記憶喰らいのソラリス

記憶喰らいのソラリス

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第一章 虚ろなる街とオルゴールの歌

アスファルトの代わりに、ひび割れた石畳が続く街だった。煤けた煉瓦造りの家々が、まるで疲れ果てた巨人のように寄りかかり合っている。リオンがこの街、”忘却の谷”の入り口にたどり着いて三日が経つ。彼の旅の目的は、ただ一つ。失われた記憶を取り戻すこと。そのために、世界のどこかにあるという「記憶の泉」を目指していた。

この街の空気は、澱んでいた。人々はいる。しかし、彼らは生きていなかった。虚ろな瞳で宙を見つめ、意味のない言葉を繰り返し呟きながら、目的もなく彷徨っている。彼らは「虚ろ人(うつろびと)」と呼ばれていた。魔法の使いすぎで、自らの記憶を根こそぎ喰われてしまった者たちの成れの果てだ。

この世界において、魔法は奇跡ではない。それは等価交換の法則に基づいた、あまりにも残酷な取引だった。火を灯すような些細な魔法なら、昨夜の食事の味を忘れる程度で済む。だが、死者を蘇らせるような大魔法は、術者の存在そのものを形作る、最も大切な記憶を対価として要求する。

リオンの外套の内ポケットには、妹の形見である小さなオルゴールが一つ。それが、彼に残された唯一の繋がりだった。彼は妹を救うために魔法を使った。その結果、妹の名前も、顔も、共に過ごした日々の温もりさえも、すべて失ってしまった。胸にぽっかりと穴が空いたような、この途方もない喪失感だけが、彼が何かを失ったことの証明だった。

「兄さん……」

不意に、か細い声がリオンの耳を打った。振り返ると、虚ろ人の少女が彼の手を掴んでいた。その瞳には、一瞬だけ理性の光が宿ったように見えた。だが、それもすぐに霧散し、少女は再び意味のない音節を口にするだけになった。リオンは、少女の手をそっと解き、その場を離れた。明日の自分を見ているようで、背筋が凍る思いがした。

その夜、安宿の硬いベッドの上で、リオンはいつものようにオルゴールを手に取った。白銀の金属に繊細な花の彫刻が施されているが、錆びつき、音を奏でる心臓部はとうの昔に壊れている。それでも、彼は毎晩こうして、冷たい金属の感触を確かめずにはいられなかった。

その時だった。

何の変哲もないはずのオルゴールが、不意に淡い、月の光のような燐光を放ち始めたのだ。驚いて手から落としそうになるのを堪え、リオンは息を詰めてそれを見つめた。光は明滅を繰り返し、やがて、壊れているはずの内部から、か細く、しかし澄み切った旋律が流れ出した。それは聴いたことのない、哀しくも懐かしい調べ。まるで、忘却の彼方から彼を呼ぶ、妹の歌声のようだった。リオンは、その光が指し示す先、街のさらに奥深く、聳え立つ灰色の山脈へと視線を向けた。心臓が、忘れていた鼓動を取り戻したかのように、激しく鳴り響いていた。

第二章 守り人の警告

オルゴールの歌に導かれるように、リオンは”忘却の谷”の最奥にある、苔むした洞窟へと足を踏み入れた。洞窟の内部は、壁面に埋め込まれた発光する鉱石によって、青白い光に満たされていた。その中央、静かな泉のほとりに、一人の老婆が座っていた。深く刻まれた皺は、まるで悠久の時をその身に宿した古地図のようだった。

「ようやく来たかい、記憶を失った旅人よ」

老婆は振り向くことなく言った。その声は、乾いた葉が擦れ合うような音をしていた。彼女はエリスと名乗り、自らを「記憶の泉」の守り人だと語った。リオンが手にしていたオルゴールは、泉の魔力に共鳴する稀有な品なのだという。

「泉は、失われた記憶を取り戻す場所ではない」エリスは、静かに水面を見つめながら続けた。「ここは、世界から忘れ去られた記憶が流れ着く、終着点。個人の記憶を都合よく引き出すための井戸ではないのだよ」

彼女の言葉は、リオンの希望に冷や水を浴びせた。彼は食い下がるように、妹を救うために魔法を使い、記憶を失ったことを語った。不治の病に侵された最愛の妹。彼女の冷たくなっていく手を握りしめ、禁忌とされた蘇生の魔法に手を伸ばした、あの絶望の日。断片的に蘇る記憶のイメージが、彼の心を締め付けた。

「どうしても、思い出したいんです。あの子の笑顔を、声を、名前を……。それを失くしたまま生きていくのは、死んでいるのと同じだ」

リオンの悲痛な訴えを聞き、エリスは初めて彼の方へと顔を向けた。その瞳は、憐憫と、そして何かを見透かすような深淵の色をしていた。

「若者よ、忘却は必ずしも不幸ではない。時には、記憶こそが人を苛む最も残酷な呪いとなる。お前が失った記憶は、本当に取り戻すべきものなのかね? その記憶の重みに、お前の魂が耐えられるのかね?」

エリスの警告は、不吉な予言のように響いた。だが、リオンの決意は揺るがなかった。妹のいない、空っぽの世界で生き続けることの方が、彼にとっては耐え難い苦痛だった。たとえどんな真実が待っていようとも、彼は進むしかない。

「覚悟は、できています」

彼の揺るぎない瞳を見て、エリスは深いため息をついた。「よかろう。ならば、泉に手を浸すがいい。だが覚えておけ。一度流れ込んだ記憶は、二度と手放すことはできぬ。お前は、その真実と共に永遠を生きることになる」

エリスは道を譲った。リオンはごくりと唾を飲み込み、一歩、また一歩と泉に近づいていく。水面は鏡のように静まり返り、彼の不安げな顔を映し出していた。震える指先を、そっとその冷たい水の中へと差し入れた。

第三章 記憶の泉、忘却の真実

指先が水面に触れた瞬間、世界が反転した。

奔流。あらゆる感覚を呑み込む、記憶の洪水。リオンの脳裏に、失われていたはずの光景が、凄まじい勢いで流れ込んできた。

妹の笑顔。違う。それは笑顔ではなかった。虚ろで、何も映さない瞳。

妹の声。違う。それは言葉ではなく、あらゆる音を喰らう、不気味な静寂。

妹の名前は――リリス。

温かい思い出が蘇るという期待は、無残に裏切られた。流れ込んでくるのは、恐怖と絶望に彩られた、おぞましい記憶の断片だった。

リリスは、病気ではなかった。彼女自身が、病そのものだった。

彼女は、生まれながらにして「ソラリス」――世界を蝕む「忘却の災厄」をその身に宿していた。彼女の周囲にあるものは、人々の記憶も、物体の存在記録も、世界の歴史さえも、すべてがゆっくりと喰われ、無に帰していく。彼女がただそこにいるだけで、世界は綻び、消滅へと向かっていくのだ。

リオンの一族は、代々この「ソラリス」を監視し、封印する役目を担ってきた「守り人」の家系だった。そして、リオンが最も愛した妹リリスは、数百年ぶりに現れた最悪のソラリスだった。

絶望的な真実が、彼の精神を粉々に砕いていく。

彼が使った魔法は、蘇生の魔法などではなかった。それは、一族に伝わる禁忌中の禁忌。術者の最も大切な人間関係の記憶――この場合は妹リリスに関する全ての記憶――を対価に、ソラリスを時間ごと凍結させ、世界の深淵に封印するための、大封印術だったのだ。

彼は妹を「救った」のではない。

この世界を救うために、愛する妹を自らの手で「消した」のだ。

彼は真実の重みに耐えられなかった。だから、無意識に、その最も辛い事実から目を逸らすための記憶を、魔法の対価として差し出した。「妹は病で死んだ。自分は彼女を救おうとして失敗した」。そう思い込むことで、かろうじて正気を保っていたのだ。失われた記憶を取り戻す旅は、残酷な真実からの逃避行に過ぎなかった。

「ああ……あぁぁあああ!」

リオンは泉から手を引き抜き、頭を抱えて崩れ落ちた。思い出した。全てを。封印の儀式の日、涙を流す彼に、リリスが最後に向けた表情。それは虚ろなどではなかった。全てを理解し、受け入れた、哀しい微笑みだった。彼女は、自らが世界にとっての災厄であることを知っていた。そして、兄の手によって封じられることを、受け入れていたのだ。

記憶を取り戻すことは、封印を不完全にする行為だった。泉の魔力を通して、世界の深淵に眠るリリスの封印が、今、ゆっくりと解け始めている。洞窟全体が揺れ、壁の鉱石が不吉な光を明滅させた。世界が再び、忘却の淵へと引きずり込まれようとしていた。

第四章 愛という名の残滓

「どうすれば……どうすればいいんだ……」

リオンは地面に突っ伏したまま、呻いた。真実を知った今、彼には二つの道しか残されていなかった。一つは、このまま封印が解かれるのを許し、愛する妹リリスを再びこの世に呼び戻す道。だがそれは、世界を忘却の災厄に差し出すことを意味する。もう一つは、再び、彼女を封印する道。しかし、今度こそ彼の精神は完全に砕け散るだろう。同じ絶望を、正気のまま二度も味わうことなど不可能だった。

その時、背後から静かな声がかけられた。「選ぶのだ、若者よ」。いつの間にか、エリスが彼の隣に立っていた。

「お前は真実を知った。ならば、選ばねばならぬ。記憶と共に生きるか、再び忘却に身を委ねるか」

リオンはゆっくりと顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった彼の瞳が、泉の揺らめく水面を捉える。水面には、微笑むリリスの幻影が映っているように見えた。彼女の犠牲の上に成り立つ世界。彼女を忘れて生き永らえる自分。どちらも、許されることではなかった。

だが、彼は選ばなければならない。

彼は、ふらつきながら立ち上がると、泉に背を向けた。

「俺は……忘れる」

その声は、ひどく掠れていたが、確かな意志が宿っていた。

「リリスが災厄であったという真実も、俺が彼女を封印したという過去も、再び忘却の彼方へ返す。だが……」

リオンは、自分の胸に強く手を当てた。

「これだけは忘れない。俺には、命を懸けて守りたいほど愛した妹がいた。その事実だけは。あの子への愛と、この痛みだけは、俺が背負って生きていく。それが、俺の贖罪だ」

それは、完全な記憶でも、完全な忘却でもない、第三の選択だった。原因と結果という残酷な記憶の連鎖を断ち切り、ただ「愛していた」という感情の残滓だけを、自らの魂に刻み込むという決断。

リオンがそう誓った瞬間、彼の手の中にあったオルゴールが、最後の力を振り絞るように眩い光を放ち、澄み切った旋律を一度だけ奏でた。それは、まるでリリスの「ありがとう」という声のようだった。そして、光が消えると同時に、リオンの脳裏から再びリリスが災厄であったという記憶が抜け落ちていく。洞窟の揺れも、静かに収まっていった。

再び一人になったリオンは、洞窟を出て、朝日に照らされた世界を見つめた。胸の空虚感は、まだそこにある。だが、その痛みは、もはや彼を苛む呪いではなかった。それは、彼が愛した誰かが確かに存在した証であり、彼がこれから生きていくための道標だった。

彼はもう「記憶の泉」を探さない。行くあてのない、新たな旅が始まる。なぜ自分がこれほど哀しいのか、その理由を思い出すことはないだろう。それでも、彼は歩き続ける。忘却の彼方に消えた妹への愛を、その胸の痛みとして永遠に抱きしめながら。

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