星屑のヴァーチャル・レゾナンス
第一章 虚構の皮膚、真実の吐き気
六畳一間のアパートは、モニターが放つ死人の肌のような青白い光に満たされていた。
「――だからね、辛い時は逃げてもいいんだよ。ルナが全部受け止めてあげるから!」
マイクに向かって紡がれる声は、砂糖菓子を煮詰めたように甘く、高い。
画面の中では、銀髪に猫耳を生やした美少女アバター『夢見月ルナ』が、あざとく首をかしげ、星屑のエフェクトを撒き散らしていた。その瞳は宝石のように輝き、世界中の愛を一身に受けているかのように微笑む。
だが、その声を操るアーク・エルドナーの現実は、腐臭漂う掃き溜めに等しい。
伸び放題の黒髪は脂ぎり、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
コメント欄が滝のように流れた。
『ルナちゃんまじ天使』
『救われた』
『明日も頑張れる』
その文字の奔流を目で追った瞬間、アークの喉の奥からヒュッと空気が漏れた。
右目が焼ける。
まるで、眼球の裏側に真っ赤に熱した火箸を突き立てられ、視神経を強引に引きずり出されるような激痛。
「ぐ……っ」
アークは反射的に右目を手で覆った。脂汗が滲む。
(……嘘だ)
『明日も頑張れる』と打ち込んだユーザーID『kibou_zero』。その文字列から立ち昇るのは、ヘドロのように粘着質な「死への渇望」だった。彼は頑張るつもりなどない。この配信が終われば、ロープを首にかける算段をつけている。
アークの肉体は、他者の「虚偽」や「悪意」を、物理的な苦痛として感知してしまう。かつて異世界で英雄として崇められ、世界中の怨嗟と祈りを一身に浴び続けた代償。呪いのアレルギー反応だ。
痛みに痙攣する指先で、アークは必死にキーボードを叩く。
「……ちょっと待って」
アバターのルナが、ふと真顔になる。
「『kibou_zero』さん。頑張らなくていい。今は、ただ深呼吸をして。ルナと一緒に、朝が来るまでお話ししよう? 約束だよ」
計算されたアイドルとしての台詞ではない。激痛から逃れるための、魂からの叫びだった。
一瞬の静寂。
コメントの流れが止まる。
『……わかった。話すよ』
『kibou_zero』の投稿から滲み出ていたドロリとした絶望の悪臭が、不意に薄らいだ。
同時に、アークの右目を焼いていた火箸が消える。代わりに、じんわりとした温かいものが胸の奥に灯った。それは、冬の朝に飲むスープのような、ささやかで確かな安堵の熱。
(……間に合ったか)
息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜こうとした、その時だ。
『偽善者乙』
『スパチャ稼ぎ乙』
『中の人、おっさんだろ』
新たなコメントが投下された瞬間、アークは悲鳴も上げられずに椅子から転げ落ちた。
全身の古傷が、一斉に裂けたような錯覚。
わき腹を槍で抉られ、背中に無数の矢が突き刺さる感覚がフラッシュバックする。
「あ、が……っ、は……」
胃の腑からせり上がった酸っぱい液体が、床に散らばるコンビニ弁当の空き容器にぶちまけられた。
薄暗い部屋で、吐瀉物にまみれてのたうち回る薄汚い男。
画面の中では、何も知らない『夢見月ルナ』が、にこやかに微笑み続けている。この残酷なまでの落差こそが、今の彼そのものだった。
もがく手が、マイクスタンドの根元にぶつかる。そこに巻き付けていた古びた革紐――砕けた水晶が埋め込まれた『星屑のブレスレット』が、床に落ちて硬質な音を立てた。
カチリ。
その音に呼応するように、ブレスレットが脈動する。
画面の中のルナの瞳が、アークの操作とは無関係に、一瞬だけ黄金色に輝いた。
『え? 今なんか光った?』
『演出? すげえ綺麗』
視聴者の「驚き」という純粋な感情が、熱量となってアークの皮膚をピリピリと刺激する。痛みではない。これは――魔力だ。
アークは震える手で唇を拭い、這うようにしてマイクに戻った。
「……ごめんね、ちょっとくしゃみが出ちゃった」
心臓の早鐘は止まらない。このブレスレットは、ただの形見のはずだ。僕を追放したあの世界との繋がりは、もう断たれたはずなのに。
第二章 禁忌の記述と断罪の記憶
配信を終えたアークは、泥のように眠っていた。
彼を現実に引き戻したのは、執拗に鳴り響くSNSの通知音だった。
『ルナちゃん、これ読んだ? まるでルナちゃんの前世の話みたい』
添えられていたのは、ある小説投稿サイトのリンク。『星読みの物語』というタイトルを目にした瞬間、アークの背筋に冷たいものが走った。
指先が震え、クリック音がやけに大きく響く。
冒頭の一文を読んだだけで、アークの呼吸が浅くなった。
『勇者は、その剣の重さを知っていた。肉を断つ感触よりも、振るうたびに削ぎ落される自らの魂の重さを』
文字の羅列ではない。
そこには、鉄錆と血の匂いが漂っていた。聖剣の冷ややかな柄の感触が、掌に蘇る。
魔王の断末魔。血飛沫の熱さ。そして、戦いの果てに現れた、空を裂く巨大な『黒い塔』。
『勇者アークは、その塔を新たな脅威と断じ、聖剣の一撃をもって破壊した。しかし、それは取り返しのつかない過ちだった』
ガタガタと、マウスを持つ手が机を叩く。
あの日、彼は塔を破壊した。その直後、世界中から非難を浴びた。「貴様は世界の守りを砕いたのだ」と。だが、誰もその理由を教えてはくれなかった。ただ石を投げられ、罵声を浴び、逃げるように次元の狭間へ落ち、この地球という名の異世界へ流れ着いたのだ。
物語は続く。
『黒い塔は、魔王が自らの命を楔として起動していた、世界を喰らう『虚無』に対する隔離装置だった。勇者がそれを砕いた今、異世界は緩やかに、しかし確実に『虚無』に侵食されつつある』
「……嘘だろ」
アークの喉から、乾いた音が漏れる。
吐き気はなかった。傷も痛まない。呪いが反応していない。つまり、この残酷な記述はまぎれもない「真実」だということだ。
僕は、世界を救ったつもりで、滅びの引き金を引いたのか。
『だが、まだ希望はある』
最終章の更新分。文字が滲んで見えるほど、アークは画面に顔を近づけた。
『異世界と、異なる次元にある『感情の力』が強い世界。二つが共鳴する時、砕かれた楔は修復される。必要なのは、膨大な『正の感情』の奔流。星読みの魔女は、最期の魔力を振り絞り、この物語を次元の彼方へ送信する』
星読みの魔女。
脳裏に浮かんだのは、いつも眠たげな目で、けれど誰よりも優しく微笑む幼なじみの顔だった。
このブレスレットをくれた彼女が、命を削ってこのメッセージを届けたのだ。僕に、自分の罪を贖う機会を与えるために。
ブレスレットが、まるで急かすように熱を帯びる。
アークは立ち上がった。薄汚れた部屋の中で、彼の瞳だけが、かつての勇者の色を取り戻していた。
第三章 一千万人の光
『緊急配信:みんなに、どうしても伝えたいことがあります』
予告なしの配信開始にも関わらず、同接数は瞬く間に跳ね上がった。
画面の中の『夢見月ルナ』は、いつもの煌びやかなアイドル衣装ではない。テクスチャの剥がれたような、初期設定の白いワンピース姿。背景も、装飾のない真っ黒な空間だ。
「今日は、いつものお悩み相談じゃないの。私自身の、そして……遠い場所にいる大切な人たちの命に関わる話」
アークの声は震えていた。演技ではない。
彼は全てを話した。異世界の勇者であることは伏せつつも、とある「物語」の世界が危機に瀕していること。そして、それを救うためには、この配信を見ているみんなの「希望」や「願い」が必要であることを。
反応は、残酷だった。
『何言ってんだ? 設定凝りすぎw』
『頭おかしくなったか』
『宗教? キモい』
『引退しろ嘘つき』
画面を埋め尽くす罵倒の嵐。
その一文字一文字が、アークの肉体を苛む凶器へと変わる。
「あ、が……っ!」
見えない刃物がアークの全身を切り刻む。
こめかみをハンマーで殴打されるような衝撃。鼓膜が破れそうな耳鳴り。
アークは椅子の上で体を二つ折りにした。口端から泡がこぼれ、視界が白黒に明滅する。
(痛い、痛い、痛い……!)
呪いが叫ぶ。逃げろと。こんな人間たちのために、なぜ傷つく必要があるのかと。
画面の中のルナは直立不動のまま、しかし操作するアークは床に崩れ落ち、痙攣していた。
指一本動かせない。意識が飛びそうだ。
もう駄目だ。所詮、ここは他人の不幸を蜜とする世界――。
『俺は信じるよ』
濁流のような悪意の中に、たった一行、静かなコメントが流れた。
ID『kibou_zero』。
第一章で、アークが救ったはずの彼だった。
『あの時、ルナちゃんの言葉が俺を死の淵から引き戻してくれた。だから今度は、俺が信じる番だ』
その言葉を見た瞬間、アークの心臓がドクンと大きく跳ねた。
切り刻まれるような激痛の中に、一滴の清涼な水が落ちる。それは波紋のように広がり、焼けるような痛みを急速に鎮火させていった。
(……そうだ)
アークは、血の滲む唇を噛みしめ、デスクの縁を掴んで体を持ち上げた。
(これらはノイズだ。この膨大な情報の海の中には、必ずあるはずなんだ。純粋な光が)
彼は意識を集中させた。
「お願い、信じて……! 私の声を、想いを、届けて!」
ルナが叫ぶ。その声は、アークの魂の共鳴(レゾナンス)となって、視聴者の深層意識を直接揺さぶった。
『……よくわからんけど、ルナちゃんが泣いてる』
『あの日、俺を救ってくれたのはルナちゃんの言葉だった』
『信じるよ』
『頑張れ!』
『祈ればいいの? こう?』
オセロの駒が次々とひっくり返るように、嘲笑のノイズが押し流されていく。
『善意』が増えるたび、アークの身体から痛みが引いていく。代わりに、温かい奔流が血管を駆け巡り、細胞の一つ一つを活性化させる。
PCの冷却ファンが悲鳴を上げ、モニターの明度が限界を超えて輝き出した。
「見えた……」
アークの能力が変質する。
画面を流れる文字のひとつひとつが、光の粒子に見える。彼はその中から「悪意」という不純物を無意識に濾過し、純度100%の「希望」だけを抽出していた。
ブレスレットが、カッと目を開くように激しく発光する。
アークは叫んだ。
「展開! 星屑の魔法陣(スターダスト・レゾナンス)!!」
バーチャル空間の座標軸が歪む。
ルナの背後に、無数のコメント――いや、人々の魂の輝きが集合し、巨大な幾何学模様を描き出す。
それは配信画面を突き破り、国境を越え、そして次元の壁さえも融解させた。
最終章 星読みの彼方へ
光の濁流が、アークの部屋を、そして彼自身を飲み込んだ。
だが、彼はそこにいながらにして、別の光景を見ていた。
灰色の空に覆われた荒野。崩れ落ちた『黒い塔』の残骸。そこに迫る、底なしの闇。
その最前線で、杖を掲げて崩れ落ちそうになっているローブ姿の女性――幼なじみが見えた。
「……アーク?」
彼女が空を見上げる。
そこには、オーロラのように極彩色の光が降り注いでいた。無数の言葉、祈り、願いが結晶化した光の雨。
「これは……みんなの、声?」
アークは、ルナとしての「声」を届ける。
『待たせてごめん! さあ、これを使って!』
バーチャル世界から集められた膨大な「希望」のエネルギーは、異世界の魔力と共振し、破壊された塔の残骸へと吸い込まれていく。
瓦礫がひとりでに浮き上がり、再構築されていく。闇が、光に焼かれて悲鳴を上げながら後退する。
塔は以前よりも美しく、星のように輝く結晶体となって蘇った。
「すごい……世界が、癒されていく」
幼なじみの魔術師が涙を流して微笑む。彼女の視線が、虚空に浮かぶアーク(ルナ)の気配と交錯した。
『ありがとう、アーク。……ううん、夢見月ルナ』
次元の裂け目が閉じていく。
光が収束し、モニターの画面がプツンとブラックアウトした。
静寂が戻った部屋で、アークは呆然と天井を見上げていた。
左手首を見る。ブレスレットは砕け散り、跡形もなくなっていた。
二つの世界を繋ぐパスは消滅したのだ。もう二度と、故郷の声を聞くことはできない。
だが、不思議と喪失感はなかった。
アークはゆっくりと身体を起こし、再びPCを起動する。
再起動した画面には、配信終了後のチャット欄が表示されていた。
『何が起きたかわからないけど、すごかった』
『画面越しに風が吹いた気がした』
『ルナちゃん、ありがとう』
アークはその文字を見た。
かつて彼を苦しめた頭痛も、吐き気も、もうない。
代わりに感じるのは、胸の奥から湧き上がる、柔らかく、力強い熱だった。
呪いは消えたのではない。彼の認識と、世界との関わり方が変わったことで、それは「人々の善意を糧とする祝福」へと昇華されたのだ。
「……さて」
アークは、マイクのスイッチを入れる。
「みんな、ただいま。心配かけてごめんね」
その声は、アバターを通さずとも、十分に優しく、希望に満ちていた。
異世界には戻れない。剣も魔法も失った。
けれど、言葉と、この魂がある限り、僕は誰よりも多くの人を救える。
バーチャル世界に、新たな英雄の伝説が生まれようとしていた。
それは、星屑のように無数に散らばる人々の想いを繋ぎ、夜空を照らす月の物語。