色彩の継承者、無色の守人
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色彩の継承者、無色の守人

第一章 色彩の熱と歪む街

カイの眼には、世界は絶えず色彩の奔流に満ちていた。喜びは蜂蜜を溶かしたような金色、悲しみは深海を思わせる藍色、そして怒りは鍛冶場の炉心で燃え盛る緋色。それらはただの色ではなかった。人々の魂から放たれる熱であり、冷気だった。金色の光はカイの肌を温め、藍色の冷気は骨の髄まで凍えさせた。彼はその特異な体質ゆえに、人混みを避けて生きてきた。感情の洪水は、彼にとって耐えがたい苦痛だったからだ。

その日、カイが立ち寄った広場は、奇妙な静けさに包まれていた。人々の感情の色が、まるで薄い灰色のフィルターを通したかのようにくすんでいる。そして、空気がぐにゃりと歪んだ。市場の商人が客に商品を偽って売った瞬間、その男の口から吐き出された「嘘」が、灰色の粘液のように空間をねじ曲げたのだ。人々はそれに気づかない。だがカイには、その歪みが世界の肌に刻まれた醜い傷跡のように見えた。

「まただ……『無色の嘘』が濃くなっている」

カイは懐から古びた砂時計を取り出した。虹色に輝くはずのそのガラス容器の中では、色のない、ただ透明な砂がさらさらと落ちていく。世界の「嘘」を検知し、その感情の色を宿すはずの「記憶の欠片」の砂が、ここでは何の色も帯びない。これが、世界を蝕む「無色の嘘」の正体不明の兆候だった。人々の心臓に宿る「記憶の宝石」を曇らせ、世界そのものを歪ませる疫病。

砂時計が示す微かな振動は、遥か北を指している。カイはフードを深く被り直し、広場を後にした。このままでは、世界からすべての色が失われてしまう。その予感が、彼の背中を冷たい手で押しやっていた。

第二章 曇り硝子の心

北へ向かう街道の脇で、カイは一人の少女が倒れているのを見つけた。年は十代半ばだろうか。彼女の周囲には、感情の色がほとんどなかった。ただ、心臓のあたりから、ひどく希薄な、曇り硝子のような灰色の光が弱々しく漏れ出ているだけだった。その冷気は、冬の夜風のようにカイの肌を刺した。

「大丈夫か」

声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。虚ろな瞳がカイを捉える。

「……あなたは、誰?」

「旅の者だ。君こそ、ここで何をしている」

「わからない……。私の名前は、リナ。それだけしか……」

彼女の記憶の宝石は、ひどく曇っていた。本来ならその人の生きた証として、内側から鮮やかな光を放つはずなのに。カイはためらいながらも、そっと彼女の手に触れた。その瞬間、奔流のように冷たい記憶の断片が流れ込んでくる。暖炉の前で笑う家族の姿。陽光の下で駆け回った花畑。しかし、それらの温かい光景は、たちまち無色の霧に覆われ、輪郭を失っていく。失われていく記憶の痛みと喪失感が、氷の針となってカイの心を突き刺した。

「うっ……!」

思わず手を離す。リナは驚いたようにカイを見つめていた。

「今、何か……温かいものを感じた」

カイは自分の手を見つめた。リナに触れたことで、彼の感情の「色」がわずかに彼女に伝わったのかもしれない。この少女を、このままにはしておけない。彼女を蝕む無色の霧は、カイが追っている「無色の嘘」と同じものだ。リナを助けることが、世界の歪みを正すことに繋がるはずだった。

「行こう、リナ。君の記憶を取り戻す方法を探しに」

カイの言葉に、リナの瞳にほんのわずかな光が宿った。それは、夜明け前の空のような、か細い希望の色をしていた。

第三章 砂時計の囁き

カイとリナは、「虹色の砂時計」が指し示す北の果て、「沈黙の尖塔」を目指していた。旅の道中、彼らはいくつもの町や村を通り過ぎたが、どこも「無色の嘘」に深く侵されていた。人々は互いに無感動な嘘をつき、そのたびに風景が微かに揺らぐ。店の主人は重さを誤魔化し、恋人たちは心にもない愛を囁く。そのたびに、砂時計の中を落ちる砂は、怒りの赤にも、偽りの黄色にも染まらず、ただ透明なままだった。

ある夜、宿屋でリナが震えながらカイに尋ねた。

「カイの眼には、何が見えるの?」

カイは暖炉の炎を見つめながら、静かに答えた。

「君の心は今、迷子の子供のように怯えている。それは薄紫色の霧のようだ。でも、その奥に、私を信じようとする小さな橙色の灯火が見える」

カイがそう言うと、リナの心から放たれる橙色の光が、少しだけ強く、暖かくなった。その熱がカイの心にも伝わり、ほんの少しだけ孤独を和らげてくれる。

リナはカイの能力を恐れなかった。むしろ、自分の感情に色が与えられることを、失った自分の一部を取り戻すかのように受け入れた。カイは、生まれて初めて自分の能力が誰かの救いになるのかもしれないと感じ始めていた。

砂時計の砂は、ほとんどが無色に変わり果てていた。残された虹色の砂は、ほんの一握り。世界の色彩が尽きようとしている。彼らは歩みを速めた。尖塔はもう、目前にそびえていた。

第四章 沈黙の尖塔

「沈黙の尖塔」は、その名の通り、あらゆる音と色を呑み込んだ異様な空間だった。風の音も、自分たちの足音さえも、まるで分厚い綿に吸い込まれるように消えていく。色彩のない灰色の石でできた螺旋階段を上り詰めると、最上階には円形の広間が広がっていた。

その中央に、一つの人影があった。玉座に腰かけた、性別も年齢も判別できない、輪郭の曖昧な存在。その全身からは、色という概念そのものが抜け落ちていた。カイが追い求めてきた「感情を全て失った存在」――世界の歪みの源が、そこにいた。

「よく来た、色彩の子よ」

その声は、音ではなく、直接精神に響き渡る思念だった。

「お前が『無色の嘘』の源か!」

カイが構えると、その存在――アペイロンと名乗った――は静かに首を振った。

『源ではない。私は、終着点だ』

アペイロンは語り始めた。自らが、この世界の秩序を保つために創られた「均衡者」であること。人々の心から生まれる憎しみ、悲しみ、嫉妬といった負の感情を、何千年もの間、たった一人で受け止め、浄化してきたこと。

『だが、器には限界があった。受け止めきれなくなった負の感情は、色を失い、純粋な『無』となって世界に漏れ出した。それが『無色の嘘』だ。それは悪意ではない。ただ、飽和した悲しみの奔流なのだ』

その言葉と同時に、カイの持つ虹色の砂時計の、最後の色砂が落ちきった。カシャン、と微かな音がして、砂時計は完全に無色となる。世界が軋む音が聞こえた。空が砕け、大地が裂ける。世界の崩壊が始まったのだ。

『この世界を救う道は一つ。誰かが、この役目を引き継ぐしかない』

アペイロンの視線が、カイに注がれた。

第五章 色の継承

絶望的な静寂が広間を支配した。世界の悲鳴が遠く聞こえる。リナは恐怖に震え、カイの服の袖を強く握りしめた。その指先から伝わる冷たい恐怖の色が、カイの決意を固めさせた。

「俺がやる」

カイは静かに告げた。リナが息を呑む。

「カイ……だめ!」

「リナ、君に色が戻るなら、それでいい」

カイはアペイロンに向かって歩みを進めた。彼はもう、自分の能力を呪ってはいなかった。他者の感情を受け止めてしまうこの体質こそが、この役目を果たすために与えられたものなのだと、今は理解できた。

彼はアペイロンの無色の手に、自らの手を重ねた。

その瞬間、世界の全ての負の感情が、濁流となってカイの「記憶の宝石」へと流れ込んできた。何億、何兆という人々の絶望、憎悪、悲嘆。それは、灼熱の溶岩であり、絶対零度の氷塊だった。

「ぐっ……ああああああッ!」

カイの体から、凄まじい色彩の嵐が吹き荒れた。緋色、藍色、漆黒、ありとあらゆる負の色が渦を巻き、やがて彼の内で一つの無色へと収束していく。視界から色が消えていく。燃えるような暖炉の赤が、リナの服の青が、そして自分の手から放たれる黄金の光が、次々と色を失い、モノクロームの世界へと変わっていく。

最後にカイの眼に映ったのは、涙を流すリナの心から溢れ出す、淡い桜色の光だった。それは感謝と、悲しみと、そして愛情が混じり合った、カイが今まで見た中で最も美しい色だった。

ありがとう、と彼は心の中で呟いた。

その桜色を最後に、カイの世界から全ての色が消え去った。

世界の歪みが、ぴたりと止んだ。アペイロンは塵となって消え、カイの体は半透明に揺らぎ始める。彼は振り返ることなく、世界に溶けるようにその姿を消した。

第六章 残響のクロマ

数年の時が流れた。

世界から「嘘」による歪みは消え去り、人々は穏やかな日々を取り戻していた。心臓の「記憶の宝石」はかつての輝きを取り戻し、誰もが素直な感情を交わし合うようになっていた。

リナは、北の岬に咲く花畑の中で空を見上げていた。彼女は全ての記憶を取り戻したが、自分を救ってくれた青年のことだけが、どうしても思い出せなかった。顔も、声も、名前さえも、まるで初めから存在しなかったかのように記憶から抜け落ちている。

けれど、不思議な感覚だけが残っていた。

悲しいことがあって涙がこぼれそうな夜、空を見上げると、そこには凍えるような深い藍色が広がり、心を静めてくれる。嬉しいことがあって心が躍る朝、頬を撫でる風が、蜂蜜のような温かい金色を帯びているように感じる。誰かを愛おしいと思う時、胸の奥に淡い桜色の光が灯るのを知っている。

彼女だけではない。彼がかつて触れ、感情を共有した全ての人々の心に、そして世界そのものに、彼の「色」の残響が永遠に刻み込まれていた。

誰もその名を知らない、無色の守人。

かつてカイと呼ばれた存在は、今も世界の片隅で、人々が紡ぎ出す無数の感情の色を静かに見守っている。彼が失った色彩で、世界は今日も豊かに輝いていた。

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