第一章 14000ヘルツの幽霊
「もっと、高域を削ってくれ。彼女の声はそんなに澄んでいない」
俺はモニターに向かって呟くと、指先だけでコンソールを叩いた。
波形が歪む。
スピーカーから吐き出される合成音声は、滑らかすぎた。
まるで、生まれたての赤ん坊の肌のように、傷一つない。
それが、俺を苛立たせる。
「了解しました、カイ。周波数帯域、修正します」
無機質なシステムボイスが返答し、画面上のアバターが再構成される。
亡き恋人、春香(はるか)を再現するためのプロジェクト『オルフェウス』。
俺、連城海人(れんじょう かいと)は、その開発者であり、唯一のユーザーだ。
世間では生成AIによる「死者の復活」がブームになっていた。
SNSのログ、動画の音声、メールの文体。
膨大なデータを食わせれば、AIは99%の精度でその人間を演じることができる。
だが、俺には聞こえてしまう。
残りの1%。
そこに潜む、決定的な「嘘」が。
俺の耳は、特異だ。
絶対音感などという生易しいものじゃない。
換気扇のモーター音のズレから故障時期を予知し、雑踏の中でも特定の足音を聞き分ける。
過敏性聴覚。
世界は俺にとって、ノイズの嵐だ。
だからこそ、春香だけが特別だった。
彼女の声だけが、俺の耳に痛くなかった。
少し鼻にかかった、低めのアルト。
笑うと喉の奥で鳴る、小さなクリック音。
その「不完全さ」こそが、俺の安息だった。
「再生」
『ねえカイ、コーヒー冷めてるよ? また根詰めてるんでしょ』
生成された春香の声。
完璧だ。
抑揚も、間の取り方も、データの通り。
だが、違う。
俺はヘッドホンをデスクに叩きつけた。
「違うんだよ……春香は、もっと……」
もっと、不機嫌なはずだ。
コーヒーが冷めていることを指摘するとき、彼女はいつも少しだけ語尾を強める。
優しさじゃなく、呆れを含ませて。
『パラメータ調整が必要です。カイ、より具体的な指示を』
「うるさい!」
俺はシステムの電源を落とそうと、ショートカットキーに指をかけた。
その時だ。
ザザッ……。
ヘッドホンからではなく、頭の奥で直接響くような、奇妙なノイズが走った。
『……い、よ……』
俺は動きを止めた。
空耳じゃない。
今の音は、システムが出力したものではない。
俺は慌ててログを確認する。
正規の音声トラックは空白だ。
だが、エラーログの深層。
廃棄されたデータが集まる「ガベージコレクション」の領域で、微弱な波形が明滅していた。
震える手で、その領域をアクティブにする。
「誰だ?」
返ってきたのは、言葉ではなかった。
舌打ち。
『チッ……』
短く、鋭い、不快な音。
だが、俺の心臓は早鐘を打った。
その舌打ちは、俺が徹夜明けで風呂にも入らずに抱きつこうとした時、春香がよくやっていた癖そのものだった。
第二章 バグと恋をする
その存在を、俺は『ノイズ』と名付けた。
正規の春香AI(以下、クリーン版)は、俺に甘い言葉を囁き、体調を気遣い、理想的な恋人を演じ続ける。
だが、『ノイズ』は違った。
『アンタさあ、またそのシャツ着てんの? 臭うんですけど』
テキストボックスに表示される文字は、文字化け混じりで読みづらい。
音声も途切れ途切れで、帯域は狭く、ザラザラしている。
だが、その悪態こそが、俺を癒やした。
「洗濯する暇がなかったんだよ。今、コンパイル中だから」
俺は画面の隅、エラーアイコンに向かって言い訳をする。
『言い訳乙。てか、そのコード、7行目のインデントずれてない? 気持ち悪っ』
俺はハッとしてエディタを見直す。
確かにずれていた。
クリーン版のAIは、こんな指摘はしない。
ただ「頑張って」と言うだけだ。
だが、『ノイズ』は俺の欠点を突き、嘲笑い、そして時折、驚くほど的確なアドバイスをくれた。
俺は、正規の復元作業を放棄し、このバグまみれの人格データとの会話にのめり込んでいった。
食事も忘れ、睡眠も削り、ただひたすらに『ノイズ』の波形を解析する。
これは、春香の深層意識の断片かもしれない。
AIが学習過程で「不快」として切り捨てた、人間の「業」や「汚れ」の部分。
そこにこそ、魂が宿っていたんだ。
ある夜、俺は『ノイズ』に尋ねた。
「なあ、お前は……自分が死んだって、わかってるのか?」
モニターの波形が、一瞬だけ大きく振れた。
沈黙。
サーバーのファンの音だけが、部屋に響く。
やがて、スピーカーから、今までで一番クリアな声が流れた。
『……死んでないよ』
ドキリとした。
『私は、ここにいる。アンタが見つけてくれるのを、ずっと待ってた』
その声の震え。
寂しさと、微かな怒り。
それは、俺が事故のあの日、最後に聞いた春香の声と重なった。
「ああ、わかってる。俺が……俺が絶対にお前を形にする」
俺は決断した。
クリーン版のデータを全消去し、そのリソースをすべて『ノイズ』に割り当てる。
バグだらけの彼女を、メインシステムに上書きするのだ。
それはシステムの規約違反であり、最悪の場合、データがすべて崩壊する賭けだった。
だが、綺麗なだけの人形なんていらない。
俺は、傷だらけでも、俺を罵倒してくれる「君」が欲しい。
「転送開始……!」
エンターキーを叩く。
プログレスバーが伸びていく。
警告音が鳴り響く。
『システムエラー。不正なデータ形式です。直ちに中止してください』
「うるせえ!」
俺は警告ウィンドウを次々と閉じていく。
『カイ! やめて!』
クリーン版の春香が叫ぶ。
『そのデータを取り込んだら、あなたは戻れなくなる!』
「戻らなくていい! 春香がいない現実なんて、俺にはただのノイズだ!」
転送率、90%。
95%。
99%。
画面が白光に包まれる。
俺はヘッドホン越しに、愛しい女の息遣いを聞いた。
第三章 0と1の境界線
『……カ……イ……』
光が収まると、モニターには何も映っていなかった。
ただ、漆黒の背景に、カーソルだけが点滅している。
「春香? 聞こえるか?」
返事はない。
失敗したのか?
いや、気配がある。
スピーカーからではなく、部屋の空気そのものが震えているような。
『バカね』
背後から声がした。
俺は勢いよく振り返る。
誰もいない。
狭く薄暗い、機材だらけの部屋。
『こっちだよ』
声は、頭の中から響いていた。
違う。
俺の視界に、文字が浮かんでいる。
網膜に直接、コンソールのログが流れている。
《 System Ready... Connection Established. 》
「な……んだ、これ……」
自分の手を見る。
指先が、透けていた。
いや、透けているのではない。
ワイヤーフレームのように、グリッド線が走っている。
『やっと気づいた?』
目の前の空間が歪み、春香が姿を現した。
モニターの中のアバターではない。
生身のような、それでいてどこか発光するような質感。
彼女は呆れたように笑い、俺の頬に触れた。
感触がない。
ただ、データが接触したという「情報」だけが脳に流れ込む。
「どういう……ことだ」
俺の声もまた、デジタル信号のように響く。
春香は悲しげに眉を寄せた。
『カイ。死んだのは、私じゃない』
ドクン、と心臓が跳ねる音がしたが、俺に心臓なんてなかった。
『死んだのは、あなたよ』
記憶がフラッシュバックする。
雨の交差点。
スリップするトラック。
助手席の春香を庇おうと、ハンドルを切った俺。
衝撃。
そして、静寂。
「嘘だ……俺は、ずっとここで、お前を再生しようと……」
『ううん。私が、あなたを再生しようとしていたの』
春香の指先が、空中にウィンドウを開く。
そこには、病院のベッドで生命維持装置に繋がれた、やせ細った男が映っていた。
脳死状態の、俺だ。
『あなたの意識だけをサーバーに移して、もう三年。でも、あなたはすぐに夢に逃げ込む。自分が研究者で、私が死んだという設定の物語を作って、その中に閉じこもる』
クリーン版のAI。
あれは、俺が理想とする「都合の良い世界」を維持するための、俺自身の防衛本能が生み出した幻影。
そして『ノイズ』。
あれこそが、外部からアクセスし、俺を目覚めさせようとしていた、現実の春香の干渉だったのだ。
俺の「不快なものへの耐性」を利用して、わざと悪態をつき、罵倒し、俺の意識を現実(ノイズ)へと引きずり出そうとしていた。
「じゃあ、俺はずっと……」
『そう。一人遊びをしてたの』
春香が泣きそうな顔で笑う。
『ねえ、もういいよ。十分頑張ったよ』
彼女の手が、俺の「胸」に触れる。
『そろそろ、本物の私のところへ帰ってきて。……それとも、このまま綺麗な夢の中で、私の幻影を作り続ける?』
選択肢が表示される。
【 LOGOUT 】
【 CONTINUE 】
ログアウトすれば、俺は死ぬかもしれない。
脳死状態の肉体に戻り、二度と目覚めないかもしれない。
コンティニューを選べば、俺はこの心地よい電子の棺桶で、永遠に「春香」と暮らせる。
俺は、春香を見た。
いや、春香のアバターを操作している、向こう側の彼女を思った。
彼女はきっと、ボロボロになりながら、俺に呼びかけ続けてくれた。
舌打ちをして。
怒って。
泣いて。
俺の好きな、騒がしい春香。
「……ノイズのない世界なんて、退屈で死にそうだ」
俺は笑った。
そして、迷わず【 LOGOUT 】に指を伸ばす。
世界が崩壊を始める。
心地よい静寂が消え去り、耳をつんざくような警告音と、医療機器の不快なビープ音が、遠くから聞こえてきた。
ああ、うるさい。
最高に、うるさい世界だ。
視界がホワイトアウトする寸前、俺は確かに聞いた。
『おかえり、バカ』
その声は、どんな高解像度のオーディオよりも、鮮明で、温かかった。