靄色のパラドックス
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靄色のパラドックス

第一章 揺らぐ世界の片鱗

雨上がりのアスファルトが放つ、湿った土と緑の匂い。僕、カイの目には、その匂いさえもが淡い翠色の靄として、地面からゆらりと立ち昇るのが見えていた。人々が共有する『雨の後の匂い』という微かな共通認識。それは、この世界のあらゆる場所に漂う『概念の靄』の、最も無害なものの一つだ。

僕の視界は、常にこんな靄で満ちている。

人々が『常識』と信じて疑わないものほど、その靄は濃く、粘性を帯びて目に映る。横断歩道の前で人々が抱く『信号が赤なら止まる』という信念は、停止線に沿って低い濁った壁を作り出し、性急な自転車がそれを突き破る瞬間、まるで薄氷が割れるような微かな抵抗を生む。僕だけが、その抵抗を感じ取れる。

この能力は呪いにも似て、僕を孤独にした。だが最近、世界の様子がおかしい。街の至る所で、最も強固であるはずの『概念の靄』が、まるで陽炎のように揺らぎ始めているのだ。

八百屋の店先で、主人が籠からこぼしたリンゴが、石畳に落ちるまでの時間がほんの僅か、コンマ数秒ほど長く感じられた。僕の目には、地面に向かって強く伸びるはずの『重力』の靄が、一瞬だけ弛緩したのが見えた。人々は気づかない。彼らの認識が物理法則を形成するこの世界では、その認識自体が揺らがない限り、微細な綻びは意識されることすらない。

だが綻びは、確実に広がっていた。

胸ポケットに忍ばせた、古びた真鍮製の羅針盤を取り出す。祖父の遺品である『虚言の羅針盤』。それは真北ではなく、この世界で最も強固な『生成された真実』が集中する方向を、狂おしく指し示し続けていた。

針が示す先は、街の外れにある丘。そこには、忘れ去られた旧時代の天文台が、巨大な骸骨のように鎮座している。

世界を覆う最も分厚く、そして邪悪な靄。

『かつて世界には終わりがあり、その終焉こそがこの世界の始まりである』

その強固な『真実』が、そこから生まれている。そして、その『真実』を人々が信じれば信じるほど、世界の法則が軋みを上げて崩壊していくのを、僕だけが知っていた。

僕は羅針盤を強く握りしめた。冷たい金属の感触が、迷いを振り払ってくれる。あの場所へ行かなければならない。この世界が、美しい矛盾の中で完全に崩壊してしまう前に。

第二章 虚言が眠る天文台

天文台の内部は、埃とカビの匂いが混じり合った、時が止まったかのような空気に満たされていた。床に散らばるガラス片を踏むたび、静寂の中で甲高い音が響き、闇の奥へと吸い込まれていく。羅針盤の針は、この建物の中心、かつて巨大な望遠鏡が夜空を仰いでいたであろうドームの天頂を、ぶれることなく指し示していた。

螺旋階段を上る途中、奇妙な現象が僕を襲った。一歩踏み出した瞬間、足元の石の感触が、まるで水面に足を入れたかのようにぬるりと崩れたのだ。『物質は固体である』という常識の靄が、この場所では極端に薄い。慌てて足を引くと、階段はまた元の硬さを取り戻した。

「あなたも、それを追って?」

背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。振り向くと、書物を抱えた一人の女性が立っていた。歴史記録院の司書だと名乗った彼女、リナは、僕と同じように世界の異変に気づき、禁書庫であるこの天文台に答えを求めて忍び込んだのだという。

彼女の瞳は澄んでいて、僕が語る『概念の靄』の話を、まるで子供がおとぎ話を聞くように、真剣な眼差しで受け止めてくれた。

「世界の終わりが、世界の始まり……。古い記録にも、そうとれる記述がいくつかあるんです。でも、それはまるで……自分で自分の尻尾を食べる蛇のよう。完結しているようで、どこにも進めない物語」

彼女の言葉は、僕が感じていた違和感の正体を的確に射抜いていた。

僕たちは共にドームを目指した。ねじれる廊下、重力が横向きに働く空間。それらはすべて、中心に近づくにつれて強くなる『終わりの物語』が引き起こす物理法則の崩壊だった。リナの手を強く引き、僕に見える靄の薄い場所を選んで進む。彼女の小さな手の温もりが、この異常な空間で唯一の確かなもののように感じられた。

第三章 始まりの残響

ついにたどり着いたドームの頂。そこは、がらんどうの空間だった。巨大な望遠鏡も、観測機器も、すべてが取り払われ、ただ円形の床と、かつて星を映したであろう巨大な窓が残されているだけ。

だが、僕の目には全く違う光景が広がっていた。

空間の中心が、まるで熱せられた空気のように歪んでいる。そこには、言葉では表現できないほど濃密な、七色とも無色ともつかない『概念の靄』が、巨大な渦を巻いていた。耳鳴りがするほどの静寂。空気が鉛のように重く、呼吸すらままならない。

胸の羅針盤が、焼き付くように熱を持ち、針がちぎれんばかりに激しく振動している。これが『真実』の源泉。

僕は、何かに引き寄せられるように、渦の中心へと手を伸ばした。リナの息を呑む気配が遠くに聞こえる。指先が、見えない何かに触れた瞬間――

視界が白く染まり、莫大な情報が奔流となって脳内に流れ込んできた。

燃え盛る街。空は赤く染まり、大地は裂け、人々が絶望の叫びを上げる。それは、この世界の未来。避けようのない、絶対的な『滅び』の光景だった。

そして僕は見た。

廃墟の中で、深い皺の刻まれた顔をした老人が、僕が持つものとよく似た装置を必死に操作している姿を。その顔は、紛れもなく、老いた僕自身だった。

未来の僕は、血を吐きながら、最後の力を振り絞って装置を起動させる。過去へ、ただ一つの『物語』を撃ち込むために。

『世界は一度滅び、そこから再生した』

その言葉が時空を超え、過去の世界に届いた瞬間、僕はすべてを理解した。

僕が生まれながらに持つこの能力。それは、未来の僕が放ったこの『始まりの真実』が生成された瞬間の、巨大な波動の残響を捉え続けていたからだ。僕自身が、この世界の巨大な矛盾の『受信機』だったのだ。

羅針盤の振動が、ぴたりと止まった。

第四章 明日を編む指先

「カイ……?」

リナの不安げな声で、僕は我に返った。渦巻いていた靄は静まり、僕の指先に穏やかにまとわりついている。未来の僕がしたこと。それは、絶望的な善意だった。人々に『滅び』という概念をあらかじめ学習させ、それを乗り越えたという偽りの成功体験を与えることで、本当の滅びを回避させようとしたのだ。

だが、その『物語』はあまりに強くなりすぎた。人々がそれを信じ込むほどに、世界は『終わりの物語』を自己実現しようと、自ら法則を歪め、崩壊へと向かっていた。過去の自分が仕掛けた、壮大な罠。

「どうすればいいの……?」リナが僕の腕を掴む。彼女の体温が、冷え切った僕の心にわずかな熱を灯した。

選択肢は二つ。

この『始まりの真実』を破壊する。そうすれば、世界は滅びのサイクルから解放されるだろう。だが、本当に来るべき終焉に、人々はあまりにも無防備になってしまう。

あるいは、新たな『真実』で上書きする。『滅びは乗り越えられる試練だ』と。しかし、それはまた新たな歪みを生むだけの、堂々巡りかもしれない。

僕は、そっと目を閉じた。未来の僕の、絶望と希望が入り混じった顔が浮かぶ。彼は一人で、たった一人で、世界を救おうとした。

でも、もう一人じゃない。

僕はゆっくりと目を開け、リナに微笑みかけた。そして、再び渦の中心に両手を差し入れる。破壊でも、上書きでもない。僕が選んだのは、第三の道。

「ありがとう、未来の僕」僕は静かに呟いた。「でも、物語はもう、誰か一人が作るものじゃない」

僕は『世界の終焉と再生』の靄を消し去るのではなく、その物語に、新たな一文を『編み込み』始めた。それは、答えのない物語。結末の書かれていない、白紙のページ。

『――そして、彼らは自らの手で未来を選ぶ』

僕が紡いだのは、特定の真実ではない。『選択する』という行為そのものが『真実』となる、新たな世界の法則だった。

僕の視界で、世界を覆っていた分厚い靄が、陽光に溶ける朝霧のように、ゆっくりと晴れていく。足元の床が、確かな硬さを取り戻す。

胸元で、カシャンと乾いた音がした。見れば、『虚言の羅針盤』が、光を透かす透明なガラス細工のように姿を変えていた。もはや、縋るべき強固な真実など、この世界のどこにも存在しない。

僕たちは、不安定で、不確かで、けれど無限の可能性を秘めた世界へと歩き出す。リナの手を強く握り、朝日が差し込み始めたドームを後にした。これから始まる僕たちの物語を、紡いでいくために。

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