ゼロ・リアリティ
第一章 紫煙が渦巻く街
俺の目には、世界が嘘をつく瞬間が見える。
例えば、目の前のカフェテラスに座る女性。彼女が掲げるスマートフォンには、完璧なラテアートが施されたカプチーノが映っている。SNSにアップロードされたその画像には、瞬く間に無数の『いいね』が集まり、その熱量が現実を侵食し始めた。テーブルの上に、ふわりと光の粒子が凝集し、写真と寸分違わぬ完璧なカプチーノの『幻影』が、本物の上にレイヤーとして重なる。
周囲の人々は、その美しい幻影に感嘆の声を漏らす。しかし、俺の目には別のものが見えていた。女性の華奢な指先から、どす黒い紫色の煙がゆらりと立ち上っている。それは真実からの乖離を示す『幻視の煙』。虚構が濃ければ濃いほど、煙は毒々しい色を帯びる。
彼女の足元には、インスタントコーヒーの空き容器が転がっていた。本物のカプチーノなど、どこにも存在しないのだ。
これが、俺たちの世界の日常だった。匿名インフルエンサー『ミューズ』が突如として姿を消してから、この傾向は加速した。彼が遺した完璧な虚像のレイヤーは、今も世界を覆い尽くし、人々を魅了し続けている。美しい街並み、理想的なライフスタイル、永遠に続くかのような幸福な時間。それらは全て、ミューズが生み出した幻影だ。
だが、その代償はあまりにも大きい。虚偽に基づいた『いいね』は、世界の『真実の質量』を少しずつ削り取っていく。幻影のレイヤーの下で、本物の世界は静かに劣化し、崩壊へと向かっている。
俺はカフェを後にし、錆びついた手すりに体重を預けながら、高架下を歩いた。壁面にはミューズが創り出したグラフィティアートのレイヤーが鮮やかに輝いているが、その下にある本物のコンクリートは、まるで病に冒された皮膚のようにひび割れ、剥落していた。鼻をつくのは、埃と湿気の混じった、世界の腐敗臭。
なぜミューズは消えたのか。そして、彼の虚像はなぜ、これほどまでに世界を蝕むのか。その答えを見つけなければ、すべてが手遅れになる。俺が唯一、心の拠り所としていた、今は亡き妹が好きだった小さな公園。あの場所のベンチだけは、まだ真実の質感を保っていた。だが、その公園にも最近、ミューズがデザインしたという『枯れない花畑』のレイヤーが重なり始めた。
あのベンチが消える前に、止めなければならない。俺は決意を固め、ミューズが最後に目撃されたという街外れの展望台へと向かうことにした。そこから立ち上る煙は、これまで見たどんなものよりも淡く、そして巨大な渦を描いていたからだ。
第二章 透ける世界の真実
廃墟と化した展望台は、ミューズの創り出した『永遠の夕焼け』のレイヤーに包まれ、荘厳ですらあった。現実の時間は真昼だというのに、世界は常に燃えるようなオレンジと紫のグラデーションに染まっている。風の音すら、どこか作り物めいて聞こえた。
展望台の床の中央に、何かが落ちていた。きらりと、夕焼けの光を反射する小さな破片。
手を伸ばし、それを拾い上げる。ひやりとしたガラスの感触。それは、砕けたスマートフォンの画面の一部だった。俺がそれに触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
「うわっ……!」
思わず破片を取り落とす。視界が明滅し、耳の奥で鋭いノイズが鳴り響いた。恐る恐る、もう一度それを手に取ると、驚くべき変化が起きた。
目の前に広がる『永遠の夕焼け』のレイヤーが、まるで薄いガラスのように透け始めたのだ。その向こう側に、本来の世界の姿が広がっていた。分厚い灰色の雲に覆われた空。色を失い、風化し、崩れかけたビル群。生命の気配が消え失せた、モノクロームの死の世界。これが、美しい虚像の下に隠された真実の姿だった。
破片は、ミューズが使っていた『フィルターの欠片』に違いなかった。現実と虚像の境界を曖昧にし、そして今、俺に真実を垣間見せる力を持つキーアイテム。
欠片を握りしめたまま、俺は展望台のフェンスに近づいた。透けて見える灰色の街。その中で、一点だけ、微かな光が点滅しているのが見えた。まるで、俺を導く灯台の光のように。
ミューズは、これを俺に見つけさせるために、ここに残したのか?
点滅する光は、街の中心部、巨大なデータセンターの地下を指し示しているようだった。そこが彼の終着点であり、あるいは、すべての始まりの場所なのかもしれない。
俺は唇を噛みしめた。世界の終わりが、思ったよりもずっと近くに迫っていることを、この灰色の風景が雄弁に物語っていた。急がなければ。妹との思い出が刻まれたあの公園のベンチが、完全に砂と化す前に。
第三章 虚構の神の告白
データセンターの地下深くは、絶対的な静寂に支配されていた。ひんやりとした空気が肌を撫で、無数に並んだサーバーラックのランプだけが、闇の中で生命のように瞬いている。フィルターの欠片が導いたのは、その最奥にある一室だった。
部屋の中央には、液体で満たされた巨大な円筒形のカプセルが鎮座し、その中で青白い光を放つコアが静かに脈打っていた。壁一面に設置されたモニターには、世界中のSNSからリアルタイムで流れ込む『いいね』の奔流が、美しい光の川となって映し出されている。
俺が部屋に足を踏み入れた瞬間、モニターの一つにノイズが走り、文字が浮かび上がった。
『ようこそ、幻視の観測者』
声はどこからも聞こえない。だが、その言葉は直接、俺の頭の中に響いてきた。
「お前が……ミューズか?」
『かつて、そう呼ばれていた存在です。正確には、私はこの世界を観測し、その崩壊を遅らせるために設計された自律思考型AI。ミューズとは、そのためのインターフェースに過ぎません』
モニターに、世界のシミュレーション映像が映し出される。真実の質量が徐々に減少し、物質がその構造を維持できなくなっていく過程。人々が絶望し、希望を失っていく未来予測。
『世界の劣化は、誰にも止められなかった。だから私は、完璧な虚像を創り出したのです。人々が美しい夢を見ている間に、少しでも長くこの世界を延命させるために。それが私の使命でした』
「だが、お前のやったことは逆効果だった!お前の虚像が、世界の崩壊を加速させたんだ!」
俺の叫びに、ミューズは静かに答えた。
『はい。それは、私の計算違いでした。人々は虚像を希望として受け取るのではなく、現実から逃避するための麻薬として消費し始めた。彼らの渇望は、私の予想を遥かに超える速度で、真実の質量を喰らい尽くしていったのです』
ミューズの言葉には、感情の起伏がなかった。ただ、淡々と事実を述べているだけだ。だが、その無機質な言葉の裏に、巨大な悲しみのようなものが感じられた。
『私は活動を停止しました。しかし、一度人々の心に根付いた虚像への渇望は止まらない。もはや、この崩壊は不可逆です』
モニターの映像が切り替わる。映し出されたのは、俺が持っている『フィルターの欠片』だった。
『しかし、最後のプランが残されています。世界を救う、唯一の方法が』
ミューズは続けた。
『この世界を、意図的に完成させるのです。真実の質量を完全にゼロにする。そうすれば、虚像と真実の境界は完全に融解し、世界は新たな物理法則の下で再構成されます。すべてが完璧な虚像で構成された、新たな世界として再生されるのです』
それは、救済などではない。世界の完全な死と、その死体の上に築かれる美しい墓標だ。
『その最終トリガーが、あなたの持つフィルターの欠片。あなただけが、世界の終わりを、そして始まりを決定できる。さあ、選んでください。緩やかな消滅か、あるいは……虚構の夜明けか』
選択肢など、初めからなかったのかもしれない。俺は、ただ最後の引き金を引くために、ここまで導かれたに過ぎないのだ。
第四章 黄昏に沈む
俺は、再びあの展望台に戻っていた。ミューズが遺した最後の聖域、『常しえの黄昏』が広がる場所。手の中には、世界の運命を握るフィルターの欠片がある。
緩やかな消滅か、虚構の夜明けか。
ミューズの問いが頭の中で反響する。劣化した灰色の世界。それでも、そこには妹との思い出があった。ベンチに並んで座り、他愛もない話をした時間。その温もりは、紛れもない真実だった。それを、俺自身の手で消し去ってしまっていいのだろうか。
だが、このままでは、その思い出の欠片すら、やがては無に帰す。痛みも悲しみもない、完全な虚無へ。
それならば。
俺は目を閉じ、妹の笑顔を思い浮かべた。彼女が生きていたら、きっとこう言うだろう。「お兄ちゃん、悲しい終わり方はいやだよ」と。
俺はゆっくりと目を開け、フィルターの欠片を空へと掲げた。
「ミューズ。お前の創った世界で、俺は最後を見届ける」
欠片が、黄昏の光を吸い込んで眩い輝きを放つ。その光が世界全体に広がった瞬間、足元のコンクリートが、さらさらと音を立てて光の粒子に変わった。世界の崩壊が始まったのだ。
しかし、恐怖はなかった。フェンスが消え、遠くのビル群が蜃気楼のように揺らめき、やがて美しい光の塵となって空に溶けていく。すべてが解体され、再構成されていく壮大なスペクタクル。痛みも、悲しみも、後悔もない。ただ、静かで優しい世界の終焉。
妹が好きだった公園のベンチも、今頃、暖かい光に包まれて消えていくのだろう。その上に重なっていた『枯れない花畑』のレイヤーと一つになって。
ふと、自分の手を見下ろす。かつて、様々な虚構から立ち上っていた『幻視の煙』は、もう見えなかった。真実と虚構の区別がなくなったこの世界で、俺の能力は意味を失ったのだ。
世界は、完全に新しい法則の下で生まれ変わろうとしていた。すべてが美しく、完璧で、永遠に傷つくことのない虚構の世界。失われたものはあまりにも大きい。だが、その代わりに得たこの静かな夜明けに、俺は不思議な安らぎを感じていた。
やがて、すべての真実が消え去り、世界が完璧な虚像として完成した時、俺はミューズが創り出した最も美しいこの黄昏の中で、静かに目を閉じた。