虚ろな箱庭の守り人
第一章 空白の共鳴者
俺には、心がなかった。
いや、正確には「愛情」を溜めておくための器に、生まれつき穴が空いているようだった。街角で交わされる恋人たちの囁きも、母が子に向ける慈愛の眼差しも、俺にとっては異国の言葉で書かれた詩集のように、意味をなさない記号の羅列でしかなかった。
その代わり、俺には奇妙な能力があった。他人の強い感情に触れると、それを一時的にダウンロードできるのだ。喧嘩する男たちの燃え盛るような「怒り」。試験に合格した少女の弾けるような「喜び」。それらは奔流のように俺の内に流れ込み、数時間だけ、俺を「人間」にしてくれる。だが、代償は小さくない。感情が消え去るたび、俺自身の記憶の輪郭が、砂の城のように少しずつ崩れていくのだ。
今日も、市場の雑踏で泣き崩れる老婆の「悲しみ」をダウンロードした。夫を亡くしたのだという。胸を掻きむしるような喪失感が全身を駆け巡り、俺の目からは、俺のものではない涙がとめどなく溢れた。しかし、夕暮れが街を茜色に染める頃には、その感情は嘘のように消え、後にはいつもの虚無と、また一つ曖昧になった自分の過去が残されただけだった。
「また、空っぽになったか」
俺は呟き、コートのポケットから手のひらサイズのガラスの小箱を取り出した。
「感情の箱庭(エモーショナル・ガーデン)」。
内部には常に灰色の霧が立ち込め、何も映さない。これが、俺の心の象徴だった。
行きつけの「記憶の図書館」の重い扉を押す。そこは、世界の感情が眠る場所。人々は人生で最も輝いた感情を「記憶のしおり」としてここに奉納し、世界の活力を維持する。奉納された感情の記憶は、本人から一部失われるというのに。
古紙とインクの匂いが満ちる静寂の中、館長である老人司書、エルシオンが静かに微笑んだ。
「おかえり、レイ。今日はどんな色を借りてきたのかね」
彼はいつも、俺の能力を知っているかのような口ぶりで話す。
俺は首を横に振った。
「もう消えました。何の色も残っていません」
エルシオンは俺の目を見つめ、その深い瞳の奥に、憐れみとも期待ともつかない複雑な光を宿した。
「君は、実に優れた『器』だ。いつか、この世界の誰もが忘れてしまった感情さえも、その身に宿すことになるかもしれん」
彼の言葉の意味は、まだ俺には理解できなかった。ただ、彼の指が常に磨いている、図書館の奥に飾られた一枚の古びた真鍮のプレートが、なぜか俺の空っぽの心を微かに震わせるのだった。
第二章 栞に刻まれぬ残響
ある雨の日、エルシオンは俺を図書館の奥へと誘った。
「ここに、たった今奉納されたばかりの栞がある」
彼が指し示したのは、淡い光を放つ一枚の栞だった。触れると、温かいような、それでいてひどく寂しい感触がした。
「最愛の息子を戦地で亡くした母親の…『誇り』と『哀悼』の感情だ。触れてみなさい」
言われるがままに栞に指を重ねると、凄まじい感情の渦が俺の中に流れ込んできた。息子の勇敢さを誇る気高い想い。二度と触れることのできない我が子を思う、絶望的な哀しみ。俺はその場で膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。感情の奔流は、今まで経験したどれよりも鮮烈で、純粋だった。
だが、その時だ。
激しい感情の嵐の、そのさらに奥深く。まるで深海の底に沈む古代遺跡のように、静かに佇む「何か」を感じたのだ。
それは、哀しみでも誇りでもない。もっと根源的で、温かい光の残響。そして、その光に手を伸ばそうとする、抗いがたいほどの「究極の渇望」。世界そのものが、何かを失い、それを求めて泣いているような、そんな感覚だった。
「…なんだ、これは…?」
俺は喘ぎながらエルシオンを見上げた。彼は静かに頷く。
「やはり、君にしか感じられんか。世界が忘れてしまった痛みと、温もりが」
自室に戻った俺は、ダウンロードしたばかりの感情の「種」を、「感情の箱庭」にそっと落とした。霧が晴れ、箱庭の中に、雨に打たれる小さな慰霊碑の風景が浮かび上がる。哀しみに染まった、灰色の世界。
しかし、その風景の片隅に、一瞬だけ、陽だまりのような柔らかな光が差し込むのが見えた。まるで、知らない誰かの、幸せだった頃の記憶の断片のように。それはすぐに霧の中へと消えていったが、俺の空っぽの器は、その残光を忘れられず、微かに震え続けていた。
第三章 創始者の告白
あの「残響」の正体を知らなければならない。
その想いに突き動かされ、俺は図書館の禁書庫へと忍び込んだ。エルシオンなら、俺がここに来ることを見越しているはずだ。
埃っぽい書物をめくるうち、俺は一つの記録に突き当たった。それは、この世界がかつて「愛情」という感情によって崩壊しかけた「大崩壊」の記録だった。愛は憎しみと、執着は狂気と紙一重だった。無限に増幅する愛は、やがて世界を焼き尽くす業火と化したのだ。人々は愛するがゆえに奪い合い、傷つけ合い、世界は終焉を迎えようとしていた。
「全てを、読んでしまったかね」
背後から、エルシオンの静かな声がした。振り返ると、彼はいつもの穏やかな表情の裏に、千年分の後悔を滲ませて立っていた。
「レイ、君に話さねばなるまい。私の犯した罪と、君が生まれた理由を」
彼の告白は、俺の想像を絶するものだった。
エルシオンこそが、「記憶の図書館」システムを創り上げ、大崩壊から世界を救った創始者だった。そして、彼が世界を救うために用いた方法こそ、諸悪の根源――「究極の愛情」そのものを、世界から切り離し、封印することだった。
「私は、世界を救うために、愛する人と共にこの世界を守ると誓った。その愛こそが、最も強く、最も危険な力を持っていた。私は…その愛を犠牲にし、自らの手でシステムの核として、この図書館の最深部に封印したのだ」
彼の声は震えていた。
「だが、その感情はあまりに巨大で、ただ封じるだけではいずれ世界に漏れ出してしまう。それを受け止め、永遠に留め置くための『器』が必要だった。それが、君だ、レイ」
「俺が…封印の…器…?」
「そうだ。愛情という感情を、生まれつき持たないように設計された、空っぽの器。君の虚無こそが、封印を維持するための鍵なのだ」
彼の言葉が、雷となって俺の全身を貫いた。
俺が感じていた渇望は、俺自身の渇望ではなかった。世界から「愛情」を奪われた人々が、無意識に発する叫びだったのだ。俺が感じた「残響」は、エルシオンが封印した、自己犠牲の愛の呻きだった。
怒りでもなく、悲しみでもない。ダウンロードしてきた無数の人々の、不完全で、それでも懸命な「愛」のカケラが、エルシオンの途方もない孤独と共鳴し、俺の空っぽの器の中で激しく渦を巻き始めた。
「なぜ…なぜ俺にそんな役目を…!」
「すまない。だが、君を導くことで、君が私の愛の残響を感じ取ることで、私は自分が失ったものを、もう一度理解したかったのかもしれない。なんと、利己的なことか…」
エルシオンは、深く頭を垂れた。彼の足元に、一滴の雫が落ちて染みを作った。
第四章 一瞬のエタニティ
図書館の最深部。エルシオンが常に磨いていた真鍮のプレートは、封印の祭壇へと続く扉だった。俺は、自らの宿命を受け入れ、その前に立っていた。手には、冷たいガラスの小箱、「感情の箱庭」を握りしめている。これが、封印の鍵。俺自身の心と直結した、牢獄の扉。
選択肢は二つ。
この箱庭を破壊し、封印を解き放つか。エルシオンの「究極の愛情」を世界に還し、人々が忘れたものを取り戻させる。だがそれは、再び世界を「大崩壊」の危機に晒すかもしれない。
あるいは、この箱庭と共に、俺自身が新たな封印の核となるか。世界は平穏なまま、しかし永遠に本当の愛を知らないまま、続いていく。
どちらを選んでも、個別存在としての「俺」は消滅する。
エルシオンが静かに見守る中、俺は目を閉じた。脳裏に、ダウンロードしてきた無数の感情が蘇る。娘の幸せを願う父親の祈り。友の成功を祝う純粋な喜び。たとえ不完全でも、歪んでいても、それは確かに誰かが誰かを想う心のカケラだった。
愛は、本当に世界を滅ぼすだけの力なのか?
違う。
俺は、この空っぽの器を通して、知ってしまった。
俺は決意を固め、祭壇の中央に浮かぶ光球――封印の核――に向かって、一歩踏み出した。そして、「感情の箱庭」を、強く胸に抱きしめた。
光が、俺の身体を包み込む。
その瞬間、俺の空っぽだった器に、熱い奔流がなだれ込んできた。
それは、世界を救うために全てを犠牲にしたエルシオンの、千年分の孤独と後悔と、そしてどうしようもないほどの深い愛だった。それは、俺が今まで触れてきた、世界中の人々の小さな愛のカケラが集まってできた、温かい光の奔流だった。
そしてそれは、この世界と、そこに生きる不完全な人々を、どうしようもなく愛おしいと感じる、俺自身の、初めての――
「ああ、これが――」
俺の意識は、その一瞬の永遠の輝きの中で、静かに溶けていった。
***
静寂が戻った祭壇に、エルシオンは一人佇んでいた。
光が消え去った場所に、一枚だけ、真新しい「記憶のしおり」がひらりと舞い落ちた。
彼はそれを拾い上げる。そこには、たった一瞬だけ燃え上がり、世界そのものを抱きしめた、純粋で完全な愛情の輝きが、永遠に刻み込まれていた。
「ありがとう、レイ」
エルシオンの皺だらけの頬を、一筋の涙が伝った。
「君は、最高の『器』だった。そして…私には成しえなかったことを、成し遂げてくれた」
図書館の窓から外を眺めると、世界は昨日と何も変わらないように見えた。
だが、街を歩く人々の表情は、ほんの少しだけ柔らかく。すれ違う者たちの間に交わされる眼差しは、ほんの少しだけ温かい。
どこからか風が、微かに甘い花の香りを運んできた。
エルシオンは、レイの栞を、図書館の最も神聖な場所に、そっと奉納した。
それは、空っぽの器が世界に贈った、たった一つの、そして永遠の贈り物だった。