第一章 硝子の涙
指先に触れた瞬間、老婆の悲鳴が聞こえた気がした。
「痛い、ですか?」
私の問いかけに、カウンター越しに座る老婦人は首を横に振る。
深く刻まれた皺の奥にある瞳は、どこか遠くを見ていた。
「いいえ、エララさん。ただ、懐かしくて……胸が締め付けられるのよ」
私は作業台の上に置かれた『記憶の玉』に視線を落とす。
掌サイズの水晶のような球体。
その中には、ひび割れた琥珀色の光が揺らめいている。
亡き夫との、最初のダンスの記憶。
劣化し、ノイズが走り、再生できなくなった思い出。
それを修復するのが、私――『記憶の紡ぎ手(メモリー・ウィーバー)』の仕事だ。
「すぐに直りますよ。糸が少し、絡まっているだけ」
私は細い銀色の針を手に取り、玉の表面にそっと突き立てた。
硬質な感触はなく、水面に指を入れるように、針先が内部へと沈んでいく。
目を閉じる。
視覚が遮断されると同時に、嗅覚と触覚が鋭敏になる。
古びたレコードの匂い。
磨き上げられた木の床の軋み。
そして、微かなラベンダーの香り。
(ここだ……)
私は記憶の奔流の中で、切れかかった一本の糸をつまみ上げた。
繊細で、温かい、琥珀色の糸。
それを慎重に、私の指先から出る魔力の糸と結び合わせる。
ズキン。
こめかみに鋭い痛みが走った。
視界の端が白く明滅する。
(また、欠けた……)
他人の記憶を修復する代償。
それは、私自身の記憶が削れ落ちていくこと。
昨日の夕飯の味。
隣人の名前。
靴紐の結び方。
砂の城が波にさらわれるように、私の「私」が消えていく。
けれど、手は止めない。
止められない。
「……できました」
数分後、私は汗ばんだ額を拭いながら、輝きを取り戻した玉を差し出した。
老婦人は震える手でそれを受け取り、胸に抱きしめる。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
彼女の目からこぼれ落ちた涙が、作業台の埃を濡らした。
その感謝の言葉が、空っぽになりつつある私の心に、少しだけ温かい色を落とす。
老婦人が去った後、私は慌てて懐から小さな革の手帳を取り出した。
インクの匂いがするページをめくる。
『私の名前はエララ』
『仕事は記憶の修復』
『好きな色は青』
そして、一番下の、太い文字で書かれた一行。
『レオを探すこと。レオは私の弟。青い瞳の、優しい子』
私はその文字を指でなぞる。
レオ。
顔は思い出せる。声も、まだ大丈夫。
あの子は、五年前に「王都へ行く」と言って家を出て、それっきりだ。
「忘れない……絶対に」
私は自分に言い聞かせるように呟き、冷めたハーブティーを喉に流し込んだ。
苦味が、少しだけ恐怖を紛らわせてくれる。
その時だった。
店のドアベルが、乱暴に鳴り響いたのは。
カランカランッ!
入ってきたのは、見上げるような巨体の男たち。
身につけているのは、王室近衛兵の紋章が入った鎧。
鉄と油の匂いが、店内の静寂を切り裂く。
「紡ぎ手エララだな」
先頭の男が、低い声で言った。
「国王陛下が危篤だ。貴様の腕を見込んで、至急、城へ同行願いたい」
国王陛下。
この国の支配者にして、最大の魔力保有者。
私ごとき市井の職人が関わる相手ではない。
断ろうと口を開きかけた瞬間、男が懐から出したものを見て、私の言葉は凍りついた。
それは、砕け散る寸前の、真っ青な記憶の玉。
その青色は、私が毎晩夢に見る、あの空の色と同じだった。
第二章 凍てつく玉座
王都の夜は、眩しいほどに明るい。
街灯のすべてに、人工的に生成された『幸福な記憶』が燃料として使われているからだ。
馬車の窓から流れる光の帯を見つめながら、私は膝の上で手を組んだ。
手の震えが止まらない。
「陛下は……どのような状態なのですか?」
向かいに座る近衛隊長に問う。
彼は苦渋の表情で口を開いた。
「何者かの呪いを受けた。陛下の『根源の記憶』が破壊されかかっている。あれが砕ければ、陛下は廃人となるか、魔力の暴走でこの国ごと吹き飛ぶか……」
「根源の記憶……」
人格を形成する核となる、最も重要な記憶。
それを修復するなど、正気の沙汰ではない。
失敗すれば、私の精神も道連れに崩壊する。
けれど、あの青色が、私を呼んでいた。
城に着くと、空気は一変した。
廊下は静まり返り、使用人たちは影のように壁際を歩いている。
通されたのは、王の寝室。
天蓋付きの巨大なベッドに、その人は横たわっていた。
顔色は蝋のように白く、呼吸は浅い。
年齢は二十代半ばだろうか。
整った顔立ちだが、苦悶に歪んでいる。
枕元には、あの青い記憶の玉が浮いていた。
ひび割れ、いまにも崩れ落ちそうな光。
「頼む。何でも望みのものをやろう。金貨でも、地位でも」
隊長の懇願を背に、私はベッドに近づく。
冷たい。
部屋全体が、氷室のように冷え切っている。
これは、王の心が拒絶している証拠だ。
私は深呼吸をし、両手を玉にかざした。
「失礼します」
指先が光に触れる。
瞬間、強烈な奔流が私を飲み込んだ。
視界が反転する。
そこは、雪原だった。
(寒い……)
吹き荒れる吹雪。
足首まで埋まる雪。
私の目の前に、一人の少年がうずくまっている。
ボロボロの服。
泥だらけの頬。
少年は泣いていた。
『姉さん……』
心臓が、早鐘を打つ。
その声。
その背中。
まさか。
私は雪をかき分け、少年に駆け寄る。
少年が顔を上げた。
涙で濡れた、透き通るような青い瞳。
「レオ……?」
私の唇から、名前が漏れる。
間違いない。
成長しているけれど、面影がある。
私の弟、レオ。
どうして?
どうして貴方が、この国の王としてここにいるの?
『行かないで、姉さん。僕を置いていかないで』
記憶の中のレオが、虚空に向かって手を伸ばしている。
その先には、誰もいない。
私は理解した。
これは、彼が「捨てられた」と思った瞬間の記憶だ。
五年前。
彼は家出したのではない。
徴兵されたのだ。
魔力の高い子供を集める、国の暗部によって。
そして私は、それを止められなかった。
いや、違う。
ズキンッ!!
激痛が脳を貫く。
(思い出せ……私は、何かを忘れている)
手帳に書いたこと。
『レオを探すこと』
でも、彼が連れ去られた日のことを、なぜ私は覚えていない?
記憶の雪原が、黒く染まり始める。
レオの姿が、闇に飲まれていく。
『嘘つき。迎えに来るって言ったのに』
怨嗟の声。
修復しなければならない箇所は、ここだ。
彼の絶望が、命を蝕んでいる。
直すには、真実の糸が必要だ。
「私は彼を捨ててなどいない」という、確かな証拠。
私は自分の記憶の深淵に潜った。
鍵のかかった扉を、無理やりこじ開ける。
溢れ出したのは、鮮血のような記憶。
あの日。
兵士たちがレオを連れて行く。
私は泣き叫び、馬車を追いかけた。
転んで、膝を擦りむいて、それでも走った。
『必ず迎えに行く! レオ、待ってて!』
兵士の一人が、私に向け杖を振るった。
忘却の魔法。
「小娘、邪魔だ。弟のことは忘れろ」
そうか。
私は忘れていたんじゃない。
消されていたんだ。
彼を愛していた記憶ごと、彼を奪われた悲しみを。
涙が、現実の私の頬を伝う。
レオ。
ずっと一人で、寒かったでしょう。
王なんて孤独な椅子に座らされて、誰も信じられなくて。
「今、助けるから」
私は、自分の魂から最も輝く糸を引き抜いた。
それは、レオと過ごした最後の日。
草原で、四つ葉のクローバーを探した記憶。
風の匂い、草の感触、彼の笑い声。
これを修復に使えば、この穴は埋まる。
けれど、代償は大きい。
これほどの質量の記憶を注ぎ込めば、反動で私は――。
(レオに関する記憶を、すべて失う)
彼が弟であることも。
彼を愛していることも。
今、なぜ私が泣いているのかさえも。
「……それでも」
私は迷わなかった。
手帳に書いた文字が、脳裏をよぎる。
『青い瞳の、優しい子』
貴方が生きてくれるなら。
貴方が、愛されていたことを思い出してくれるなら。
私が空っぽになることなんて、些細なことだ。
「紡げ、光よ」
私は祈りを込めて、私の全てを、レオの傷口へと押し込んだ。
第三章 名もなき涙
目を開けると、朝日が差し込んでいた。
鳥のさえずりが聞こえる。
シーツの清潔な匂い。
「……ここは?」
体を起こすと、ずきりと頭が痛んだ。
白い部屋。
豪華な調度品。
私はなぜ、ここにいるのだろう。
昨日は店で、老婦人の記憶を直して……それから?
思い出せない。
大事な仕事があったような気がするけれど、霧がかかったようだ。
ガチャリ。
重厚な扉が開いた。
入ってきたのは、豪奢な服を着た青年。
透き通るような青い瞳が、私を捉えて揺れている。
「……目が、覚めたか」
震える声。
彼は私のベッドの端まで歩み寄ると、膝をついた。
「貴方は……?」
私が尋ねると、彼は一瞬、息を呑んだように顔を歪めた。
泣き出しそうな、それでいて安堵したような、複雑な表情。
「私は……この国の王だ」
「王様」
私は慌てて頭を下げようとしたが、彼の手が優しく私の手を包み込んだ。
温かい。
どこか、懐かしい温もり。
「礼はよい。そなたは、私を救ってくれた恩人だ」
「私が? すみません、よく覚えていなくて……」
王様は、私の手を強く握りしめた。
その瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちる。
「覚えていなくていい。私が、覚えている」
彼はそう言って、私の手の甲に額を押し当てた。
「そなたがくれた色は、あんなにも温かかった。一生、忘れない」
なぜだろう。
知らない人なのに。
王様の涙が手に触れた瞬間、私の胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
理由のない涙が、私の目からも溢れ出す。
悲しいわけじゃない。
ただ、満たされている。
失くしたはずのパズルのピースが、見えない場所でぴたりと嵌まったような感覚。
私は、無意識に彼の手を握り返していた。
「……泣かないでください、陛下」
自然と口をついて出た言葉に、彼は顔を上げ、濡れた瞳で微笑んだ。
まるで、幼い子供のような笑顔で。
「ああ……ありがとう、姉さん」
彼が最後に呟いた言葉は、風の音にかき消されて、よく聞こえなかった。
窓の外には、どこまでも広がる青い空。
私はその色をぼんやりと見つめながら、懐から手帳を取り出した。
パラパラとページをめくる。
最後のページ。
そこは、真っ白だった。
何も書いていない。
けれど、インクの染みが、涙の跡のように滲んでいる。
「変なの」
私は笑って、手帳を閉じた。
記憶は消えても、想いは消えない。
空の青さが、風の匂いが、そして目の前の青年の温もりが、私にそう教えてくれている気がした。