夢の果て、極彩色の羅針盤
第一章 琥珀色の澱(おり)
雨の匂いに混じって、腐った蜜のような甘ったるい悪臭が鼻をつく。
ハルキは地下鉄の吊り革を握る手に力を込めた。指の関節が白く浮き出る。
目の前のサラリーマンの背中には、どす黒い鉛色のヘドロがへばりついていた。男が電車のリズムに合わせて揺れるたび、その粘着質な泥は糸を引き、彼を過去という名の底なし沼へ引きずり込もうとする。隣の若い女性の指先からは、赤錆びた鉄屑のような粉がこぼれ落ち、スマホの画面を汚していた。
これが、ハルキの網膜に焼き付いている世界だ。
人の肌に触れ、あるいは念の澱んだ場所に立つと、視神経が勝手に「後悔」を色と感触に変換して脳髄へねじ込んでくる。
胃の腑が鉛を飲んだように重い。
自分自身の指先を見つめる。そこには、何の色もない。鏡の中の自分は、他人の吐き出した極彩色の吐瀉物にまみれた、空っぽのガラス細工のようだ。
地上へ続く階段の半ばで、ポケットが震えた。
画面には『祖母』の文字。
瞬間、心臓が早鐘を打つ。通話ボタンをスワイプした指先に、ざらついた予感が走った。
病院の廊下は、アルコールと枯れた花の水のような、冷たく乾いた匂いで満ちていた。
病室に入ると、ベッドの上の祖母シズコは、冬の枯れ木のように小さくなっていた。かつて精緻な時計を組み上げた職人の指は、いまやシーツの上で意味のない痙攣を繰り返している。
「ばあちゃん」
酸素マスクが白く曇っては、消える。その淡いリズムだけが、この部屋で唯一動いているものだった。
窓の外には、鉛色の空が垂れ込めている。幼い頃、熱を出した夜に祖母が口ずさんでいた子守唄が、不意にハルキの脳裏をよぎった。
『人が死ぬ時、魂は溢れ出す。言えなかった言葉、果たせなかった約束。それらは最期の夢となって、枕元に立つ誰かを訪れる……』
あれは、この地方の古い伝承だったのか、それとも時計職人の寓話だったのか。
ハルキは躊躇い、そして覚悟を決めて、祖母の骨張った手に触れた。
視界が、弾け飛んだ。
白い天井が消失し、代わりに鼓膜を劈くような雷鳴と、肌を叩く氷のような雨の感触が襲ってくる。
喉の奥が焼けるような鉄の味がした。
目の前には、嵐に濡れそぼる古い洋館。視界が揺れる。これは祖母の視点だ。自分の胸ぐらを掴み、何かを叫んでいる人物がいる。
相手の顔は雨と涙のカーテンで見えない。だが、その人物から噴き出す色は、ハルキが思わず悲鳴を上げそうになるほど鮮烈で、痛々しいほど純粋な「群青」だった。
凍りついた朝の海のような、絶対零度の青。
『シズコ! これを使っちゃいけない。これは人を、進ませない!』
群青色の影が、何かを突き放す。
その拒絶の意志が、熱した針金のようにハルキの神経を焼いた。
ハルキは弾かれたように手を離し、床に膝をついた。
荒い息と共に、脂汗が滲む。
(今の色は……ばあちゃんの後悔じゃない。もっと鋭利な、誰かの願いだ)
カチリ、と硬質な音がした。
祖母の枕元から、古びた懐中時計が滑り落ちていた。
震える手でそれを拾い上げる。掌の上で、時計は生き物のように脈打ち、異常な高熱を発していた。文字盤には数字がなく、代わりに『過去』と『未来』という文字だけが刻まれている。
針は狂ったように痙攣し、激しく『過去』の方角を指し示して、ギチギチと悲鳴のような音を立てていた。
祖母の胸が、大きく波打った。モニターのアラームが鳴り響く。
「ハルキさん、下がってください!」
駆け込んできた看護師たちの背中越しに、ハルキは見た。
祖母の体から、あの群青色の記憶と、焼け付くような焦燥の色が煙のように立ち上っているのを。
このままでは、祖母は「後悔」の重力に魂を砕かれたまま逝ってしまう。
「僕が、終わらせるよ」
ハルキは、狂った羅針盤のような時計を握りしめた。掌が焼け焦げるような熱さを感じながら、彼は病室を飛び出した。針が指し示す『過去』の方角――海沿いの町にある、封鎖された工房へ向けて。
第二章 硝子の墓標
祖母の工房は、埃とオイル、そして潮風の匂いで満ちていた。
夕陽が窓から差し込み、床に散らばる無数の歯車やバネを、黄金色の瓦礫のように照らし出している。
ハルキが歩くたび、床板が軋み、染み付いた「思考の残滓」が光の粒となって舞い上がった。
懐中時計の針が、部屋の奥にある本棚を指して引きちぎれんばかりに震えている。
導かれるように本棚を動かすと、隠し扉が現れた。
湿った空気と共に、地下室への階段が口を開ける。
階段を降りた先には、部屋を埋め尽くすほどの、巨大な未完成の機械が鎮座していた。
ガラス管とプリズムが複雑に組み合わされ、まるで心臓のように脈打つ光を放っている。
「これが、元凶か」
ハルキが一歩近づくと、機械は侵入者を拒むように、ブウンと低い唸りを上げた。
机の上に置かれた、分厚い革張りの設計図の束。
ハルキはその表紙に手を触れた。
瞬間、脳天を杭で打たれたような衝撃が走った。
「ぐっ……!」
文字を読む必要などなかった。紙に染み付いた執念が、直接脳内に映像を流し込んでくる。
温かいミルクティーの香り。日だまり。そして、血の味。
『親友、ユリへ』
情報の奔流に溺れそうになりながら、ハルキは歯を食いしばって耐えた。
ユリという名の女性。天才的な発明家。そして、不治の病。
ユリの視界がハルキにオーバーラップする。
自分の手が痩せ細っていく感覚。死への恐怖。それを塗りつぶすほどの、世界への怒り。
『悲しみを消したい。後悔で眠れない夜を、この世から無くしたい』
ユリが遺した設計図の正体。それは、人の脳波に干渉し、後悔の記憶を「色彩」ごと焼き切る装置。
過去をなかったことにするのではない。過去に対する感情を、強制的に「透明」にする断頭台だ。
ハルキの視界が明滅する。
ユリの記憶の中で、彼女は完成間近の機械を前にして、絶望していた。
感情を消せば、人は痛みから学ぶことをやめる。痛みは、優しさの裏返しだと気づいてしまったからだ。
『シズコ、あれを完成させてはいけない。でも、捨てないで。いつか誰かが、正しい答えを見つけてくれるまで』
祖母の後悔は、約束を破ったことではなかった。
親友の「願い」である発明を完成させることも、廃棄することもできず、何十年もの間、中途半端な状態で抱え続けてしまったことへの、深い自責。
あの嵐の夜、祖母が泣き叫んでいたのは、完成を急ぐ自分の弱さと、それを止めたユリの亡霊との戦いだったのだ。
ハルキは膝をつき、激しい嘔吐感に耐えた。
鼻からツーと熱いものが流れる。手の甲で拭うと、鮮血だった。
「……僕の、役目だ」
ハルキはよろめきながら立ち上がった。
他人の後悔が見えるこの目は、おそらく幼い頃、この機械から漏れ出す光を浴び続けた影響で変異したものだ。
ならば、この呪われた目を、今こそ使う時だ。
ポケットの中で、懐中時計が火傷しそうなほど熱く脈打っていた。
第三章 夜明けの誓い
夜が深まるにつれ、機械の脈動は不整脈のように乱れ始めた。
それは遠く離れた病院にいる祖母の命が、尽きようとしている合図でもあった。
ハルキは工具を握り、機械の心臓部を開いた。
スパークが散り、オゾンの焦げた匂いが鼻をつく。
普通の人間なら、ただの複雑な配線にしか見えないだろう。
だが、ハルキには見える。
回路の中を流れるエネルギーが、悲鳴を上げるような赤と黒の奔流となって渦巻いているのが。
「遮断するんじゃない……流すんだ」
ハルキは呟き、震える手で配線に触れた。
バチッ!
指先から電流が走り、肩まで痺れが駆け上がる。
「ぐあぁぁっ!」
激痛で意識が飛びそうになるのを、唇を噛み切って堪える。口の中に鉄の味が広がる。
ユリの設計図は、後悔というノイズを「遮断」しようとしていた。だから回路が詰まり、熱を持ち、暴走している。
ハルキは、自らの神経を回路の一部にするかのように、意識を深く潜らせた。
遮断するのではなく、循環させる。
後悔とは、過去への執着ではない。「もっとこうなりたかった」という、未来への渇望の裏返しだ。
そのエネルギーのベクトルを、後ろから前へと反転させる。
そのための触媒として、祖母が肌身離さず持っていたあの懐中時計――『希望の羅針盤』をコアに叩き込む。
頭蓋骨がきしむような頭痛。
視界の端から色が失われていく。自分の生命力が、機械に吸い取られていくのがわかる。
それでも、ハルキの手は止まらなかった。
祖母の愛、ユリの願い、そして自分自身が今まで見てきた無数の人々の「後悔」の色。
それら全てを束ね、あるべき道へと導く。
「回れ……!」
ハルキは叫び、最後の接続を強引に繋いだ。
カッ!
地下室が、視界を奪うほどの閃光に包まれた。
機械の中心に埋め込まれた懐中時計が、新たな鼓動を打ち始める。
『過去』を指して固着していた針が、ゆっくりと、しかし力強く回転し、真っ直ぐに『未来』を指し示した。
その瞬間、ハルキの意識は肉体を離れた。
重力から解放され、温かい黄金色の海に漂っていた。
『ありがとう』
懐かしい声が、直接心に響く。
振り返ると、若き日の祖母シズコと、写真の中の女性ユリが並んで立っていた。
二人の輪郭は、美しい光の粒子で揺らめいている。
『ハルキ。その目は、悲しみを見るためのものじゃない。嵐の後に架かる虹を見つけるための目だったのね』
ユリが微笑み、祖母が誇らしげに頷いた。
ハルキが手を伸ばすと、二人の姿は朝霧のようにほどけ、黄金色の光となって天へと昇っていった。
それが、祖母の「最期の夢」だった。
後悔や苦しみではなく、愛する孫が自分の果たせなかった約束を、より良い形で昇華させてくれたという、満ち足りた確信。
残されたのは、どこまでも広がる青空のような、清々しい静寂だけだった。
結び 色彩の彼方へ
季節がいくつか過ぎた。
路地裏の目立たない場所に、看板のない小さな時計店がある。
カラン、とベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
疲れ切った顔をした中年男性だ。彼の背中には、どす黒いタールのような後悔の色が、重くのしかかっている。
「……直せない、ですよね。こんな古い時計は」
男は諦めたように、壊れた腕時計を差し出した。それは時計の話であり、彼自身の人生の話でもあった。
カウンターの奥から、ハルキが顔を上げた。
かつてのような怯えた瞳ではない。静かで、深い海のような眼差しだ。
彼は男の背中にへばりつく色を一瞥し、そして優しく微笑んだ。
「いいえ、動きますよ。少し、時間をいただけますか」
ハルキは作業机に向かい、ピンセットを手に取った。
あの巨大な機械の原理を応用し、極小の部品に封じ込めた、特製のゼンマイ。
それを組み込むことで、持ち主の「後悔」の波長を、ほんの少しだけ「希望」の周波数へとチューニングする。
世界を変えるような大掛かりな発明ではない。
ただ、目の前の一人が、明日また一歩を踏み出すための、小さな手助け。
修理を終えた時計を手渡すと、男がおずおずとそれに触れた。
瞬間、男の背中のどす黒い色が、時計に吸い込まれるように渦を巻き、透明な輝きへと変わっていく。
時計の秒針が、カチリ、と力強い音を立てて時を刻み始めた。
男の表情が変わる。憑き物が落ちたように涙を流し、やがて顔を上げた時、その瞳には微かだが確かな光が宿っていた。
「……ありがとうございます。なんだか、久しぶりに息が吸えた気がします」
男の体から発せられる色は、もはや濁った澱ではない。
夜明け前の空のような、静謐な藍色へと変わっていた。
男が店を出ていく。
その背中を見送りながら、ハルキは自分の掌を見つめた。
そこには、淡く、しかし温かい「自分の色」があった。
それは、あの夢の中で見た、優しい黄金色によく似ていた。
ハルキは窓の外を見上げた。
雨上がりのアスファルトが、陽の光を反射してきらきらと輝いている。
世界は相変わらず悲しみに満ちているかもしれない。
けれど、この羅針盤が未来を指している限り、どんな色も美しく輝くことができる。
「いらっしゃいませ」
次の客の足音が聞こえ、ハルキは静かに顔を上げた。