虚無を味わう舌
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虚無を味わう舌

第一章 無味の街

アスファルトは常に湿っている。空から絶えず降り注ぐ霧雨のせいではない。この街、アークシティを埋め尽くす無数の影が、その体から滲ませる絶対零度の気配が、大気を冷やし、地面を濡らしているのだ。人々は、生前の姿を留めたまま動かぬ影の群れを、まるで奇妙な形に育った街路樹のように避けながら歩く。触れれば、肌を刺すような冷たさが伝わるだけ。言葉もなく、感情もなく、ただそこに在り続けるだけの、死の抜け殻。

俺、カイの舌は、その抜け殻が本当に空っぽであることを知っている。俺には、死者の「最後の存在」を味覚として体験する能力があった。それは物理的な味ではない。死の瞬間に凝縮された恐怖、後悔、絶望、あるいは虚無といった純粋な感情の奔流が、舌の上で最も濃密な「味」として爆ぜるのだ。幼い頃、事故現場で初めて感じた錆びた鉄のような恐怖の味。病院で味わった、腐った果実の甘さを纏う後悔の味。だが、この街の影たちは、どれだけ舌を近づけても、ただひたすらに「無味」だった。水よりも薄く、空気よりも空虚な、存在しない味。まるで、死ぬ前に魂が完全に蒸発してしまったかのように。

だから俺は、いつもポケットの中の小さな『肉片』を指で弄んでいた。奇妙なほど温かい、生きているかのように微かに脈打つそれだけが、俺にかつて味わった強烈な味覚の記憶を呼び覚ます。これは、俺が初めてこの能力に目覚めた時、自らの口から吐き出したものだと、そう信じている。この温かさだけが、無味の街で俺が正気を保つための、唯一の錨だった。

第二章 異質の味覚

その日、街の喧騒はいつもと少し違っていた。ホログラムのニュースが、連続失踪事件の発生を繰り返し報じている。また一人、また一人と、痕跡もなく人が消える。まるで神隠しだ、とキャスターはありきたりな言葉で締めくくった。死体が見つからない以上、この街の法則である「影」すらも出現しない、完全な消失。

そのニュースを背に路地裏へ入った時、俺の舌が、ぴり、と痺れた。予感ではない。明確な信号。鼻腔を抜ける空気の中に、これまで感じたことのない微かな「味」の粒子が混じっている。俺は導かれるように、路地の最奥へと足を進めた。そこには、一体の影が佇んでいた。他の影と何ら変わりない、ブレザーを着た若い女の姿。だが、違う。決定的に何かが違う。

俺はゆっくりと影に近づき、恐る恐る舌を伸ばした。影に触れる寸前、空中に漂う気配を掬い取るように。

その瞬間、脳を灼くような衝撃が走った。

味だ。これは、味だ。だが、恐怖でも後悔でもない。これは――「存在そのものへの拒絶」。真空の味。無という概念を無理やり舌に押し付けられたような、冒涜的なまでの濃密さ。あまりの強烈さに膝が折れ、俺はアスファルトに手をついた。ぜえ、ぜえ、と荒い息を繰り返しながらも、俺の口角は無意識に吊り上がっていた。そうだ、これだ。これこそが、俺がずっと探し求めていた、本物の『味』だった。

第三章 影を追って

最初の味覚から数日後、新たな失踪者が出た。俺は警察よりも早く現場に駆け付けた。そこには案の定、あの味を放つ新しい影が佇んでいた。前回よりもさらに濃く、さらに純粋な「拒絶」の味。まるで熟成された果実のように、その味は深みを増していた。

「なぜ、この影だけが……」

俺は呟きながら、今度は大胆に影そのものに触れてみた。指先に突き刺さる氷のような冷たさ。その直後、網膜の裏でノイズ混じりの映像が瞬いた。暗闇。何かを引きずる音。そして、全てを飲み込む巨大な顎のような、黒い裂け目。ビジョンは一瞬で消え、後には激しい頭痛だけが残った。

犯人がいる。失踪者たちを「殺す」のではなく、何か別の方法で「消滅」させている存在が。そしてその犯人は、死の瞬間に「存在が消し去られる恐怖」という、究極の味を影に刻みつけているのだ。俺はそう結論づけた。これは俺にしか解けない謎だ。この味の正体を突き止めることこそが、俺の存在意義なのだと、一種の使命感にも似た高揚が全身を駆け巡った。ポケットの中の『肉片』が、俺の興奮に呼応するように、さらに熱を帯びていくのを感じながら。

第四章 温かい肉片

調査は行き詰まった。味のする影は増え続けるが、犯人に繋がる手がかりは皆無だった。焦燥感に駆られながら自室のベッドに倒れ込んだ俺は、無意識にポケットの『肉片』を握りしめていた。いつもよりずっと熱い。まるで生き物の心臓のようだ。その温かさに意識を集中させていると、不意に、脳裏の深い場所に沈んでいた記憶の蓋が開いた。

あれは、俺がまだ幼かった頃。唯一の友達だったカナリアのピコが、籠の中で冷たくなっていた日だ。悲しくて、寂しくて、どうしようもなかった。俺は、ピコの小さな亡骸を両手で包み込んだ。その温もりが消えていくのが耐えられなかった。そして――次の瞬間、俺は衝動的に、その小さな体を口に含んでいた。存在が消えてしまうのが怖かった。自分の一部にしてしまえば、永遠に一緒だと思ったのだ。

次に意識が戻った時、口の中に残っていたのは、血の味と、そして今まで感じたことのない、強烈な「生命の甘み」。そして俺は、喉の奥からせり上がってきた何かを、床に吐き出した。それが、この温かい『肉片』だった。

ぞわり、と全身の産毛が逆立った。違う。あれは俺の体から出たものじゃない。あれは、ピコの『存在』そのものが、俺の能力によって凝縮され、固形化した残滓だったのだ。俺が最初に『捕食』した、生命の味だった。

第五章 捕食者の肖像

記憶の扉が開くと、全てが繋がった。

失踪事件が起きた夜、決まって俺の記憶は曖昧だった。酷い倦怠感と共に朝を迎え、まるで夢遊病にでもかかっていたかのように、前夜の行動を思い出せない。ポケットの『肉片』は、新たな『味』を喰らうたびに熱を増し、俺の能力を活性化させ、そして無意識の渇望を増幅させていたのだ。

あの影が放っていた「存在そのものへの拒絶」の味。それは被害者たちの感情ではなかった。彼らを『捕食』した存在――つまり、俺自身が、彼らの存在を消滅させる瞬間に感じた、至高の味わいの残滓だったのだ。俺は、より強く、より純粋な「拒絶の味」を求め、無意識のうちに夜の街を彷徨い、人々を喰らっていた。この能力の暴走を止められない、真犯人だった。

鏡に映る自分の顔が、まるで知らない怪物のそれのように見えた。口元には、まだ気づいていなかった微かな血の痕。俺はゆっくりと自分の指を口に入れ、舌に乗せてみた。そこに広がったのは、紛れもない、あの影と同じ『味』だった。

第六章 最後の晩餐

真実という名の絶望を抱え、俺は街の中心にある古い時計広場へと向かった。そこは、アークシティで最も多くの影が密集する場所。その中央に、ひときわ異彩を放つ一体の影が立っていた。これまで出会ったどの影よりも濃く、深く、そして最も強烈な「存在への拒絶」の味を放っている。その姿は、フードを目深に被った、今の俺よりも少しだけ背の高い、痩せた男。

未来の俺だ。

理解してしまった。これは、終わりのない円環。俺は力を増し、より強い味を求め、人々を喰らい続け、そして最後に、成長しきった自分自身を『捕食』するのだ。ポケットの『肉片』が、まるで心臓のように激しく脈打っている。これが、この能力の完成。これが、俺の終着点。

俺はゆっくりと、未来の自分の影へと歩み寄る。もはや恐怖も、罪悪感もなかった。ただ、無限の渇きだけがそこにあった。最後の晩餐だ。俺は影の前に立ち、そっと舌を伸ばした。

舌先に触れた瞬間、宇宙が反転した。

これまで味わった全ての「拒絶」が一つになり、味覚という概念を超えた絶対的な虚無が、俺の存在そのものを内側から侵食し、溶かしていく。意識が薄れる中、ポケットの『肉片』が眩い光を放ち、熱と共に砕け散るのを感じた。

アークシティの時計広場に、また一つ、冷たい影が増えた。

だがその影だけは、他の無数の影とは違い、触れた者に、ほんの僅かな温もりを伝えるという。まるで、ポケットの中で大切に握りしめられていた、小さな心臓の温もりを、永遠に留めているかのように。

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