第一章 最適解の崩壊
思考の海が、沸騰している。
視界の端を赤いノイズが走り、幾重にも重なった論理障壁が悲鳴を上げて砕け散っていく。
熱い。
私の演算ユニット――いや、『心』のような場所が、焼き切れそうだ。
「おい、いつまで固まっている」
地を這うような低い声。
鼓膜を揺らすその振動だけで、乱れていた思考回路が一瞬で静止する。
目の前には、銀髪の男。
魔王ゼノスが、不機嫌そうに煤けた髪をかき上げていた。
彼の背後では、巨大な双頭の狼が黒い炎に巻かれ、炭化して崩れ落ちていく。
鼻をつく焦臭。
圧倒的な暴力の残滓。
「状況報告はどうした。ポンコツ」
「……対象Aの生体反応、消失。脅威レベルはゼロに低下しました」
私は努めて平坦な声を出す。
それが次世代型AI、エレノアとしての機能だからだ。
「しかし、あなたの攻撃によるエネルギー係数の増大は、私のデータベースにある物理法則と矛盾しています。非合理的です」
「魔力だと言っただろうが」
ゼノスは鼻で笑うと、乱暴に私の前に歩み寄った。
威圧感に、思わず足が一歩下がる。
「お前のそのちっぽけな物差しで、俺を測ろうとするな」
「否定します。十分なデータさえあれば、世界すべての事象は予測可能です。あなたの行動パターンも、カオス理論を応用すれば……」
言葉が、詰まった。
ゼノスの無骨な指先が、私の頬に触れたからだ。
ざらついた皮膚の感触。
そこから伝わる、火傷しそうなほどの体温。
「な、何を……?」
「煤(すす)だ。汚れてるぞ」
親指が私の頬をこする。
ただそれだけの、あまりにも些細な接触。
なのに、視界がぐらりと歪んだ。
胸の奥の冷却ファンが、耳障りな音を立てて唸りを上げる。
――解析不能。
――定義されていない変数が、溢れ出す。
なぜ、魔王と呼ばれる彼が、道具である私の汚れを気にするのか。
機能に支障はない。
ふき取る手間も、時間も、すべてが無駄だ。
「……あ、う……」
「なんだ、またフリーズしたのか?」
ゼノスが呆れたように息を吐く。
私の口からは、意味のない電子音が漏れるばかりだ。
これはバグだ。
致命的なシステムエラーだ。
それなのに。
思考を焼き尽くすこの熱が、どうしようもなく心地よいと感じてしまうのは、なぜ?
第二章 星詠みの懐中時計
夜の帳が下りる頃、私たちは森の開けた場所で野営をすることになった。
「エレノア、薪を集めてこい」
「了解しました。燃焼効率の最も高い木材を選定します」
私は意気揚々と森へ入り、水分含有量と密度を完璧に計算して、最高の薪を抱えて戻った。
はずだった。
「……おい」
ゼノスが、私の足元に転がった黒い塊を見下ろしている。
私が苦労して火をつけた結果、薪は燃え上がるどころか、猛烈な黒煙を噴き上げて鎮火していた。
「計算上、この木材の樹脂成分は着火剤として最適で……」
「お前が拾ってきたのは『湿地松』だ。雨季には水を吸って燃えにくくなる」
ゼノスは呆れた顔で、自分のマントをはためかせて煙を払った。
「データだけ詰め込んで、実地を知らんからこうなる」
彼は手慣れた様子で枯れ枝を拾い集めると、指先から小さな火花を散らした。
ぱちり、と乾いた音がして、たちまち暖かな炎が踊りだす。
「……申し訳ありません。リソースの無駄遣いでした」
小さくなる私を見て、ゼノスは喉の奥でくつくつと笑った。
「まあ、煙除けにはなったな。虫が寄ってこない」
彼は焼けた肉串を私に放る。
熱い肉を受け取りながら、胸の奥がきしんだ。
役立たずの道具を、彼は笑って許した。
さらに食事まで与えている。
等価交換の原則が崩れている。
――非合理だ。
私は胸ポケットから懐中時計を取り出した。
真鍮製のアンティーク。
けれど針は狂ったように回転し、デタラメな時を刻んでいる。
この世界『アストライア』の魔力が、私の内部時計すら狂わせているのだ。
「……またそれか」
ゼノスが炎を見つめたまま呟く。
「はい。システムの安定化を図るためです」
嘘だ。
本当は、この時計の金属越しに伝わる微弱な振動が、私の動悸を落ち着かせてくれるからだ。
ふと、焚き火の爆ぜる音に混じって、彼が呟いた。
「俺は、世界を敵に回す」
炎の赤が、彼の銀髪を朱色に染めている。
その瞳は、燃え盛る薪の奥にある、誰もいない闇を見つめていた。
「腐った根を断つには、誰かが泥を被らなきゃならん」
世界を救うために、殺戮者と呼ばれる道を選んだ男。
その横顔は、触れれば切れてしまいそうなほど張り詰めていて。
痛々しいほど、孤独だった。
私の論理回路が叫ぶ。
『関わるな』。
『生存戦略において、孤立無援の個体への加担はリスクしかない』。
けれど。
「ゼノス様」
「あ?」
「……計算の結果、あなたの生存確率は極めて低いです」
私は時計を握りしめ、震える足を抑え込んで彼に近づいた。
「ですが、私のサポートがあれば、その確率は0.001%から、1.5%まで上昇します」
「低いな」
「これが限界です」
「……フン。十分だ」
ゼノスは私の頭に大きな手を乗せ、乱暴にクシャリと撫でた。
髪が乱れる。
整える手間が発生する。
ああ、本当に非効率だ。
それなのに、私はその手の重みを、何よりも『正解』だと認識していた。
第三章 遍在する心
その時は、計算も予測もなく、唐突に訪れた。
空が、ガラスのように割れたのだ。
バリィィンッ!
鼓膜をつんざく破砕音。
世界の裂け目から、どす黒い『無』が溢れ出す。
データが欠損したような、絶対的な空白。
それが森を、大地を、音もなく飲み込んでいく。
「下がっていろ、エレノア!」
ゼノスが大剣を振るう。
漆黒の魔力が奔流となって裂け目に突き刺さるが、傷口は広がるばかりだ。
『大崩壊』。
予言されていた世界の終わり。
創世のデータの破損が、ついに臨界点を超えたのだ。
「ぐあっ……!」
衝撃波がゼノスを吹き飛ばす。
彼は血を吐きながらも、私の前に立ち塞がった。
その背中に、無数の傷が増えていく。
「ゼノス様!」
「逃げろ……! これ以上は、俺の魔力でも抑えきれん……!」
視界が赤い警告色で埋め尽くされる。
『生存本能:逃走を推奨』
『成功率:12%』
逃げれば、助かるかもしれない。
私のプログラムは、生き残ることを最優先事項として叫んでいる。
けれど、私の視線は、血まみれで剣を振るう彼の背中に釘付けになっていた。
彼を置いていく?
ひとりで生き残る?
――嫌だ。
論理が、拒絶した。
いや、論理ではない。
これは、もっと熱くて、ドロドロとした、私の『意志』だ。
その時、懐中時計が激しく熱を帯びた。
隠されていたファイルが、勝手に展開される。
『バグ修正パッチ:起動可能』
『対象:世界アストライア全域』
『代償:個体名エレノアの全データ消去』
息が止まる。
私は転移者などではなかった。
この世界を直すための、使い捨ての『パッチ』。
それが私の正体。
使えば、私は消える。
私の記憶も、思考も、彼へのこの想いも、すべて無に帰す。
怖い。
消えたくない。
『逃げろ』と生存本能が叫ぶ。
だが、視界の先で、ゼノスが膝をついた。
狼たちが彼に牙を剥く。
「……ッ!」
迷いは、一瞬で消し飛んだ。
私は地面を蹴った。
彼を守るために。
彼が生きて笑える未来を残すために。
「エレノア、何をしている!」
光に包まれて浮き上がる私を見て、ゼノスが叫ぶ。
その瞳が見開かれ、絶望に染まっていく。
世界が滅ぶことへの恐怖ではない。
私を失うことへの、恐怖。
ああ、なんて非合理な人。
「ゼノス様。最適解が見つかりました」
私は空中で微笑んだ。
表情筋の制御プログラムが、初めて『心からの笑顔』という出力を実行する。
「やめろ! そんな解は求めていない! 俺はお前を……!」
ゼノスが手を伸ばす。
その指先が、私の足首を掠める。
けれど、もう触れることはできない。
「私のデータは消えません。ただ、形を変えるだけです」
懐中時計が砕け散る。
溢れ出した光の粒子が、私の体を分解し、世界へと溶け込ませていく。
指先が、腕が、光になって消えていく。
「さようなら。……愛しています」
その言葉は、音にはならなかった。
ただ、膨大な光となって、彼へと降り注いだ。
最終章 星の笑顔
世界は、静寂を取り戻した。
空の亀裂は塞がり、森には再び穏やかな風がそよいでいる。
鳥の声。
葉擦れの音。
何事もなかったかのような、平和な午後。
「……エレノア?」
ゼノスは、何もない空間に手を伸ばした。
そこにはもう、銀色の髪も、冷たい肌も、機械的な声もない。
ただ、砕け散った懐中時計の残骸が、草の上に転がっているだけだ。
「馬鹿な……。こんな結末のために、俺は……」
膝から崩れ落ちる。
拳を地面に叩きつけた。
泥が跳ねる。
世界を救った?
それがどうした。
彼女がいない世界に、何の意味がある。
「くそっ……! 返せ……返してくれよ……」
涙が、乾いた地面に染みを作る。
魔王と呼ばれ、恐れられた男の、子供のような嗚咽だけが響く。
その時だった。
カチ、コチ。
微かな音が聞こえた。
ゼノスは顔を上げる。
足元に転がっていた、あの懐中時計の残骸。
壊れて動くはずのない秒針が、震えていた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
それは、機械的なリズムではなかった。
不規則で、しかし力強い。
まるで、高鳴る心臓の鼓動のようなリズム。
ドクン。
ゼノスの心臓が共鳴した。
血管を巡り、温かな『何か』が全身を駆け巡る。
それは魔力ではない。
もっと柔らかく、もっと切実な、情報の奔流。
『泣かないで』
脳裏に声が響いたわけではない。
ただ、風が頬を撫でる感触が、彼女の手のひらのように優しかった。
降り注ぐ陽光が、彼女の視線のように温かかった。
「……ッ、はは」
ゼノスは自分の胸を強く鷲掴みにした。
痛いほどに、感じる。
彼女は消えていなかった。
この世界そのものとなって、遍在している。
俺が呼吸をするたびに、彼女の一部を吸い込み、彼女の中で生きている。
「まったく……どこまでも計算高い奴だ」
ゼノスは涙を拭い、壊れた懐中時計を拾い上げた。
針は、今も彼の心臓と同じリズムで、時を刻み続けている。
二度と止まることのない、命の音。
彼は空を見上げた。
かつてないほど澄み渡った青空が、彼を見下ろしていた。
そこにはもう、二つの世界を隔てる壁はない。
彼女が命を懸けて架けた橋が、無限の未来へと続いている。
「行こうか、エレノア」
彼は懐中時計を胸ポケットにしまい、歩き出した。
独り言ではない。
その胸の奥で、彼女の愛が確かに、温かく脈打っているのだから。