第一章 偽りの依頼人
リオンは、記憶の修復師だった。埃っぽい工房の奥、古書の革と乾燥した薬草の匂いが混じり合う中で、彼は人の壊れた記憶を魔法で繕うことを生業としていた。彼の指先から放たれる銀色の光は、忘却の闇に沈んだ思い出の断片を正確に拾い上げ、寸分の狂いもなく元の場所へと縫い付けていく。その技術は神業と称され、王侯貴族からの依頼も絶えなかったが、リオンの心は常に凪いでいた。彼にとって記憶とは、修復すべきただの構造物。そこに込められた感情の機微や温もりは、作業の邪魔になるノイズでしかなかった。
その日、工房の扉を叩いたのは、蜘蛛の糸のように細い皺を顔中に刻んだ老婆だった。エリアナと名乗る彼女は、震える手で一枚の羊皮紙を差し出した。リオンが受け取ると、そこには彼の目を疑うような依頼が、か細い筆跡で記されていた。
『私の、最も幸せだった記憶を、跡形もなく消してください』
リオンは思わず眉をひそめた。失われた記憶を取り戻したいと泣きついてくる者は山ほど見てきたが、幸せな記憶を消してほしいという依頼は初めてだった。
「ご冗談でしょう、奥様。記憶の消去は、脳に大きな負荷をかける危険な施術です。ましてや、幸福な記憶は心の礎となるもの。それを消すなど……」
「分かっております」エリアナは静かに遮った。その瞳は、深い湖の底のように静まり返っていた。「だからこそ、最高の腕を持つあなた様にお願いに上がったのです。報酬は、望むだけお支払いいたします」
彼女が差し出した革袋はずしりと重く、金貨が擦れ合う音がした。リオンの心に、わずかな打算が生まれる。この仕事を受ければ、長年探していた稀少な魔法触媒が手に入るかもしれない。それに、この不可解な依頼の裏側を覗いてみたいという、職人としての好奇心も疼いた。なぜ、人は自らの幸福を手放そうとするのか。
「……分かりました。お引き受けしましょう。ただし、施術はあなたの記憶の深層に潜り、対象の記憶を特定してからになります。よろしいですね?」
「ええ、すべてお任せいたします」
老婆は深く頭を下げた。その横顔に浮かんだ安堵とも諦めともつかない表情を、リオンはただ冷ややかに見つめていた。
第二章 色褪せない花畑
リオンはエリアナを施術用の寝椅子に横たわらせ、彼女のこめかみにそっと指を当てた。銀色の光がリオンの指先から放たれ、霧のようにエリアナの意識の中へと溶けていく。リオンの精神もまた、その光を追って、記憶の海へと深く潜っていった。
彼が辿り着いたのは、息を呑むほど美しい場所だった。
見渡す限り、紫と桃色のルピナスが咲き乱れる広大な花畑。空は抜けるように青く、頬を撫でる風は蜂蜜のような甘い香りを運んでくる。リオンは、これほどまでに鮮やかで、五感のすべてに訴えかけてくる記憶の情景に触れたのは初めてだった。
花畑の中心には、若き日のエリアナがいた。亜麻色の髪を風になびかせ、太陽のように明るく笑っている。その隣には、栗色の髪をした快活な青年が寄り添い、優しい眼差しで彼女を見つめていた。レオ、とエリアナは彼の名を呼んだ。
「ねえ、レオ。この花畑、永遠にこのままならいいのに」
「永遠じゃなくても、僕が毎年君をここに連れてくるよ。約束だ」
二人は指を絡め、未来を語り合った。ささやかな夢、共に老いていくことへの誓い。その一つ一つが、温かい光の粒子となってリオンの心を通り過ぎていく。修復の必要など微塵もない、完璧で、幸福に満ち溢れた記憶。リオンは、自分が今、人の人生で最も神聖な瞬間に立ち会っているのだと感じた。
同時に、彼の困惑は深まっていた。これを、消す?こんなにも輝かしい記憶を、心の支えとなるはずの宝物を、なぜ。
リオンは一旦、エリアナの意識から浮上した。現実世界の寝椅子で、老婆は穏やかに寝息を立てている。だが、その目尻には一筋の涙が光っていた。
「早く……」うわ言のように、彼女が呟く。「早く、あの花畑を……消しておくれ……」
その声は、懇願というより悲鳴に近かった。リオンは再び眉根を寄せ、決意を固めた。この記憶には、彼の知らない何かが隠されている。ただ消すのではなく、その謎の根源を突き止めなければならない。彼は再び、光の奔流へと身を投じた。
第三章 砕かれた万華鏡
リオンは注意深く、花畑の記憶を観察し直した。完璧に見えた世界に、彼は微細な綻びを見つけ始めた。風に揺れるルピナスの花の動きが、時折不自然に途切れる。レオが語る言葉に、ごく稀に現実味のない響きが混じる。それは、まるで精巧に描かれた絵画の、ほんの僅かな筆の乱れのようだった。
リオンは、その綻びを辿り、記憶のさらに深層へと潜ることを決意した。花畑の地平線の向こう、通常は決して踏み入ることのない領域へ。そこは、記憶の持ち主自身が固く封印した、無意識の聖域だった。
彼が足を踏み入れた瞬間、世界は一変した。
色鮮やかな花畑は跡形もなく消え失せ、冷たく湿った石の匂いが鼻をついた。そこは薄暗い病室だった。窓の外では冷たい雨が降りしきり、若き日のエリアナが、ベッドに横たわる青年の手を握りしめていた。青年は、あの花畑にいたレオだった。だが、彼の顔は青白く、呼吸は浅く、その瞳から快活な光は失われていた。
「……エリアナ」レオが掠れた声で言った。「ごめん……約束、守れそうにない……」
「そんなこと言わないで!また、あの花畑に行くんでしょう?」
エリアナの悲痛な叫びも虚しく、レオの手から力が抜けていく。そして、静かに、彼の呼吸は止まった。
部屋を震わせたのは、エリアナの絶叫だった。世界が壊れるような、魂を引き裂くような叫び。リオンは、その純粋な絶望の奔流に呑まれ、立っていることさえできなかった。
そこで彼はすべてを理解した。エリアナの「最も幸せだった記憶」は、彼女自身が作り出した、精巧な偽りの記憶だったのだ。
愛する人を失った絶望に耐えきれず、彼女はまだ未熟だった記憶魔法を自らに施した。レオが死んだという耐え難い真実を心の奥底に封印し、「彼と共に幸せに生きた」という甘い幻影を上書きして、何十年という歳月を生き抜いてきたのだ。
だが、偽りの記憶は完璧ではなかった。綻びから漏れ出す真実の悲しみが、幻の幸福を見るたびに彼女の心を苛んだ。甘い毒のように、偽りの幸せは彼女を救い、そして同時に、ゆっくりと蝕んでいた。彼女が記憶を消したがったのは、この終わりのない苦しみから解放され、せめて最期は穏やかな無の中で迎えたいという、悲壮な願いだったのだ。
リオンは愕然とした。完璧な修復こそが正義だと信じてきた彼の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。目の前にあるのは、不完全な記憶に救われ、不完全な記憶に苦しめられた、一つの魂の姿だった。
第四章 虹の在り処
工房に戻ったリオンの心は、激しく揺れていた。エリアナに何と伝えればいいのか。冷たい真実を突きつけ、彼女の心を完全に破壊してしまうのか。それとも、依頼通りに偽りの記憶を消し去り、彼女を空っぽの器にしてしまうのか。どちらも、彼がこれまで行ってきた「修復」とはあまりにかけ離れていた。
彼は答えを探して、工房の窓から外を眺めた。ちょうど、先ほどまでの雨が上がり、雲の切れ間から光が差し込んでいる。そして、空には淡く、七色の光の橋が架かっていた。虹だ。光が、空気中の無数の水滴によって屈折し、乱反射することで生まれる、不完全で、束の間の奇跡。完璧な直線ではない。純粋な単色の光でもない。だが、だからこそ、それは人の心を惹きつけてやまない美しさを宿している。
その瞬間、リオンの中に、新たな答えが生まれた。
彼は再びエリアナの記憶へと潜った。そして、彼女の意識に語りかけた。
「エリアナさん。僕はあなたの記憶を消しません。元に戻すこともしません。ただ、少しだけ、手を加えさせてください」
リオンは銀色の光を紡ぎ始めた。だが、それは何かを消したり、繋いだりするための光ではなかった。彼は、暗く冷たい病室の記憶と、光り輝く花畑の記憶を、ゆっくりと織り合わせ始めたのだ。
悲しみと、幸せを。現実と、幻を。喪失と、愛を。
それは矛盾に満ちた、歪なタペストリーだった。だが、それは紛れもなく、エリアナという人間が生きてきた証そのものだった。
彼女の記憶の中で、風景が変わる。ルピナスの花畑に、静かな雨が降り始めた。花々は濡れて輝き、甘い香りと共に土の匂いが立ち上る。そこに立つレオの姿は、少しだけ透けていた。彼は悲しそうに、しかし、どこまでも優しく微笑んだ。
「エリアナ。忘れないでいてくれて、ありがとう」
彼はエリアナの頬にそっと触れた。その手はもう温かくはなかったが、確かな愛情の記憶がそこにあった。「でも、もういいんだ。僕は君の心の中で、ずっとあの花を見ていた。幸せだったよ」
レオの姿は光の粒子となって、雨上がりの空気に溶けていく。偽りの記憶は消えた。だが、彼を愛したという事実、彼と共に見たかった未来への憧れ、そして彼を失った深い悲しみ。そのすべてが混じり合った、切なくも温かい光だけが、エリアナの心に穏やかに残った。
現実世界で、エリアナがゆっくりと目を開けた。その頬を、涙が静かに伝っていた。しかし、その表情は、深い安らぎに満ちていた。
「……ああ」彼女は呟いた。「雨の匂いがする。懐かしい……。ありがとう、修復師さん。ようやく、私は私のままで、彼を想うことができます」
リオンは何も言わず、ただ深く一礼した。
依頼を終えたリオンは、一人、工房の窓辺に立っていた。空の虹は、もう消えかけている。
彼はもう、ただ記憶の構造を完璧に修復するだけの職人ではなかった。人の心の不完全さ、矛盾、そしてその中にこそ宿る切実な美しさに寄り添うこと。それが、本当の「修復」なのだと知った。
彼の指先が、窓ガラスに触れる。そこに映った自分の顔が、以前よりも少しだけ、柔らかい表情をしていることに、リオンは初めて気がついた。空には、忘れられたように最後の虹の欠片が輝いていた。それはまるで、これから彼が紡いでいくであろう、数多の心の物語を祝福しているかのようだった。