忘却の地図製作者
【タイトル】: 忘却の地図製作者
第一章 迷い子の羅針盤
「北へ向かっていたはずなのに、なぜ太陽が背中にあるんだ」
アレスは乾いた唇を舐め、足元の砂利を見つめた。巨大な岩壁に挟まれた獣道。地図には載っていない、鳥さえ通らぬ細道だ。
本来なら峡谷への最短ルートを進んでいるはずだった。だが、致命的な方向感覚の欠如が、またしても彼を見知らぬ荒野へと連れ去っていた。
焦燥が喉を焼く。しかし、アレスの瞳が地面を捉えた瞬間、世界が一変した。
風化した石灰岩の断層、そこにへばりつく苔の乾き具合、そして足元に転がる親指大の小石が作る不規則な三角形。
既視感ではない。確信だ。
七年前、師匠の背中を追って歩いた時の光景と、今の網膜に映る像が寸分違わず重なる。あの時、師匠はこの小石を避けて右足を踏み出した。風が運んだ砂の量さえ、アレスの脳内では鮮明な映像として保存されている。
彼は忘れることができない。
一度見た風景は、色彩の彩度から光の入射角に至るまで、永遠に錆びない鏡のように精神の奥底へ焼き付いてしまう。
「……ここは、迷い道じゃない」
アレスは震える手で、腰に下げた壊れた羅針盤を握りしめた。
この道は、あの日師匠が「少し寄り道をする」と言って一人で分け入り、そして二度と戻ってこなかった禁足地への入り口だ。
誰も選ばない、間違ったルートを選んだからこそ、辿り着いてしまった。
羅針盤の針は狂ったように回転し、やがてピタリと止まる。方角ではない。アレスが向かうべき「喪失」の場所を指して。
「待っていてくれ、師匠。あんたが何を見たのか、僕が確かめに行く」
第二章 真実の回廊
重力が死にかけていた。
峡谷の奥底、かつて「真実の回廊」と呼ばれた遺跡では、千切れた岩塊が浮遊し、滝が天へと逆流している。
その中心で、羅針盤が熱を帯びて弾けた。宙に舞った光の粒子が結像し、揺らぐ人影を形作る。
『……アレス、か?』
掠れた声。師匠のゲイルだった。だが、その姿はひどく透けており、今にも風に溶けそうだった。
「師匠! なぜ戻らなかったんです。あんたがいなくなってから、工房は……」
『すまない。だが、私は戻れなかった。見てくれ、この惨状を』
師匠が指さした先、空間そのものがガラスのようにひび割れ、その向こうにどす黒い虚無が渦巻いている。
『世界は綻びている。だが、それを直すための言葉を、私は持て余した。私の魂では、この真実の重みに耐えきれず、器が割れてしまうからだ』
説明など不要だった。アレスの「鏡」が、師匠の瞳に宿る絶望と、その奥にある狂おしいほどの希望を反射したからだ。
師匠は逃げたのではない。自らの存在が砕け散る寸前まで、この裂け目を塞ごうとしていたのだ。
『お前のその眼なら、世界を在りのままに写し取れる。アレス、お前はただの記録者ではない。世界そのものを内包する、清廉な鏡だ』
師匠の像が揺らぎ、光の泡沫となってアレスの胸に吸い込まれる。
瞬間、奔流が駆け巡った。
太古の風の匂い、海が割れる轟音、星が瞬き始めた夜の静寂。失われたはずの「原初の記憶」が、パズルのピースのようにアレスの脳内で組み上がり、一枚の巨大な地図を描き出していく。
理解した。自分がなぜ、道に迷い、景色を焼き付けてきたのかを。
この瞬間のために、彼は世界を収集し続けてきたのだ。
第三章 世界を書き換える代価
裂け目が広がる。虚無が世界を飲み込もうと顎門(あぎと)を開いていた。
塞ぐ方法はただ一つ。アレスの中に完成した「真実の地図」を、言の葉に乗せて世界へ還元すること。
「……聞いてくれ。これが、この星の本来の姿だ」
最初の一語を紡いだ瞬間、右手の小指が透き通った。
感覚が消える。肉体が世界の一部へと溶け出していく。
恐怖に心臓が早鐘を打つ。死ぬのではない。「消える」のだ。
アレスという人間がこの世に存在した事実、その痕跡、交わした言葉、温もり。それら全てが歴史の修正力によって漂白されていく。
(嫌だ、忘れてほしくない)
脳裏に浮かんだのは、工房の頑固な親父の顔、馴染みのパン屋の少女、そして先ほど消えた師匠の笑顔。
僕が消えれば、彼らの記憶からも僕は消滅する。最初からいなかった者として。
「怖いな……」
声が震える。足先から感覚が失われていく。
だが、アレスは一歩も引かなかった。彼が口を閉ざせば、愛すべき日常ごと世界は崩落する。
方向音痴の彼が、人生で初めて、誰よりも正確に「進むべき道」を見据えていた。
「空はもっと高く、海は深く。風は凪ぎ、大地は呼吸を繰り返す」
言葉は祈りとなり、光となって裂け目を縫い合わせていく。
逆流していた水が大地へ戻り、浮遊する岩が草原へと着地する。
指先が、腕が、胴体が、朝靄のように透けていく。
最後に残った視界には、歪みのない、涙が出るほど美しい水平線が広がっていた。
アレスは笑おうとした。けれど、頬の感覚はもう、どこにもなかった。
最終章 誰のものでもない地図
世界は何事もなかったかのように時を刻んでいる。
季節は巡り、街は活気に満ちていた。かつて空に亀裂が走っていたことなど、誰も覚えていない。平和とは、忘却の上に成り立つ穏やかな日々だ。
路地裏にある古びた地図工房。
窓から差し込む午後の陽射しの中、見習いの少年が書架の整理をしていた。
埃を被った一番奥の棚。そこから転がり落ちた一枚の羊皮紙を拾い上げ、少年は息を呑んだ。
「……すごい」
それは、今の測量技術では到底描けないほど精緻で、美しい世界地図だった。
山脈の起伏、川の蛇行、風の通り道までもが、まるで世界そのものを高い空から写し取ったかのように鮮やかに描かれている。
インクの匂いではなく、草木の香りさえ漂ってきそうな傑作。
「親方、この地図、誰が描いたんですか?」
奥から出てきた老いた親方が、眉をひそめて地図を覗き込む。
「ん? おかしいな。ウチの在庫に、そんな上等な品があったか……」
親方は記憶の糸を手繰り寄せるように目を細めたが、やがて首を横に振った。
「知らねぇな。だが、いい仕事だ。まるで世界へのラブレターじゃねぇか」
少年は地図の右下、署名欄に目を凝らした。
そこには、インクが滲んだような跡があるだけで、名前はどこにも記されていない。
名前がないことなど、どうでもよかった。
ただ、その地図からは、名もなき製作者の「この世界を愛している」という静かで熱烈な意志だけが、鼓動のように伝わってくる。
少年はなぜか、理由もなく溢れそうになる涙を袖でぬぐい、その地図を一番目立つ壁に飾った。
誰が描いたかは分からない。けれど、この道標は確かにここにある。
それは迷える誰かを、いつか正しい場所へと導くための、優しき羅針盤だった。