色彩のない万華鏡

色彩のない万華鏡

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第一章 透明な略奪者

雨音だけが、鼓膜を叩いている。

僕は濡れた路地裏に立ち、自分の掌を見つめていた。

濡れている。冷たい。

それは分かる。

だが、「雨の匂い」が思い出せない。

昨日の依頼で、売ったのだったか。

それとも先週、少女の癇癪を鎮めるために切り売りしたのだったか。

僕はコートのポケットから、真鍮製の筒を取り出した。

『万華鏡』。

ただし、中身は空洞だ。

「……終わったよ」

寝台の上の老女が、とくん、と喉を鳴らす。

彼女の瞳から、澱んだ灰色の膜が剥がれ落ちていく。

僕は万華鏡のレンズを親指で摩る。

一瞬、筒の奥で琥珀色の光が爆ぜた。

同時に、僕の舌の上から「七歳の誕生日に食べたショートケーキの甘み」が消失する。

引き換えに、老女の頬に赤みが差した。

「ああ……」

彼女は自身の胸を掻きむしるように押さえる。

枯れ木のような指が、熱を持って震えていた。

「温かい。なんて……温かいの」

孤独に凍えていた心臓に、僕の「温かな食卓の記憶」を移植した。

代償として、僕の過去はまた一つ、白紙になる。

僕は逃げるように部屋を出た。

礼なんていらない。

感謝されるたびに、自分が透明になっていく気がするからだ。

路地裏を歩く。

不意に、鼻の奥がツンと痛んだ。

どこかの家から、煮込み料理の香りが漂ってくる。

懐かしい香りだ。

なのに、それが「何の料理」なのか分からない。

分からないのに、涙腺だけが熱くなる。

まただ。

最近、この発作が起きる。

特定の歌、特定の香り、特定の温度。

それらに触れるたび、身体が勝手に「喪失」を訴える。

忘れてはいけない誰かがいたはずなのに、その輪郭すら思い出せない。

胸の真ん中に開いた風穴を、冷たい風が通り抜けていく。

「アンタか。記憶を食う幽霊(チューナー)は」

闇に溶け込むような、低い声。

黒いスーツの男が、雨に濡れるのも構わずに立っていた。

目深にかぶった帽子の下、眼光だけが獣のようにぎらついている。

「……営業は終了だ。今日はもう、売れる『幸せ』の在庫がない」

「買ううんじゃない」

男が一歩、近づく。

革靴が水たまりを踏み砕く音が、やけに大きく響いた。

「引き取ってほしいんだ。ある少女の『喜び』を」

僕は足を止めた。

喜びを消せ?

逆だ。誰もがトラウマを消し、幸福を欲しがる。

「その少女……リアが笑うたびに、部下が壊れるんだ」

男が懐から一枚の写真を取り出す。

雨粒が写真の表面を濡らす。

そこに写っていたのは、この世の絶望など一つも知らない、暴力的なまでに無垢な笑顔の少女だった。

「俺の記憶をすべてやる。俺が誰だったか、家族の顔も、恋人の名前も、全部だ」

男は写真を持つ指を白くさせ、雨の中で声を震わせた。

恐怖。

純粋な恐怖が、そこにはあった。

「頼む。あの化け物を……あの『笑う災害』を、止めてくれ」

第二章 猛毒の聖域

案内されたのは、廃工場の地下深く。

重厚な鉄扉が開く。

その瞬間、僕は思わず鼻を覆った。

甘い。

腐った果実を煮詰めたような、脳髄を直接撫で回されるような、濃厚すぎる甘美な空気。

「う、ぅあ……!」

隣を歩いていた依頼人の男が、膝から崩れ落ちた。

胃の中身をぶちまける。

通路の先には、屈強な兵士たちが転がっていた。

死んではいない。

全員、涎を垂らしながら、虚空を見つめて痙攣している。

「あは、あははは……ッ!」

一人の兵士が、自分の指を逆方向にへし折りながら、恍惚とした表情で笑っていた。

痛みがないのではない。

痛みを凌駕するほどの「快楽」が、神経を焼き切っているのだ。

これが、幸福の過剰摂取(オーバードーズ)。

けれど、僕だけは平気だった。

僕の心は穴だらけのザルだ。

どんなに濃厚な毒も、留まる場所がなくすり抜けていく。

「……あら」

部屋の中央。

瓦礫の山の上に、真っ白なドレスを着た少女が座っていた。

リア。

彼女が振り返る。

その笑顔を見た瞬間、僕のポケットの中で万華鏡がカタカタと暴れた気がした。

「新しいおもちゃ?」

鈴を転がすような声。

彼女の周囲だけ、重力が歪んでいるように見えた。

色彩が極彩色の花火のように乱舞している。

彼女が裸足で床に降りる。

ぺた、ぺた、と歩み寄るたび、床に伏した兵士たちが「もっとくれ、もっとくれ」と手足をもたつかせた。

「ねえ、遊んでくれるの?」

リアは無邪気に笑った。

その足元で、男が泡を吹いて気絶する。

彼女はそれを気にも留めない。

いや、認識すらしていない。

彼女にとって、周囲の人間が壊れていく様は、道端の石ころと同じなのだ。

「遊ぶわけじゃない。君を、治しに来た」

僕は一歩踏み出した。

「治す?」

リアは小首をかしげる。

その動作だけで、空気が甘く振動した。

「私、どこも悪くないよ? ほら、こんなに楽しい」

彼女は両手を広げ、くるくると回った。

ドレスが花弁のように開く。

「悲しいことがあっても、すぐに忘れちゃうの。痛いことがあっても、笑っちゃうの。世界中がキラキラしてて、どうして皆、そんなに辛そうな顔をするのか分からないの」

彼女は僕の目の前で止まった。

至近距離で見る彼女の瞳には、虹彩がなかった。

ただ、光だけが渦巻いている。

人間ではない。

これは、純度100%の「幸福」の結晶だ。

ありえない。

光が強ければ、影も濃くなる。

これほどの幸福が存在するためには、同等の「絶望」がどこかに廃棄されていなければならない。

「君の中身、見せてもらうよ」

僕は躊躇わず、彼女の額に右手をかざした。

第三章 忘却の対価

冷たい指先が、彼女の熱い皮膚に触れる。

視界が反転した。

僕の意識が、リアの脳内へと引きずり込まれる。

――そこは、光の地獄だった。

「ぐっ……!」

眩しすぎて、網膜が焼けるようだ。

どこまでも続く、黄金色の草原。

降り注ぐ陽光。

苦痛も、悲哀も、嫉妬も、後悔もない。

完璧な楽園。

だが、おかしい。

この記憶には「主観」がない。

リアという人間が積み上げた経験ではない。

誰かが、無理やり詰め込んだものだ。

巨大なタンクから溢れ出した汚染水のように、外部から注ぎ込まれた「他人の幸せ」。

ズキン、とこめかみが脈打つ。

光の彼方に、誰かが立っていた。

逆光で顔は見えない。

華奢なシルエット。

彼女は、祈っていた。

血の涙を流しながら、必死に何かを拒絶している。

心臓が早鐘を打つ。

知っている。

この立ち姿を。

この、痛々しいほどに真っ直ぐな背中を。

『忘れて』

声が、脳髄に響いた。

『私のことは全部忘れて』

『あなたは生きて』

『苦しみは、私が全部持っていくから』

記憶の蓋が、内側から吹き飛んだ。

風景が変わる。

黄金の草原ではない。

消毒液の匂いがする、白い病室だ。

ベッドに横たわる、痩せ細った女性。

彼女の手を握りしめ、泣きじゃくっている男がいる。

……僕だ。

僕は彼女を救おうとした。

調律師としての禁忌を犯し、自分の幸福と引き換えに、彼女の病の苦痛を肩代わりしようとした。

だが、彼女はそれを拒んだ。

死の間際、彼女は僕の術式を乗っ取ったのだ。

僕が彼女を失って壊れてしまわないよう、彼女自身が持っていた「生への執着」や「僕を愛する喜び」をすべて切り離し、世界へ放出した。

そして、僕の心にあった「絶望」を、すべて彼女自身が抱え込んで死んでいった。

その結果が、これだ。

行き場を失った彼女の「過剰な愛」と「純粋な幸福」が、実体を持って凝縮したバグ。

それが、目の前の少女、リア。

「う、あああ……っ!」

現実世界で、僕は膝をついた。

涙が溢れて止まらない。

悲しいからじゃない。

「悲しい」という感情すら、彼女が持ち去っていたからだ。

今、僕の中に流れ込んでくるのは、彼女が遺した「愛」だ。

暴力的なまでの、献身。

リアは、僕が捨てようとした「幸せ」そのものだった。

そして僕は、彼女に「地獄」を押し付けて、のうのうと生きていた「抜け殻」だったんだ。

第四章 色彩の回帰

荒い息を吐く。

床に落ちた汗が、ポツポツと黒い染みを作る。

目の前には、不思議そうに僕を覗き込むリアがいる。

その心配そうな眉の角度。

かつての恋人が、風邪をひいた僕に向けてくれたものと、全く同じだった。

「お兄さん……? どこか痛いの?」

「……ああ、痛いよ」

僕はよろめきながら立ち上がる。

胸が張り裂けそうだ。

だが、この痛みこそが、僕が背負うべきものだった。

ポケットから『万華鏡』を取り出す。

依頼人の男が、物陰から叫ぶのが聞こえた。

「おい! 何をしている! 早くその化け物を消せ!」

「必要ない」

僕は万華鏡をリアに向けた。

いつもとは逆だ。

彼女から記憶を奪うんじゃない。

この空っぽの筒に、あるべきものを戻すんだ。

「リア。君は、僕の恋人じゃない」

僕は震える声で告げる。

「君は、彼女が僕に残してくれた『祈り』だ。でも、それはもう、彼女自身じゃない」

リアが小首をかしげる。

「私が消えたら、お兄さんはどうなるの?」

「元に戻るだけさ」

彼女が抱えている膨大な幸福。

それを全て、僕の「空っぽの心」に引き受ける。

それは同時に、彼女の発生源となった「恋人の死」という絶望も、全て思い出すことを意味する。

幸せな忘却か。

苦しい再会か。

迷いはなかった。

「おいで」

僕は万華鏡を放り捨て、リアを抱きしめた。

その瞬間、世界が反転した。

黄金色の光が、僕の胸に流れ込んでくる。

熱い。焼けるように熱い。

それと同時に、どす黒い氷柱が背骨を駆け上がる。

――彼女の最期の表情。

――冷たくなっていく指先。

――モニターの電子音。

――「さよなら」の口の動き。

激痛が走る。

内臓を雑巾絞りにされるような喪失感。

今まで感じていた空虚感など比ではない、鮮烈な「痛み」。

「が、あぁぁぁぁ……ッ!!」

僕は叫んだ。

喉が裂けるほど叫んだ。

立っていられない。

けれど、不思議だった。

そののた打ち回るような痛みの中に、確かな温もりがあった。

彼女と過ごした日々の色彩。

雨の匂い。

コーヒーの苦味。

髪の香り。

愛していたという、焼き印のような実感。

腕の中のリアが、光の粒子となって崩れていく。

彼女は最後に、あの無垢な狂気の笑顔ではなく、静かで穏やかな、人間らしい微笑みを浮かべた。

『おかえり、カナデ』

光が弾け、地下室を満たした。

最終章 涙のプリズム

静寂が戻った地下室で、僕は一人、立ち尽くしていた。

依頼人や兵士たちは、正気を取り戻し、呆然と座り込んでいる。

甘ったるい毒の匂いは、もう消えていた。

「……おい、少女は?」

男が恐る恐る尋ねてきた。

「もういないよ」

僕は答えた。

声が枯れていた。

けれど、もう胸の風穴はない。

そこには、鉛のように重たい悲しみと、宝石のように輝く思い出が、ぎっしりと詰まっている。

僕は足元に落ちていた万華鏡を拾い上げた。

いつもなら、中には何も見えない。

あるいは、奪った記憶が一瞬だけ光って消えるだけだ。

けれど、今は違った。

筒を覗き込む。

そこには、無数の色が乱舞していた。

悲しみの青。

喜びの黄色。

後悔の灰色。

愛おしさの赤。

それらが複雑に絡み合い、回転し、見たこともない美しい幾何学模様を描いている。

「綺麗だ……」

涙が、万華鏡の縁を濡らした。

拭っても、拭っても、溢れてくる。

この重みこそが、僕だ。

この痛みこそが、僕が生きてきた証だ。

もう二度と、忘れない。

僕は万華鏡をポケットにしまい、天井を見上げた。

コンクリートの隙間から、地上の光が差し込んでいる。

「行こう」

僕は一歩を踏み出した。

足取りはずっしりと重い。

けれど、その重ささえも愛おしかった。

顔を上げると、頬を伝う涙の粒が、光を反射して虹色に輝いていた。

僕は、泣きじゃくりながら、笑った。

AIによる物語の考察

【登場人物の心理】
主人公・奏が記憶を切り売りし「透明」になろうとしたのは、最愛の人の死という耐え難い絶望から逃げるための自衛本能でした。彼は「痛み」を拒絶することで、自らの存在理由までも放棄し、魂の死を選んでいたのです。

【伏線の解説】
中身が空の万華鏡は、色彩(感情)を失った奏の心の象徴です。リアを前に万華鏡が震えたのは、彼女が奏の捨てた「幸せな記憶」そのものだったからに他なりません。料理の香りに涙した発作は、脳が忘却を選んでも、魂が愛した記憶を渇望していた証拠です。

【テーマ】
本作は「幸福と絶望の不可分性」をテーマにしています。苦痛のない楽園は人を壊す猛毒であり、悲しみという影を受け入れて初めて、人生は真の色彩を得ます。喪失の痛みこそが、かつて深く愛した証であり、人間として生きるための尊い重みなのだと説いています。
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