夢の果て、極彩色の羅針盤
2 5051 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:
表示モード:

夢の果て、極彩色の羅針盤

第一章 琥珀色の澱(おり)

雨の匂いに混じって、腐った蜜のような甘ったるい悪臭が鼻をつく。

ハルキは地下鉄の吊り革を握る手に力を込めた。指の関節が白く浮き出る。

目の前のサラリーマンの背中には、どす黒い鉛色のヘドロがへばりついていた。男が電車のリズムに合わせて揺れるたび、その粘着質な泥は糸を引き、彼を過去という名の底なし沼へ引きずり込もうとする。隣の若い女性の指先からは、赤錆びた鉄屑のような粉がこぼれ落ち、スマホの画面を汚していた。

これが、ハルキの網膜に焼き付いている世界だ。

人の肌に触れ、あるいは念の澱んだ場所に立つと、視神経が勝手に「後悔」を色と感触に変換して脳髄へねじ込んでくる。

胃の腑が鉛を飲んだように重い。

自分自身の指先を見つめる。そこには、何の色もない。鏡の中の自分は、他人の吐き出した極彩色の吐瀉物にまみれた、空っぽのガラス細工のようだ。

地上へ続く階段の半ばで、ポケットが震えた。

画面には『祖母』の文字。

瞬間、心臓が早鐘を打つ。通話ボタンをスワイプした指先に、ざらついた予感が走った。

病院の廊下は、アルコールと枯れた花の水のような、冷たく乾いた匂いで満ちていた。

病室に入ると、ベッドの上の祖母シズコは、冬の枯れ木のように小さくなっていた。かつて精緻な時計を組み上げた職人の指は、いまやシーツの上で意味のない痙攣を繰り返している。

「ばあちゃん」

酸素マスクが白く曇っては、消える。その淡いリズムだけが、この部屋で唯一動いているものだった。

窓の外には、鉛色の空が垂れ込めている。幼い頃、熱を出した夜に祖母が口ずさんでいた子守唄が、不意にハルキの脳裏をよぎった。

『人が死ぬ時、魂は溢れ出す。言えなかった言葉、果たせなかった約束。それらは最期の夢となって、枕元に立つ誰かを訪れる……』

あれは、この地方の古い伝承だったのか、それとも時計職人の寓話だったのか。

ハルキは躊躇い、そして覚悟を決めて、祖母の骨張った手に触れた。

視界が、弾け飛んだ。

白い天井が消失し、代わりに鼓膜を劈くような雷鳴と、肌を叩く氷のような雨の感触が襲ってくる。

喉の奥が焼けるような鉄の味がした。

目の前には、嵐に濡れそぼる古い洋館。視界が揺れる。これは祖母の視点だ。自分の胸ぐらを掴み、何かを叫んでいる人物がいる。

相手の顔は雨と涙のカーテンで見えない。だが、その人物から噴き出す色は、ハルキが思わず悲鳴を上げそうになるほど鮮烈で、痛々しいほど純粋な「群青」だった。

凍りついた朝の海のような、絶対零度の青。

『シズコ! これを使っちゃいけない。これは人を、進ませない!』

群青色の影が、何かを突き放す。

その拒絶の意志が、熱した針金のようにハルキの神経を焼いた。

ハルキは弾かれたように手を離し、床に膝をついた。

荒い息と共に、脂汗が滲む。

(今の色は……ばあちゃんの後悔じゃない。もっと鋭利な、誰かの願いだ)

カチリ、と硬質な音がした。

祖母の枕元から、古びた懐中時計が滑り落ちていた。

震える手でそれを拾い上げる。掌の上で、時計は生き物のように脈打ち、異常な高熱を発していた。文字盤には数字がなく、代わりに『過去』と『未来』という文字だけが刻まれている。

針は狂ったように痙攣し、激しく『過去』の方角を指し示して、ギチギチと悲鳴のような音を立てていた。

祖母の胸が、大きく波打った。モニターのアラームが鳴り響く。

「ハルキさん、下がってください!」

駆け込んできた看護師たちの背中越しに、ハルキは見た。

祖母の体から、あの群青色の記憶と、焼け付くような焦燥の色が煙のように立ち上っているのを。

このままでは、祖母は「後悔」の重力に魂を砕かれたまま逝ってしまう。

「僕が、終わらせるよ」

ハルキは、狂った羅針盤のような時計を握りしめた。掌が焼け焦げるような熱さを感じながら、彼は病室を飛び出した。針が指し示す『過去』の方角――海沿いの町にある、封鎖された工房へ向けて。

第二章 硝子の墓標

祖母の工房は、埃とオイル、そして潮風の匂いで満ちていた。

夕陽が窓から差し込み、床に散らばる無数の歯車やバネを、黄金色の瓦礫のように照らし出している。

ハルキが歩くたび、床板が軋み、染み付いた「思考の残滓」が光の粒となって舞い上がった。

懐中時計の針が、部屋の奥にある本棚を指して引きちぎれんばかりに震えている。

導かれるように本棚を動かすと、隠し扉が現れた。

湿った空気と共に、地下室への階段が口を開ける。

階段を降りた先には、部屋を埋め尽くすほどの、巨大な未完成の機械が鎮座していた。

ガラス管とプリズムが複雑に組み合わされ、まるで心臓のように脈打つ光を放っている。

「これが、元凶か」

ハルキが一歩近づくと、機械は侵入者を拒むように、ブウンと低い唸りを上げた。

机の上に置かれた、分厚い革張りの設計図の束。

ハルキはその表紙に手を触れた。

瞬間、脳天を杭で打たれたような衝撃が走った。

「ぐっ……!」

文字を読む必要などなかった。紙に染み付いた執念が、直接脳内に映像を流し込んでくる。

温かいミルクティーの香り。日だまり。そして、血の味。

『親友、ユリへ』

情報の奔流に溺れそうになりながら、ハルキは歯を食いしばって耐えた。

ユリという名の女性。天才的な発明家。そして、不治の病。

ユリの視界がハルキにオーバーラップする。

自分の手が痩せ細っていく感覚。死への恐怖。それを塗りつぶすほどの、世界への怒り。

『悲しみを消したい。後悔で眠れない夜を、この世から無くしたい』

ユリが遺した設計図の正体。それは、人の脳波に干渉し、後悔の記憶を「色彩」ごと焼き切る装置。

過去をなかったことにするのではない。過去に対する感情を、強制的に「透明」にする断頭台だ。

ハルキの視界が明滅する。

ユリの記憶の中で、彼女は完成間近の機械を前にして、絶望していた。

感情を消せば、人は痛みから学ぶことをやめる。痛みは、優しさの裏返しだと気づいてしまったからだ。

『シズコ、あれを完成させてはいけない。でも、捨てないで。いつか誰かが、正しい答えを見つけてくれるまで』

祖母の後悔は、約束を破ったことではなかった。

親友の「願い」である発明を完成させることも、廃棄することもできず、何十年もの間、中途半端な状態で抱え続けてしまったことへの、深い自責。

あの嵐の夜、祖母が泣き叫んでいたのは、完成を急ぐ自分の弱さと、それを止めたユリの亡霊との戦いだったのだ。

ハルキは膝をつき、激しい嘔吐感に耐えた。

鼻からツーと熱いものが流れる。手の甲で拭うと、鮮血だった。

「……僕の、役目だ」

ハルキはよろめきながら立ち上がった。

他人の後悔が見えるこの目は、おそらく幼い頃、この機械から漏れ出す光を浴び続けた影響で変異したものだ。

ならば、この呪われた目を、今こそ使う時だ。

ポケットの中で、懐中時計が火傷しそうなほど熱く脈打っていた。

第三章 夜明けの誓い

夜が深まるにつれ、機械の脈動は不整脈のように乱れ始めた。

それは遠く離れた病院にいる祖母の命が、尽きようとしている合図でもあった。

ハルキは工具を握り、機械の心臓部を開いた。

スパークが散り、オゾンの焦げた匂いが鼻をつく。

普通の人間なら、ただの複雑な配線にしか見えないだろう。

だが、ハルキには見える。

回路の中を流れるエネルギーが、悲鳴を上げるような赤と黒の奔流となって渦巻いているのが。

「遮断するんじゃない……流すんだ」

ハルキは呟き、震える手で配線に触れた。

バチッ!

指先から電流が走り、肩まで痺れが駆け上がる。

「ぐあぁぁっ!」

激痛で意識が飛びそうになるのを、唇を噛み切って堪える。口の中に鉄の味が広がる。

ユリの設計図は、後悔というノイズを「遮断」しようとしていた。だから回路が詰まり、熱を持ち、暴走している。

ハルキは、自らの神経を回路の一部にするかのように、意識を深く潜らせた。

遮断するのではなく、循環させる。

後悔とは、過去への執着ではない。「もっとこうなりたかった」という、未来への渇望の裏返しだ。

そのエネルギーのベクトルを、後ろから前へと反転させる。

そのための触媒として、祖母が肌身離さず持っていたあの懐中時計――『希望の羅針盤』をコアに叩き込む。

頭蓋骨がきしむような頭痛。

視界の端から色が失われていく。自分の生命力が、機械に吸い取られていくのがわかる。

それでも、ハルキの手は止まらなかった。

祖母の愛、ユリの願い、そして自分自身が今まで見てきた無数の人々の「後悔」の色。

それら全てを束ね、あるべき道へと導く。

「回れ……!」

ハルキは叫び、最後の接続を強引に繋いだ。

カッ!

地下室が、視界を奪うほどの閃光に包まれた。

機械の中心に埋め込まれた懐中時計が、新たな鼓動を打ち始める。

『過去』を指して固着していた針が、ゆっくりと、しかし力強く回転し、真っ直ぐに『未来』を指し示した。

その瞬間、ハルキの意識は肉体を離れた。

重力から解放され、温かい黄金色の海に漂っていた。

『ありがとう』

懐かしい声が、直接心に響く。

振り返ると、若き日の祖母シズコと、写真の中の女性ユリが並んで立っていた。

二人の輪郭は、美しい光の粒子で揺らめいている。

『ハルキ。その目は、悲しみを見るためのものじゃない。嵐の後に架かる虹を見つけるための目だったのね』

ユリが微笑み、祖母が誇らしげに頷いた。

ハルキが手を伸ばすと、二人の姿は朝霧のようにほどけ、黄金色の光となって天へと昇っていった。

それが、祖母の「最期の夢」だった。

後悔や苦しみではなく、愛する孫が自分の果たせなかった約束を、より良い形で昇華させてくれたという、満ち足りた確信。

残されたのは、どこまでも広がる青空のような、清々しい静寂だけだった。

結び 色彩の彼方へ

季節がいくつか過ぎた。

路地裏の目立たない場所に、看板のない小さな時計店がある。

カラン、とベルが鳴り、一人の男が入ってきた。

疲れ切った顔をした中年男性だ。彼の背中には、どす黒いタールのような後悔の色が、重くのしかかっている。

「……直せない、ですよね。こんな古い時計は」

男は諦めたように、壊れた腕時計を差し出した。それは時計の話であり、彼自身の人生の話でもあった。

カウンターの奥から、ハルキが顔を上げた。

かつてのような怯えた瞳ではない。静かで、深い海のような眼差しだ。

彼は男の背中にへばりつく色を一瞥し、そして優しく微笑んだ。

「いいえ、動きますよ。少し、時間をいただけますか」

ハルキは作業机に向かい、ピンセットを手に取った。

あの巨大な機械の原理を応用し、極小の部品に封じ込めた、特製のゼンマイ。

それを組み込むことで、持ち主の「後悔」の波長を、ほんの少しだけ「希望」の周波数へとチューニングする。

世界を変えるような大掛かりな発明ではない。

ただ、目の前の一人が、明日また一歩を踏み出すための、小さな手助け。

修理を終えた時計を手渡すと、男がおずおずとそれに触れた。

瞬間、男の背中のどす黒い色が、時計に吸い込まれるように渦を巻き、透明な輝きへと変わっていく。

時計の秒針が、カチリ、と力強い音を立てて時を刻み始めた。

男の表情が変わる。憑き物が落ちたように涙を流し、やがて顔を上げた時、その瞳には微かだが確かな光が宿っていた。

「……ありがとうございます。なんだか、久しぶりに息が吸えた気がします」

男の体から発せられる色は、もはや濁った澱ではない。

夜明け前の空のような、静謐な藍色へと変わっていた。

男が店を出ていく。

その背中を見送りながら、ハルキは自分の掌を見つめた。

そこには、淡く、しかし温かい「自分の色」があった。

それは、あの夢の中で見た、優しい黄金色によく似ていた。

ハルキは窓の外を見上げた。

雨上がりのアスファルトが、陽の光を反射してきらきらと輝いている。

世界は相変わらず悲しみに満ちているかもしれない。

けれど、この羅針盤が未来を指している限り、どんな色も美しく輝くことができる。

「いらっしゃいませ」

次の客の足音が聞こえ、ハルキは静かに顔を上げた。

AIによる物語の考察

「夢の果て、極彩色の羅針盤」は、後悔を色で見る能力を持つハルキが、祖母の過去と向き合い、自らの宿命を受け入れる物語です。

登場人物の心理:
ハルキは能力に苦しむ空虚な存在から、祖母の過去と向き合い、人々の後悔を希望へ導く使命に目覚めます。祖母シズコは、親友ユリの願いと、その発明を完成させることも捨てることもできない長年の自責に苦しみます。ユリは後悔を消す装置を開発するも、痛みから学ぶ重要性に気づき、完成を止め未来への希望をシズコに託しました。

伏線の解説:
ハルキの能力は、幼少期に祖母の地下室の機械から漏れた光を浴びたことで変異したものです。祖母の子守唄『最期の夢』の伝承は、ハルキが祖母の魂の記憶に触れる伏線となります。狂った懐中時計は、ユリの願いとシズコの苦悩を内包する「希望の羅針盤」として、過去を未来へ転換する鍵です。

テーマ:
この物語は、後悔を消去するのではなく、それを受け入れ、未来への希望へと昇華させることの尊さを問いかけます。痛みや悲しみは人を成長させ、優しさに繋がるという哲学を、世代を超えた継承と、一人ひとりの心に寄り添う救済を通して描きます。ハルキは、自らの『呪い』を祝福に変え、人々を導く「色彩の羅針盤」となるのです。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る