第一章 沈黙の継承と禁じられた旋律
俺、リノの一族は、代々「沈黙」を運ぶことを生業としてきた。
それは、ありふれた静けさではない。世界が生まれる前の、あらゆる音が存在しなかった頃の「原初の沈黙」。一族に伝わる特殊な硝子器の中に、真空よりもなお純粋な無音が封じ込められている。それを、世界の果てにあるという「大いなる耳」に届けること。それが、俺に課せられた、生まれる前から決まっていた使命だった。
父の手は、俺の肩に置かれた時、まるで石のように重かった。書斎の窓から差し込む夕陽が、父の深い皺を黄金色に染めている。目の前の黒檀の台座には、あの硝子器が鎮座していた。りんごほどの大きさの、継ぎ目のない完璧な球体。その内部は、光さえも吸い込むような深淵な闇に見えた。あれが「沈黙」だ。
「リノよ。今日、お前は運び手となる」
父の声は、乾いた砂が風に舞うように掠れていた。長年の旅で、父は自身の声さえも、運ぶべき沈黙を汚す雑音のように扱ってきたのだ。
「我らの使命は、この世界を『音』の氾濫から守ること。やかましい感情、意味のないおしゃべり、不協和音を奏でる文明……それらすべてを浄化するために、我らは沈黙を届ける。大いなる耳は、この沈黙を受け入れることで、世界の過剰な音を喰らい、調和を取り戻すのだ」
父の言葉は、幼い頃から聞かされてきた教えそのものだった。俺は息を殺し、厳粛に頷く。足音を立てぬよう、衣擦れの音さえ最小限にするよう、物心ついた時から訓練されてきた。音は敵だ。静寂こそが至高。それが俺の世界のすべてだった。
儀式は滞りなく進み、俺はついに硝子器を手に取った。ひんやりとした感触が、皮膚を通して心臓まで凍らせるようだ。これを、音に触れさせず、決して割ることなく、大いなる耳まで運ぶ。想像を絶する困難な旅が、明日から始まる。
その夜、俺は眠れなかった。使命の重圧が、分厚い毛布のように身体にのしかかる。そっと寝台を抜け出し、塔の小窓から外を眺めた。月明かりが、眼下に広がる渓谷を銀色に照らしている。風が吹き抜け、木々の葉が擦れ合う音がする。あれもまた、浄化すべき雑音なのだ。
その時だった。
どこからか、微かな音が風に乗って運ばれてきた。それは、鳥の声でも、獣の咆哮でもない。澄んでいて、どこか規則的で、そして……心を震わせるような、甘い響きだった。
なんだ、これは。
俺は生まれて初めて聴くその音の奔流に、身動きが取れなくなった。それは、高く、低く、時に優しく、時に激しく、まるで生き物のようにうねりながら、俺の鼓膜を撫でた。禁忌を犯していると頭では分かっているのに、身体は歓喜に打ち震えていた。
後で知ったことだが、それは谷の向こうの村祭りで、旅の吟遊詩人が奏でるリュートの旋律だった。
俺は、自分が守るべき沈黙とは正反対の、「音楽」という存在の美しさに、心を奪われてしまったのだ。胸に抱いた硝子器の冷たさが、まるで俺の裏切りを責めているように感じられた。
第二章 音を憎む旅路
旅は、自己との闘争だった。
俺は五感を極限まで研ぎ澄まし、あらゆる音から「沈黙」を守った。足には柔らかな鹿革を何重にも巻き、地面の小石一つ踏む音さえ立てない。呼吸は浅く、長く。心臓の鼓動すら、硝子器に響くことを恐れた。世界は、敵意に満ちた音の罠で溢れていた。
けたたましく鳴く鳥の群れを避け、岩清水が岩肌を叩く音から逃れるために崖を迂回する。遠くで聞こえる雷鳴に怯え、洞窟で何日も息を潜めたこともあった。父の教え通り、俺は音を憎んだ。世界を汚す不純物として、心から軽蔑しようと努めた。
しかし、あの夜に聴いた旋律が、幻聴のように耳の奥で鳴り響いて離れない。風が岩の隙間を抜ける音が、時折、リュートの調べに似た響きを帯びることがあった。そのたびに俺の心は揺らぎ、慌ててその思考を打ち消す。俺は運び手だ。音に魅入られるなど、あってはならない。
旅を始めて三月が過ぎた頃、俺は一人の少女と出会った。
砂漠を越え、渇ききった喉を潤すために立ち寄った小さなオアシス。そこで彼女は、古びたリュートを抱え、水を飲みに来た隊商たちのために歌っていた。あの夜の音だ。いや、それ以上に力強く、生命力に満ちた旋律だった。
俺は咄嗟に身を隠し、耳を塞いだ。だが、指の隙間から滑り込んでくる歌声は、まるで水のように乾いた心に染み渡っていく。
「旅の人、あなたも一曲どう?」
気づくと、少女がすぐそばに立っていた。太陽の光を吸い込んだような、小麦色の肌。好奇心に輝く大きな瞳が、俺をまっすぐに見つめている。名はメロ、と名乗った。
俺は言葉を発さず、ただ首を横に振る。声を出せば、それもまた音になる。
「あら、お気に召さなかった? それとも、急いでるの?」
メロは屈託なく笑う。彼女の存在そのものが、音で出来ているようだった。笑い声、歩く音、リュートを爪弾く音。俺が最も遠ざけなければならない存在だ。
俺は無言で立ち去ろうとした。だが、メロは俺が胸に抱える硝子器に気づき、目を丸くした。
「それ、なあに? とっても綺麗。中に何が入ってるの? 夜空を閉じ込めたみたい」
俺は後ずさり、硝子器をきつく抱きしめた。この娘にだけは、沈黙の神聖さを汚されてはならない。俺の敵意が伝わったのか、メロは少し寂しそうな顔をしたが、それ以上は追ってこなかった。
その日を境に、奇妙な追跡が始まった。俺がどこへ行こうと、数日の距離を置いてメロがついてくるのだ。彼女は俺に近づきすぎず、ただ俺の進む先々でリュートを奏でた。まるで、音の素晴らしさを俺に教え諭すかのように。その行為は、俺にとって拷問に等しかった。彼女の奏でる音は、美しければ美しいほど、俺の使命と信念を根底から揺さぶる。憎むべきだ。憎まなければならない。俺は自分にそう言い聞かせながら、歩き続けた。
第三章 大いなる耳の真実
雪を冠した峻嶺を越え、底なしの霧が立ち込める沼地を渡り、俺はついに旅の終着点、「大いなる耳」と呼ばれる場所にたどり着いた。
そこは、巨大な山脈にぽっかりと口を開けた、途方もなく広大な洞窟だった。風の音さえも吸い込まれて消えてしまうような、不気味なほどの静寂が支配している。ここが、世界の音を喰らう場所。俺の一族が、何世代にもわたって目指してきた聖地。
俺は洞窟の中心まで進み、ゆっくりと黒檀の台座に硝子器を置いた。長かった旅が終わる。父の、そして祖先たちの期待に応える時が来たのだ。俺は深く息を吸い込み、硝子器を覆っていた鹿革の袋を解いた。そして、固唾を飲んで、その球体を持ち上げ、祭壇と思しき平らな岩に叩きつけた。
パリン、という乾いた破壊音。それは、俺がこの旅で唯一、自ら立てることを許された音だった。
硝子器が砕け散り、「原初の沈黙」が解放される。
瞬間、洞窟内の微かな空気の振動さえもが、完全に停止した。完全なる無。俺は勝利を確信した。これで世界は浄化され、調和を取り戻すのだ。
だが、待てど暮らせど、何も起こらなかった。世界が静かになる気配もなければ、何かが変わった様子もない。ただ、この洞窟が、より一層静かになっただけだ。
どういうことだ? これが、一族の悲願の結末なのか? 虚しさが、嵐のように胸の中で吹き荒れた。
「やっぱり、ここだったのね」
その声に、俺は心臓が止まるほど驚いた。振り返ると、入り口の光を背に、メロが立っていた。彼女の足音は、この完全な静寂の中では雷鳴のように大きく響いた。
「なぜ、ここに……」
俺は掠れた声で尋ねた。
「あなたの運ぶものが、気になったから。私のひいお婆ちゃんも、吟遊詩人だったの。彼女が遺した古い詩に、こんな一節があった。『世界の耳が渇く時、沈黙の運び手現れん。その無音は、新たな響きの器となる』って」
メロはゆっくりと俺に近づき、砕け散った硝子の破片を見つめた。
「あなたの役目は、世界から音を消すことじゃない。逆よ」
彼女の言葉の意味が、俺には理解できなかった。
「世界は、音で溢れすぎた。たくさんの歌、たくさんの言葉、たくさんの命の音が重なり合って、互いの響きを打ち消し、ただの騒音になってしまった。美しい音楽を奏でるためには、何が必要か知ってる?」
メロは俺の目を見て、優しく微笑んだ。
「『休符』よ。音と音の間にある、沈黙。沈黙があるから、次の音が際立つの。あなたの運んできた『原初の沈黙』は、世界から音を奪う毒じゃない。新しい音楽を生み出すための、まっさらな五線譜なのよ」
衝撃だった。父の教え、一族の使命、俺が信じてきたすべてが、音を立てて崩れ去っていく。音を憎むのではなく、誰よりも音を愛するがゆえの旅だったというのか。不協和音に満ちた世界に、新しい調和の『始まりの音』を響かせるための、壮大な前奏曲。それが、俺たちの使命の真実だったのだ。俺は、運び手でありながら、運ぶものの本当の意味を、何一つ理解していなかった。
第四章 世界が初めて聴く音
俺は、呆然と立ち尽くしていた。足元には、役目を終えた硝子の破片が、静かに横たわっている。あれほど重く、俺を縛り付けていた使命の象徴が、今はただのガラス屑にしか見えない。
メロは、俺の隣にそっと座ると、背負っていたリュートを静かに構えた。
「聴いてくれる?」
彼女は尋ねた。俺は、言葉なく頷いた。
この、世界で最も静かな場所で。俺が命を懸けて届けた沈黙の中で。
メロの指が、弦を弾く。
ポロン――。
たった一つの音が、生まれた。
それは、これまで俺が聴いてきたどんな音とも違っていた。洞窟の隅々まで、まるで水面に広がる波紋のように、どこまでも透明に、清らかに響き渡る。他のどんな音にも邪魔されない、純粋な音そのものの響き。それは、世界の産声のようでもあり、長い眠りから覚めた誰かの、最初の寝息のようでもあった。
涙が、頬を伝った。
俺は、音を憎んでいたのではない。溢れかえった不協和音の中で、本当に美しい音を聴き取ることができずに、ただ怯えていただけなのだ。旅の途中で聴こえてきた鳥の声も、川のせせらぎも、そしてメロの歌声も、すべてが美しい音だった。それを雑音だと切り捨てていたのは、他ならぬ俺自身だった。
メロは、一音、また一音と、ゆっくりと旋律を紡いでいく。それは悲しみの歌のようでもあり、