月蝕のクロニクルと虚ろな香り
第一章 腐臭の満月
俺には、他人の『生きた時間』が匂い立つ。それは魂の残り香とでも言うべきもので、個々人が刻んできた時間の長さ、残された生命の予測、そして経験の重みを凝縮した芳香だった。街角ですれ違う赤子は瑞々しいミルクと蜜の甘さを放ち、盛りを過ぎた老婆の背からは、やがて還るべき土と、避けられぬ腐敗の匂いが微かに漂う。
今宵は満月。一年で最も重力が強まる大潮の夜だ。石畳に縫い付けられるような圧力が全身を苛み、人々は背を丸めて家路を急ぐ。俺、カイは、酒場の軒下で分厚い外套の襟を立て、重力に押し潰されそうな街の空気を吸い込んだ。様々な人生の香りが、下方へ、下方へと澱のように溜まっていく。喧騒、アルコール、そして無数の残り香が混じり合ったむせ返るような匂いの中、ひときわ強い土の香りを放つ老婆が、杖を頼りに俺の前を通り過ぎた。彼女の香りは、ほとんど枯れ葉だった。あと幾度、この満月を越せるだろうか。
その時だった。天頂で白銀に輝いていた月が、ありえない速度で翳り始めたのだ。まるで巨大な何者かが、その光をひと飲みにしたかのように。
「おい、月が……!」
誰かの叫び声と同時に、足元の重力がぐにゃりと歪んだ。人々が地面に倒れ伏し、屋根瓦が悲鳴を上げて滑り落ちる。俺は咄嗟に柱にしがみついた。視界の端で、先ほどの老婆がくずおれるのが見えた。そして――ふっ、と。彼女の香りだけが、綺麗に消え失せた。老いも、病も、死の予感も、彼女が生きてきた証そのものが、この世界から忽然と拭い去られた。まるで、初めから存在しなかったかのように。
第二章 横凪ぎの街と虚空の羅針盤
あれ以来、世界の月は狂った。満ち欠けの周期は乱れ、重力は気まぐれな暴君と化した。昨日は真昼に新月が訪れ、人々は家財道具が空に吸い上げられぬよう必死に押さえつけ、今日は上弦の月でもないのに、街全体に真横からの重力が吹き荒れている。人々は建物の壁面に張り付き、窓から窓へと命綱を渡して移動していた。まるで巨大な蟻の巣だ。
「香りごと人が消える」現象は、各地で頻発していた。消えた者は、人々の記憶からも曖昧に掠れていく。俺は、祖父の遺品である古びた木箱を開けた。中には、黒曜石の盤面に白銀の針を持つ羅針盤が一つ。通常の磁石とは異なり、その針は常に虚空、すなわち『無』を指し示している。『虚空の羅針盤』。言い伝えでは、世界の綻びを指し示すという。
「あなた、その羅針盤……」
壁伝いに隣家へ向かう途中、快活な声に呼び止められた。空色の瞳を持つ少女、ルナ。彼女は、月の軌道を読み解く『星読み』の一族の末裔だという。
「私の弟も消えたの。あの子も、同じ羅針盤を持っていたわ」
彼女の声には、悲しみを押し殺した強い意志が滲んでいた。俺が能力について話すと、ルナの瞳がわずかに見開かれる。
「香りが消える……。月の軌道が乱れ始めた日と、弟が消えた日は同じ。何か関係があるはず」
俺は頷いた。羅針盤の針は、依然として虚無を指したままだ。だが、俺たちの目的は、初めて一つになった。
第三章 浮遊する廃墟
ルナの古文書の解読と、俺が嗅ぎ取った『失われた香り』の残滓が濃い方角を頼りに、俺たちは旅を続けた。そして数週間後、『虚空の羅針盤』の針が初めて微かな振動を始めた。針が指し示す先は、天。かつて新月の日に街ごと空に浮かび上がり、二度と戻らなかったという『浮遊廃墟』だった。
折しも、世界は異常な浮力に包まれていた。俺たちは巨大な凧に乗り込み、風を捉えて上空の廃墟を目指した。雲を抜けると、逆さまの街が静かにそこに浮かんでいた。崩れた尖塔、宙吊りの広場。重力から解き放たれた瓦礫が、亡霊のように俺たちの周りを漂っている。
廃墟に降り立つと、鼻腔を突く匂いに息を呑んだ。ここは、失われた者たちの香りの墓場だ。途中で断ち切られた無数の人生、語られるはずだった物語、そのすべてが澱となって、この無重力の空間に漂っていた。それは悲しみとも怒りともつかぬ、ただひたすらに不自然な静寂の香りだった。
「ここだわ……」
ルナが囁く。彼女の持つ羅針盤と、俺の羅針盤が、共鳴するように甲高い音を立て始めた。二つの針は、廃墟の中心、何もない虚空の一点を、狂ったように指し示していた。
第四章 掠れる記憶、滲むインク
旅を続ける中で、奇妙な違和感が募っていった。俺とルナの記憶が、時折、微妙に食い違うのだ。
「覚えてる?あの村で食べた、三日月型のパン」
俺がそう言うと、ルナは不思議そうな顔で首を傾げた。
「三日月?いいえ、あのパンは満月みたいに丸かったわ。とても美味しかったけど」
些細な齟齬。だが、それはまるで、誰かが後から物語の設定を修正したかのような、薄気味悪い感覚を伴っていた。
ある夜、俺は夢を見た。無限に広がる純白の空間。そこに、天を突くほど巨大なペン先が降りてきて、空という名の原稿用紙に、俺たちの世界の風景を描き出していく。山を描き、川を引き、街を配置する。そして、小さな点として人々を書き込んでいく。俺はその光景を、ただ呆然と眺めていた。やがて、ペン先が何かを躊躇うように止まり、そして一つの点を、黒く塗り潰した。その瞬間、俺は嗅いだ。インクの、あの独特な化学薬品の匂いを。
はっとして飛び起きる。テントの外は静かな夜だ。だが、俺の鼻腔の奥には、夢で嗅いだはずのインクの匂いが、現実の夜風に混じって生々しくこびりついていた。
第五章 物語の終着点
羅針盤が導く最終地点は、『世界の裂け目』と呼ばれる場所だった。そこでは重力が完全に消失し、空間そのものが巨大な一枚のガラスのように、無数にひび割れていた。空も大地も、割れた鏡のように様々な角度で風景を映し出し、平衡感覚を奪っていく。
そして、俺たちは見てしまった。最大の裂け目の向こう側。それは、巨大な書斎だった。天井まで届く本棚、暖炉の柔らかな光、そして、見たこともない姿をした『存在』が、安楽椅子に腰掛けて一冊の古びた本を読んでいる。
その『存在』が本のページをめくる。
刹那、俺たちの世界の月が瞬時に満ち、足元に凄まじい重力が襲いかかった。
ページが戻される。
すると、横殴りの風と共に重力が横向きに変わる。
俺たちは、理解してしまった。この世界は、一冊の本。俺たちは、その中の登場人物に過ぎない。月の軌道も、気まぐれな重力も、すべては『物語』の都合で書き換えられる物理法則のバグだったのだ。『残り香の消失』とは、役割を終えた登場人物が、物語から『削除』されていく現象に他ならなかった。
絶望的な真実を前に、俺は自分自身の香りを嗅いだ。それは、他の誰よりも複雑で、濃密な香りを放っていた。喜びと悲しみ、出会いと別れ、そしてこれから待ち受けるであろう宿命の匂い。――ああ、これが、この物語の『主人公』に与えられた香りなのか。
第六章 主人公の選択
裂け目の向こうで、『存在』――創造主であり、読者でもある何者か――が、本の最終ページに指をかけているのが見えた。世界の終わりが近い。俺の鼻が、『終幕の香り』を捉えていた。それは、古い紙と乾いたインクが混じり合い、すべてが完結する、寂寥感に満ちた美しい香りだった。
「嘘よ……。じゃあ、弟の死も、私たちの旅も、全部ただの作り話だったっていうの?」
ルナが膝から崩れ落ちる。彼女の瞳から、涙と共に生命の香りが零れ落ちた。
俺は彼女の肩を抱いた。
「いいや、違う」
声が震える。だが、俺は続けた。
「感じた痛みは本物だ。お前を大切に思うこの気持ちも、本物だ。たとえ誰かに作られた命でも、俺たちの魂は、俺たちのものだ」
創造主が、最後のページをめくろうとしている。俺たちに与えられた選択肢は二つ。この美しい悲劇の結末を受け入れ、物語の登場人物として静かに消え去るか。あるいは、インクで描かれた運命に抗い、自らの意志で、まだ誰も知らない新たなページを書き始めるか。
第七章 インクの匂いがしない朝
俺は『虚空の羅針盤』を強く握りしめた。これは『無』を指す道具ではない。きっと、『まだ描かれていない未来』を指し示すためのものだったのだ。
俺は裂け目の向こうの創造主を、この物語の読者を、真っ直ぐに見据えた。そして、静かに、しかし魂のすべてを込めて宣言した。
「俺たちの物語は、まだ終わらない」
羅針盤を天に掲げる。その瞬間、白銀の針は創造主のいる次元とは全く異なる、未知の方向を力強く指し示した。
世界が、真っ白な光に呑まれる。
次に目を開けた時、そこは穏やかな朝だった。柔らかな重力が心地よく身体を包み、窓の外では鳥がさえずっている。空には、ただ一つの穏やかな月が淡く浮かんでいた。
鼻をくすぐるのは、夜露に濡れた土の匂い、風が運ぶ花の香り、そして隣ですやすやと眠るルナの、暖かな生命の息遣い。
もう、誰かの『生きた時間』の残り香を嗅ぎ取ることはできなかった。俺の鼻は、ただこの世界のありのままの匂いを、深く、深く吸い込むだけだ。
インクの匂いは、もうどこにもしなかった。
俺たちは物語から解き放たれたのか、それとも、自らの手で新たな物語の第一ページを開いたのか。答えはない。だが、確かなことが一つだけあった。俺たちの時間は、紛れもなく俺たち自身のものとして、今、始まったのだ。