされた。そして、その時からだ。僕の嗅覚が、完全に失われたのは。

あの時だ。あの時、僕が「消化しきれなかった」彼女の絶望の欠片が、彼女の魂の奥底に残留し、時を経て侵食石へと変質したのだ。

僕が彼女の夢を守りたくて取った行動が、皮肉にも、彼女の輝かしい思い出を蝕む呪いとなっていた。なんという愚かな結末だろう。

「カイ、どうしたの?ぼーっとして」

ふと我に返ると、アキが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。彼女の声は、もうほとんど僕には届かない。世界の彩度は失われ、彼女の顔さえ、古いモノクロ写真のように見える。

「なんでもない」

僕は、かろうじて動く唇でそう答えた。

「それより、アキ。お前のギター、聴かせてくれないか」

「え?いいけど…」

アキは不思議そうな顔をしながらも、壁に立てかけてあったギターを手に取った。彼女が奏でるメロディは、きっと美しいのだろう。だが、僕の耳に届くのは、微かなノイズだけだった。

それでも僕は、アキの指の動き、楽しそうにリズムを刻む足、そして何よりも、音楽を奏でる彼女の、光り輝くような笑顔を、この目に焼き付けた。

もう、時間がない。僕の存在の輪郭が、世界から溶け出して消えてしまう前に。

第四章 無音の告白

侵食石を取り除く方法は、ただ一つしかなかった。

あの石は、僕が消化しきれなかったアキの感情であり、もはやアキの一部であり、僕の一部でもある。外部からの力では決して破壊できない。石を消し去るには、その感情を構成する全ての要素を、根源から「無」に帰すしかない。

そして、その感情の根源とは――僕自身だった。

僕の存在そのものを対価として捧げ、侵食石と相殺させる。それが、アキを救う唯一の方法。

五感のほとんどを失った僕は、もはや世界の傍観者だった。アキの手に触れても、その温かさは感じられない。彼女が僕の名前を呼ぶ声も、風の音と区別がつかない。僕という存在の輪郭が、急速に曖昧になっていくのを感じていた。

最後の夜。僕はアキを、あの思い出の灯台へ誘った。

「どうして急に、こんな場所に?」

アキは不思議そうに呟く。僕にはもう、彼女の表情の細かな機微は読み取れない。ただ、そこに彼女がいる、ということだけが、かろうじて認識できる世界の全てだった。

僕は何も答えず、おぼつかない足取りで彼女に近づき、その胸に、そっと手を当てた。

「お前が笑っていてくれるなら、俺はなんだってできる」

それは、声になっただろうか。音にもならない、ただの想念だったかもしれない。

僕は最後の力を振り絞った。僕の全てを。僕という存在の概念を。

僕の体が、足元から光の粒子となって崩れていくのが見えた。それはまるで、古いフィルムが燃え尽きる時のように、静かで、そして絶対的な消滅だった。粒子はアキの胸の中へと吸い込まれ、漆黒の侵食石に触れた瞬間、まばゆい光を放って霧散した。

消えゆく意識の中で、奇跡が起きた。

ほんの一瞬だけ、失われた全ての感覚が、奔流のように僕の魂に流れ込んできたのだ。

潮の香りがした。波の音が聞こえた。頬を撫でる夜風の冷たさを感じた。

そして、目の前に立つアキの、驚きと悲しみに彩られた、美しい瞳の「色」が見えた。彼女の唇から漏れた、僕の名前を呼ぶ「声」が、はっきりと聞こえた。

「ああ、よかった」

君の世界は、こんなにも美しかったんだな。

それが、僕の最後の想いだった。

第五章 きみが笑う、ぼくのいない朝

アキは、穏やかな朝の光の中で目を覚ました。窓から差し込む陽光は部屋を暖かく満たし、どこからか香ばしいコーヒーの匂いが漂ってくる。世界は輝きに満ちていた。

彼女は新しい曲を書き上げ、コンクールで大きな賞を獲得した。かつて彼女の夢を否定した父も、今では一番のファンだと公言して憚らない。友人たちに囲まれ、彼女は心からの笑顔で毎日を過ごしていた。人生は、この上なく幸福だった。

ただ、時折、胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な感覚に襲われることがあった。

何か、とても大切で、かけがえのないものを失ってしまったような、漠然とした喪失感。理由もなく、ふと涙がこぼれそうになる。でも、それが何なのか、誰を想っての感情なのか、彼女には分からなかった。

ある日、部屋を掃除していると、本棚の隅で、小さなガラスの砂時計を見つけた。中身は完全に空っぽで、からりと乾いていた。側面には、自分の名前『アキ』と、もう一つ、傷だらけでどうしても読むことのできない名前が、並んで刻まれている。

「…なんだろう、これ」

首を傾げ、彼女はそれを窓辺に置いた。太陽の光を浴びて、空っぽのガラスが静かにきらめく。

それが、誰かと交わした「永遠の友情の証」だったことなど、彼女はもう、永遠に知ることはない。

世界からたった一つの存在が消え去ったことで、一人の少女は無限の幸福を手に入れた。

空っぽの砂時計だけが、誰にも知られることなく、かつてそこに在った、あまりにも優しい魂の輪郭を、静かに映し続けていた。

AIによる物語の考察

『きみが忘れた、ぼくの輪郭』は、究極の自己犠牲と愛が織りなす、詩的で切ない物語です。

主人公カイは、愛するアキの負の感情を肩代わりする特殊な能力を持つが、その代償として自身の五感を一つずつ失っていく。アキを守る献身が、巡り巡って彼女の記憶を蝕む「侵食石」を生み出すという悲劇的な皮肉は、読者の胸に深く突き刺さります。五感を失い、世界の輪郭が曖昧になっていく中でも、アキを救うというカイの決意は研ぎ澄まされ、最終的に自身の存在そのものを捧げることで彼女の未来を確保する。彼の行動は、まさに無償の愛の極致であり、存在が消えゆく最後の瞬間に五感が戻る奇跡は、彼の献身が報われたかのような、しかしあまりに儚い救済を提示します。対照的にアキは、その代償を知ることなく幸福な人生を手に入れるという、残酷なまでのパラドックスを抱えています。

この物語の世界観は、極めて詩的な設定に彩られています。カイの能力は、他者の感情という内的な概念が、五感の喪失という物理的な代償へと転化されるという、ユニークな法則に基づいています。「無音の砂時計」は、二人の関係性と、カイの残された時間を象徴する、物語全体を貫く重要なモチーフ。砂が落ちるたびに彼の命が削られ、逆流するたびに感覚が失われるという描写は、彼の存在が世界から少しずつ消えていく過程を視覚的に表現し、読者に深い情感を呼び起こします。

本作が投げかける深遠なテーマは、「自己犠牲の愛」と「幸福の代償」でしょう。カイの存在が消え去ったことでアキが幸福を得るという結末は、誰かの幸福は、誰かの深い喪失や犠牲の上に成り立っている可能性を問いかけます。また、記憶が失われることで個人のアイデンティティが揺らぐアキと、五感が失われることで自身の輪郭が曖昧になるカイの姿は、「存在とは何か」「記憶が失われた先に残るものとは何か」という根源的な問いを読者に促します。空っぽの砂時計だけが、消え去った優しい魂の「不在の存在」を静かに映し出すラストは、物語の余韻を一層深く、切ないものにしています。
この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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