第一章 蝕む黒
僕、桐谷響の世界は、音で彩られていた。生まれつきの共感覚(シナスタジア)を持つ僕にとって、音は聴こえると同時に「見える」ものだった。降りしきる雨は銀色の無数の線となり、恋人である美咲の笑い声は、部屋を満たす温かな黄金色の粒子となってきらめく。作曲家である僕にとって、この感覚は呪いであると同時に、神からの祝福だった。鍵盤を叩けば、青い硝子の粒が、深紅のビロードが、翠緑の霧が生まれ、それらを編み上げて一つの世界を構築する。僕の音楽は、僕にしか見えない色彩のタペストリーだった。
その祝福された世界に、異変が起きたのは三ヶ月前のことだ。
いつものようにスタジオで新しい楽曲のスケッチをしていた時だった。流麗なピアノの旋律が、青と白のグラデーションとなって空間を泳ぐ。その色彩の海の中に、ふと、一点の「染み」が現れた。それは、どんな絵の具を混ぜ合わせても作り出せないような、絶対的な黒。光さえ飲み込むような、虚無の色。
その黒い点が現れた瞬間、そこにあったピアノの音が完全に消えた。いや、「消えた」という表現は正しくない。まるで黒い穴に「吸い込まれた」かのように、その一点を中心とした空間から音が消失したのだ。僕の共感覚は、その無音を「虚無の黒」として捉えていた。
最初はほんの米粒ほどの大きさだった。僕は疲れているのだろうと、あまり気に留めなかった。だが、その黒い染みは日を追うごとに、僕の日常を蝕み始めた。
街角の喧騒、カフェで流れるボサノヴァ、アパートの隣室から漏れるテレビの音。それらのカラフルな音のパレットに、黒い染みは不意に現れ、その領域をじわじわと広げていく。染みに触れた音は、存在そのものを掻き消される。僕の世界から、少しずつ色が失われていく。それは、絵画にインクを垂らしたように、ゆっくりと、しかし確実に世界をモノクロームに変えていく、静かなる侵略だった。
最も恐ろしかったのは、その黒が「生命の音」にまで及び始めたことだ。ある夜、電話の向こうで弾むように話す美咲の声が、ふと途切れた。彼女の声が紡ぐはずだった黄金色の粒子が、受話器の奥に現れた黒い渦に吸い込まれていくのが見えた。
「……もしもし? 響、聞いてる?」
美咲の怪訝そうな声が、再び世界に色を取り戻す。だが、僕の背筋を冷たい汗が伝っていた。あれはなんだ? 僕の祝福された世界を、根こそぎ奪い去ろうとする、あの虚無の正体は。僕は得体の知れない恐怖に、ただ震えるしかなかった。
第二章 色褪せる世界
「虚無の黒」は、僕の精神を確実に削り取っていった。それは僕が安らぎを感じる瞬間に、最も色濃く現れるようだった。心地よい音楽に身を委ねている時。美咲と穏やかな時間を過ごしている時。完成した楽曲を聴き返し、満ち足りた気持ちになる時。僕の幸福が生み出す鮮やかな色彩を嘲笑うかのように、黒は膨張し、音を喰らった。
恐怖に駆られた僕は、音から逃げるようになった。作曲家が、音から。我ながら滑稽な話だが、そうするしかなかった。スタジオに籠ることをやめ、ピアノの蓋は固く閉ざされたまま。ヘッドフォンで音楽を聴くこともなくなり、街を歩くときは耳栓をした。しかし、無意味だった。耳を塞いでも、僕には「見える」のだ。音の色彩が、黒に飲み込まれていく様が。
世界から色が失われていく。かつては万華鏡のようにきらめいていた日常が、煤けたセピア色の写真のように色褪せていく。小鳥のさえずりは途切れ途切れの灰色の線になり、子供たちの歓声はくすんだ黄土色の斑点となって消える。僕の内面もまた、それに呼応するように活力を失っていった。感情の起伏は乏しくなり、思考は鈍重になった。
美咲との関係にも、暗い影が落ちていた。
「最近、元気ないね。曲、行き詰まってるの?」
カフェで向かい合った彼女が、心配そうに僕の顔を覗き込む。彼女の声は、かつてのような輝く黄金色ではなく、どこか弱々しい、淡いクリーム色をしていた。僕は曖昧に頷くことしかできない。彼女といると、あの黒が現れる。彼女の優しさが、彼女の笑顔が、僕を幸せにすればするほど、黒は力を増して彼女の音を奪うのだ。
「ごめん、今日はもう帰る」
僕は、彼女の言葉を遮って席を立った。傷ついたような彼女の表情が、歪んだガラス越しのようにぼやけて見える。僕は彼女を守るために、彼女から離れなければならなかった。
アパートに戻り、電気もつけずに部屋の真ん中でうずくまる。耳栓をしても、目を閉じても、無意味だ。僕自身の心臓の鼓動、その鈍い赤色の光さえも、部屋の隅にわだかまる巨大な黒に、いまにも飲み込まれそうになっていた。もうどこにも逃げ場はない。このまま僕は、全ての音と色を失い、完全な無音と暗黒の世界で、独り朽ちていくのだろうか。絶望が、冷たい水のように僕の肺を満たしていく。
第三章 虚無のカンタータ
絶望の淵で、僕は一つの奇妙な事実に気づいた。あれほど僕を苛む「虚無の黒」は、僕以外の誰にも知覚されていない。美咲も、街ゆく人々も、音が消える瞬間に何の違和感も覚えていないようだった。つまり、これは僕だけの世界で起きている現象なのだ。黒は、僕の外部から来る侵略者ではない。僕の、内側から生まれているのではないか?
その考えに至った時、脳裏にフラッシュバックのように、忘れていた光景が蘇った。
それは、十年前の夏の日の記憶。蝉時雨が黄色いシャワーのように降り注ぐ、田舎道。僕の少し前を、白いワンピースを着た小さな妹、詩織(しおり)がスキップしながら歩いていた。生まれつき耳が不自由だった彼女のために、僕は「見える音楽」を作ってあげると約束していた。僕の共感覚は、彼女との唯一無二のコミュニケーションツールだった。
僕が口ずさむメロディを、詩織は僕の瞳に映る色彩で感じ取り、満面の笑みで振り返る。その笑顔は、ひまわりのような眩しい黄色だった。
その時だ。
カーブの向こうから、大型トラックが猛スピードで現れた。クラクションのけたたましい音。それは僕の視界で、醜い錆び色となって爆ぜた。僕は恐怖に足がすくみ、声も出せなかった。
――ドン、という鈍い衝撃音。
ひまわりのような黄色が、一瞬で、鮮烈な赤に塗りつぶされた。
僕はその後の記憶が曖昧だった。気づいた時には病院のベッドの上で、両親が泣いていた。僕は、あの瞬間の全てを、自分の心から消し去っていた。妹の最後の表情を。衝撃音を。僕自身の、凍りついた悲鳴を。罪悪感と恐怖に耐えきれず、僕は自分の感覚に蓋をしたのだ。僕はあの夏の日、世界から「音」を消した。
そうだ。あれが始まりだった。
「虚無の黒」の正体は、僕自身が作り出した「忘却」の塊だ。僕が「無かったこと」にした記憶と感覚。それが僕の心の深淵で、音を喰らう怪物として成長していたのだ。そして、僕が幸せを感じ、新しい色彩豊かな音楽を生み出そうとするたびに、それは嫉妬するかのように現れ、僕の世界を破壊する。まるで、妹を忘れて自分だけが幸せになることを、僕自身が許していないかのように。
恐怖の正体は、幽霊でも怪物でもなかった。僕自身の、弱さと罪悪感だった。
僕は震える足で立ち上がり、何年も開けていなかったピアノの蓋に、ゆっくりと手をかけた。
第四章 君に捧ぐレクイエム
埃を被った鍵盤が、月明かりに白く浮かび上がる。僕は椅子に座り、深呼吸を一つした。部屋の隅では、巨大な口を開けたように「虚無の黒」が蠢いている。僕がピアノに触れたことに反応し、その闇をさらに深くしたようだ。
逃げも隠れもしない。僕は、この黒と対峙する。
震える指で、最初の和音を奏でた。ポーン、と鳴った音は、儚い水色の光の輪となって広がり、すぐに黒に吸い込まれて消えた。だが、僕は弾き続ける。一音、また一音。それは、かつて詩織のために作ろうとしていた、未完成のカンタータだった。
後悔の音。罪悪感の音。そして、伝えきれなかった愛情の音。僕の全ての感情が、色彩となって鍵盤から溢れ出す。青、緑、紫。生まれては消え、生まれては黒に飲み込まれていく。まるで、底なしの闇に、色とりどりの宝石を投げ込んでいるようだった。無駄な抵抗かもしれない。だが、僕はやめなかった。これは僕の贖罪であり、詩織への鎮魂歌(レクイエム)だった。
どれくらいの時間、弾き続いただろうか。指は感覚を失い、頬を伝うのが汗なのか涙なのかも分からなかった。僕の世界の全ての音と色が、この部屋の闇に喰い尽くされようとしていた。
その、最後の音が黒に消え入る瞬間だった。
膨張を続けていた「虚無の黒」の中心に、ふと、小さな光が灯った。
それは、僕が忘れるはずのなかった、ひまわりのような、眩しい黄色だった。
黒の奥から、詩織の笑顔が見えた気がした。音のない世界で生きていた彼女は、僕の「見える音楽」を、その色彩を、心から愛してくれていた。僕が音楽を捨て、世界の色を失うことを、彼女が望むはずがなかった。
「ありがとう、響兄ちゃん」
聴こえるはずのない声が、僕の心に直接響いた。
次の瞬間、僕を縛り付けていた罪悪感の鎖が、ふっと軽くなるのを感じた。虚無の黒は、消え去りはしなかった。それは僕の心に刻まれた、癒えることのない傷跡そのものだからだ。だが、その底知れない恐怖の色は薄れ、今はただ、静かな夜の闇のように、僕の傍らに佇んでいた。それはもはや、僕を蝕む怪物ではなかった。僕が背負って生きていくべき、記憶の一部となっていた。
僕はゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。街のざわめきが、まだら模様の淡い色彩となって流れ込んできた。完全ではない。僕の世界は、あの夏の日以前のようには、二度と戻らないだろう。所々に色の欠けた、不完全なタペストリーだ。
だが、それでいい。失われた音と共に、そして、残された音と共に、僕は生きていく。
もう一度、美咲に会いに行こう。そして、今度こそ、僕のありのままの音楽を、世界を、彼女に伝えよう。
僕の不完全で、それでも愛おしいこの世界には、まだ奏でるべきメロディが残っているのだから。