メメント・ソナーレ ~記憶の残響~

メメント・ソナーレ ~記憶の残響~

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第一章 触れられない音色

古い街の片隅に、響(ひびき)の工房はあった。埃とオイルの匂いが混じり合うその場所で、彼は失われた音を蘇らせる「音響修復師」として静かに生きていた。彼の指先は、百年物のヴァイオリンの傷をなぞり、錆びついた蓄音機のゼンマイを巻き上げる。だが、その指が真価を発揮するのは、常に薄い革手袋に覆われている時だけだった。

響には秘密があった。呪いとも、あるいは才能とも呼べる、特異な体質。彼は素手で物に触れると、その物が内包する「音の記憶」を、自身の記憶と引き換えに吸収してしまうのだ。幼い頃、公園の鉄棒に触れて、数えきれない子供たちのはしゃぎ声に脳を焼かれ、三日三晩熱に浮かされた。祖母の形見の万年筆に触れた時は、カリカリと紙を掻く音と共に、自分が祖母の顔を思い出せなくなっていることに気づき、絶叫した。

それ以来、響の世界は手袋越しの、間接的なものになった。人との握手も、恋人と手を繋ぐこともない。美しい音色を奏でる楽器にさえ、修理の最終段階でなければ素手で触れることはなかった。記憶を失うことは、自分自身が削り取られていくのと同じだった。彼は空っぽの器になることを恐れ、世界から距離を置いていた。

そんなある日の午後、工房のドアベルが、澄んだようでいて、どこか寂しげな音を立てた。入ってきたのは、背筋をしゃんと伸ばした、上品な老婦人だった。彼女は丁寧に包まれた小さな木箱をカウンターに置くと、穏やかな声で言った。

「これを、治していただけますでしょうか」

響が手袋越しの手で包みを解くと、現れたのは精巧な細工が施された木製のオルゴールだった。しかし、その美しさとは裏腹に、状態は酷かった。蓋は歪み、内部の櫛歯は数本が折れ、シリンダーには深い傷が入っている。これはもはや、修復の域を超えていた。

「申し訳ありませんが、これは…」

響が断りの言葉を口にしようとした瞬間、老婦人はまるで彼の心を見透かしたかのように、静かに続けた。

「どんな代償を払ってでも、もう一度、あの音色を聴きたいのです。夫が、私のために遺してくれた、たった一つの音ですから」

その瞳には、諦観と、それでも消えない一条の光が宿っていた。響は、その瞳から目を逸らせなかった。このオルゴールを完全に蘇らせるには、一つしか方法がない。禁忌としている、己の能力を使うこと。オルゴールの芯に素手で触れ、そこに刻まれた「本来の音」を脳に直接ダウンロードするのだ。だが、それは同時に、オルゴールが経てきた長い年月の記憶、そして持ち主の濃密な想いを、自分の記憶と引き換えに受け取ることを意味していた。響は、これまでで最も危険な賭けを前に、唇を固く結んだ。

第二章 沈黙の依頼人

響は、数日かけてオルゴールの物理的な修復を試みた。折れた櫛歯を同じ材質の金属から削り出し、歪んだ木箱を蒸気で矯正する。しかし、核心であるシリンダーの傷だけはどうにもならなかった。この傷が、音階を狂わせ、メロディを不快なノイズに変えてしまっている。本来の旋律を知らない限り、正しいピンの配列を復元することは不可能だった。

彼は依頼人――桜井千代乃(さくらいちよの)という名の老婦人に連絡を取り、オルゴールの由来について尋ねた。彼女は電話口で、ぽつりぽつりと語り始めた。

「あれは、夫がまだ無名の職人だった頃に、私のために作ってくれたものなのです。曲名は…ありません。彼が、私を想って作った、世界に一つだけの曲ですから」

夫は十年前に亡くなり、オルゴールもその頃から少しずつ音を狂わせていったのだという。まるで、主人の死を悼むかのように。千代乃自身の命も、あと幾ばくもないことを医者から告げられていた。

「最後に、あの優しい音に包まれて、旅立ちたいのです」

彼女の静かな願いは、鉛のように響の心に沈んだ。

工房で、響は手袋を嵌めたまま、オルゴールをじっと見つめた。蓋の裏には、小さな文字で『Pour ma chérie, éternellement(愛する君へ、永遠に)』と彫られている。一人の男が、一人の女のために、生涯の愛を込めて作り上げた音の宝石。そこに宿る記憶は、どれほど濃密で、美しいのだろう。それを吸収すれば、自分は一体何を失うのだろうか。昨日の夕食の味か、幼い頃に見た空の色か、それとも、まだ会ったことのない誰かを愛する感情そのものか。

恐怖が、冷たい霧のように足元から這い上がってくる。だが同時に、彼の内側で何かが疼いていた。それは、本物の音に触れたいという、音響修復師としての根源的な欲求だった。手袋越しの世界は安全だが、色褪せている。千代乃の言葉が脳裏をよぎる。『夫が遺してくれた、たった一つの音』。音は、単なる空気の振動ではない。それは記憶であり、感情であり、遺された者へのメッセージなのだ。自分は今まで、その核心から逃げ続けてきたのではないか。

響は、工房の窓から見える夕焼けを眺めた。燃えるような橙色が、灰色の街並みを一瞬だけ鮮やかに染め上げている。彼は、自分の人生もこのまま色褪せたまま終わるのだろうかと、ふと思った。

「代償、か…」

呟いた声は、やけに乾いて響いた。彼はゆっくりと立ち上がると、作業台の上のオルゴールに向き直った。そして、長年、自分自身を守り、同時に世界から隔絶してきた薄い革手袋に、そっと指をかけた。

第三章 記憶の残響

決意は、夜の静寂の中で固まった。響は深く息を吸い込み、手袋を外した。十数年ぶりに空気に晒された掌は、まるで知らない誰かのもののように青白く、頼りなく見えた。彼は震える指先を、オルゴールの心臓部である金属製のシリンダーに、ゆっくりと近づけていく。

指が触れた瞬間――世界が爆ぜた。

洪水のような音の奔流が、神経を逆流して脳髄に叩きつけられる。それは単一のメロディではなかった。金属を削る甲高い音、木材を磨く柔らかな摩擦音、設計図の上を走る鉛筆の音。そして、楽しげに鼻歌を歌う若い男の声。メロディを口ずさみ、時々「うーん、ここじゃないな」と首を捻る。窓から差し込む陽光の暖かさ、愛する女性が淹れてくれたコーヒーの香り、完成したオルゴールを彼女が初めて聴いた時の、宝石のような涙。それら全てが、音の記憶として響の中に流れ込んできた。

美しい。あまりにも、純粋で、温かい記憶の連なりだった。響は、自分の記憶が薄靄のように溶けていくのを感じながらも、その温かさに抗うことができなかった。これは、桜井千代乃の夫の記憶だ。彼の愛そのものだ。

だが、奔流の奥深くで、何かが違った。流れ込んでくる記憶の断片に、見覚えのある風景が混じり始めたのだ。自分が幼い頃に遊んだ、あの公園のブランコ。壁に古い柱時計がかかった、懐かしい匂いのする部屋。そして、優しく自分の頭を撫でてくれた、大きな手。

(なんだ…これは…?)

混乱する響の脳裏に、一つの記憶が鮮明に浮かび上がった。それは、幼い自分が、設計図の散らばる作業台で、一人の男性の膝に乗っている光景だった。男性は、小さな響の手に道具を握らせ、こう言った。

『いいかい、響。音にはな、心があるんだ。作るやつの心が、そのまま音になる。だから、お前は優しい音を紡ぐ職人になるんだぞ』

その声。その温もり。それは、物心つく前に事故で亡くなったと聞かされていた、祖父の声だった。

衝撃の事実が、雷となって響を貫いた。このオルゴールを作ったのは、千代乃の夫などではない。自分の祖父、響一郎(きょういちろう)だ。祖父もまた、自分と同じ能力を持っていた。彼は、愛する妻――つまり響の祖母――のために、自らの記憶を削りながら、このオルゴールを完成させたのだ。そして、千代乃の夫は、おそらく祖父の弟子か、あるいは彼の作品に魅せられた収集家だったのだろう。巡り巡って、祖父の最後の作品が、孫である自分の元へやって来たのだ。

記憶の奔流が、クライマックスに達する。病床に伏した祖父が、最後の力を振り絞ってオルゴールのシリンダーに指を触れる。彼は、まだ見ぬ孫――響の未来を想っていた。

『この呪いのような力がお前にも受け継がれるのなら…どうか、恐れるな。失うことを恐れるな、響。この力は、誰かの心を繋ぐためにあるんだ。お前の人生を、生きろ』

それは、音にならない声。魂の残響。祖父が孫に遺した、最後のメッセージだった。

流れ込んでくる記憶が止まった時、響は床に膝をついていた。頬を伝う熱い雫が、床板に小さな染みを作っていく。彼は何かを失った。遠い日の夏休みの思い出か、好きだった本の題名か、それはもう定かではない。だが、それと引き換えに得たものは、あまりにも大きく、温かかった。

第四章 世界に触れる手

翌日、響は生まれ変わったような気持ちで工房の扉を開けた。彼の両手にはもう、手袋はなかった。彼は生まれ変わった指先で、まるで初めて触れるかのように、道具の一つ一つを確かめた。その冷たさ、重さ、そしてそこに宿るかすかな音の記憶。それら全てが、今は愛おしく感じられた。

彼は祖父の記憶――いや、祖父と共有した記憶――を頼りに、オルゴールのシリンダーのピンを一本一本、正しい位置に打ち直していった。それはもはや作業ではなかった。祖父との対話であり、世代を超えた共同作業だった。彼の指は迷いなく動き、やがて、完璧な旋律を奏でるための配列が完成した。

完成したオルゴールを、響は千代乃の家まで届けに行った。海辺の小さな、日当たりの良い家だった。少し痩せたように見える千代乃は、静かな微笑みで彼を迎えた。

響がテーブルの上でオルゴールの蓋を開け、そっとゼンマイを巻く。

カチリ、と小さな音がして、世界で最も優しい音色が、陽光の満ちる部屋に溢れ出した。

それは、喜びと、少しの切なさと、深い愛情が溶け合ったような、聴く者の心の最も柔らかい場所に触れる旋律だった。千代乃の瞳から、大粒の涙が静かに零れ落ちた。

「…あなた…」

彼女は、音色の向こうに、亡き夫の姿を見ていた。だが、その音を作ったのが、夫ではない別の誰かであったとしても、もはや彼女にとってはどうでもいいことだった。この音に込められた深い愛は、本物だったから。その愛が、彼女の夫の想いと共鳴し、今、ここで奇跡を奏でているのだ。

「ありがとうございます」

千代乃は、涙に濡れた顔で微笑んだ。「これで、安心して旅立てます」と。

工房に戻る道すがら、響は自分の掌を見つめた。祖父の記憶を受け取った代償に、自分の記憶のどの部分が欠け落ちたのか、正確には分からない。だが、不思議と喪失感はなかった。心の中は、温かい光で満たされている。それは、祖父の愛であり、千代乃の感謝であり、そして、自らの手で美しい音を紡ぎ出したという、確かな喜びだった。

工房に着くと、彼は入り口のドアノブにそっと素手で触れた。流れ込んでくるのは、これまで工房を訪れた人々の、様々な声や足音。それはもう、彼を苛むノイズではなかった。一つ一つが、誰かの人生の断片であり、愛おしい物語だった。

響は、微笑んだ。失うことを恐れて、世界に触れずに生きていくことは、何一つ受け取らずに生きていくことと同じだったのだ。これからは、この手で世界に触れていこう。たくさんの記憶を失うかもしれない。いつか、自分自身のことも忘れてしまう日が来るかもしれない。

それでもいい。

この手に受け取った誰かの想いを、優しい音色に変えて、未来へ繋いでいくことができるのなら。

響は、夕陽に染まる自分の掌を、誇らしげに見つめていた。その手はもう、呪われた手ではなかった。世界で最も美しい音を紡ぐための、祝福された手だった。

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