最後の調和音
タイトル:最後の調和音
第一章 不協和音のレクイエム
世界は金切り声を上げていた。
コンクリートを爪で引っ掻くような高周波が、大気を、建築物を、そして人々の脳漿を震わせている。
地下シェルターの最奥。厚さ五十センチの防音扉に閉ざされた四畳半のスタジオだけが、この星で唯一の無音地帯だった。
コダマは震える指先で、机上の赤錆びたボルトに触れた。ざらりとした感触が、神経を通じて鼓膜を叩く。
――助けて、ママ、痛い、痛いよ。
少女の悲鳴。焼ける肉の匂い。瓦礫の下で押し潰された呼吸音。鉄塊に残存した「記憶」が、暴力的なノイズとなってコダマの聴覚中枢を刺した。彼は反射的に嘔吐(えず)き、胃液の酸味を噛み殺す。
だが、その悲鳴の奥底に、微かな、本当に微かな「祈り」の周波数が混じっている。彼は震える手でフェーダーを操作し、イコライザーのつまみを回した。悲鳴を削ぎ落とし、絶望をカットし、祈りの純音だけを抽出する。
マイクに向かう。ヘッドホン越しに、精製された音が流れた。それは冬の朝に吐く白い息のような、あるいは凍った湖面が割れる瞬間の、透明で脆い響きだった。
モニターのチャット欄が、狂ったような速度で流れる。『救われた』『痛みが引いた』『もっとくれ』。
その奔流の中、無機質な文字列が一行だけ、不気味に静止していた。
『∆E... φ...』
数式ではない。コダマの目には、それが楽譜上の休符に見えた。世界を調律するための、欠落した最後のピース。
第二章 響き合う謎
文字列を見つめるコダマの瞳孔が収縮した。
ディスプレイの光が明滅し、ヘッドホンの奥でノイズが走る。その雑音は、不快ではなかった。規則的なパルス。心拍数と同じリズム。
『沈黙の観測者』と名乗るアカウントが示した座標データ。それは、地図上の点ではなく、特定の音程としてコダマの脳内で響いた。
低く、重く、腹の底に響く「ド」の音。それが東の方角から呼んでいる。
スタジオの外壁を叩く振動が、昨日よりも激しさを増していた。防音材が悲鳴を上げ、天井から埃が舞い落ちる。
限界だ。ここで音を濾過し続けるだけでは、いずれ外の轟音に押し潰される。
コダマは胸ポケットから、河原で拾った石を取り出した。黒曜石のようなその石は、観測者のパルスに合わせて微熱を帯び、掌をじわりと焦がす。
「……セッションの誘いかよ」
乾いた唇が動いた。言葉にするまでもなく、身体が理解していた。この石を、あの「ド」の音が鳴る場所へ突き刺さなければならない。それが、この狂ったオーケストラを終わらせる唯一のフィナーレだと。
第三章 深淵への共鳴
防音扉のハンドルを回した瞬間、世界がコダマを殴りつけた。
音は空気の振動などではない。質量を持った凶器だ。
鼓膜が破裂しそうな圧迫感。視界がぐにゃりと歪む。アスファルトが削れる音は舌の上で鉄の味がし、風の唸りは腐った卵の臭いがした。五感が混線し、脳が焼き切れる寸前で踏みとどまる。
コダマは両耳を押さえ、蹲(うずくま)りそうになる膝を叱咤した。
廃墟と化した街。瓦礫の山で、人々が耳から血を流しながら虚空を見つめている。彼らの口から漏れるうめき声が、不協和音となって大気に渦巻いていた。
ヘッドホンを捨てた耳に、その全てが突き刺さる。痛い。苦しい。だが、その痛みの奔流の中に、コダマは確かな「道筋」を聴いた。
観測者が示した座標。そこへ近づくほど、ノイズの嵐が凪いでいく。台風の目。
瓦礫の塔の頂(いただき)。そこに、異様なオブジェが鎮座していた。
銀色のパイプが幾何学的に組み合わさった、巨大な臓器のような機械。その表面には、チャット欄の数式と同じ紋様が、青白く脈打っている。
機械は、音を求めていた。世界中から悲鳴を吸い上げ、それをどう処理していいか分からずに、再び悲鳴として吐き出している。
コダマは血の滲む指で、懐の石を握りしめた。
第四章 調和の果て
コダマは機械の前に立ち、持参したポータブルミキサーのマイクジャックを、機械の露出した回路へと強引にねじ込んだ。
火花が散る。スピーカーがハウリングを起こし、空間が悲鳴を上げた。
『……聞こえるか』
言葉ではなく、直接脳を揺さぶる振動。観測者だ。
機械のパイプが唸りを上げる。それは問いかけだった。不完全な和音。解決されないドミナント。
コダマはミキサーのツマミに指を走らせた。これまでに集めた、数千、数万の「祈りの純音」。少女の涙、老人の安堵、恋人たちの囁き。それらをサンプリングし、機械が発する轟音にぶつける。
不協和音と調和音が衝突し、視界が白く弾けた。
音が見える。金色の粒子となって、空へ舞い上がる。苦い味がした大気が、甘い蜜の味に変わる。皮膚を切り裂く風が、絹のような愛撫に変わる。
コダマの指先が裂け、血がミキサーを濡らした。構わない。
もっと高く。もっと澄んだ音を。
観測者のパルスが、ドラムのようにリズムを刻む。コダマのメロディがそれに乗る。
世界という巨大なホールで、たった二人の即興演奏(ジャム・セッション)。
「これが……!」
コダマはフェーダーを最大まで押し上げた。
黒い石が砕け散り、機械のコアへと吸い込まれる。
閃光。
そして、音が、世界を満たした。
第五章 静寂のレガシー
光が収束した後、そこには何もなかった。
瓦礫の山も、異様な機械も、ただの静物として鎮座している。
空は抜けるように青かった。雲がゆっくりと流れている。
コダマは地面に背を預け、空を見上げていた。
頬を撫でる風。遠くで揺れる木々の緑。人々の表情から苦悶の色が消え、呆然と、しかし安らかに空を仰いでいるのが見えた。
唇が動いている。誰かが笑っているようだ。鳥が翼を広げ、喉を震わせている。
美しい光景だった。まるで無声映画のように。
コダマは自身の指を鳴らしてみた。
パチン。
指先が弾ける感触はある。だが、世界は沈黙したままだ。
聴覚という機能そのものを、最後のセッションの対価として支払ったのだと、彼は悟った。
不思議と喪失感はなかった。むしろ、頭の中はかつてないほど静かで、澄み切っていた。
ふと、視界の端で、機械のモニターが最期の一瞬だけ明滅した。
文字列でも数式でもない。単純な、規則的な二回の点滅。
それは、満足げな相槌のようにも、別れのウインクのようにも見えた。
コダマは目を細め、音のない世界に向けて、静かに微笑いかけた。