存在時間の弔い人
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存在時間の弔い人

第一章 揺らめく時間の灯火

俺の眼には、世界が常に終焉へと向かう姿が映っている。

古びた書店の片隅、埃とインクの匂いが混じり合う空気の中、俺――詠(えい)は、一冊の革装本をそっと手に取った。その背表紙には『勇気』という概念が、かろうじて金の箔押しで残っている。だが、俺の眼に映るのはそれだけではない。本の輪郭から陽炎のように立ち上る、淡く明滅する光。それがこの本に残された「存在時間」だ。風に吹かれれば消えてしまいそうなほど、その輝きは弱々しかった。

この世界では、あらゆるものが時間を消費して存在する。生命も、物質も、そして「勇気」や「愛」といった概念でさえも。その消費速度は、世界に与える「意味の濃度」に比例するという、あまりに皮肉な法則に支配されている。人々が強く求め、語り継ぐものほど、その身を激しく燃やし、早く尽きてしまうのだ。

俺の能力は、その残り時間を視認できること。そして、もう一つ。他者の存在時間の一部を「対価」として受け取り、俺自身の「概念時間」――つまり、俺という存在が世界に認識され続ける時間を、延長できることだ。

俺は指先で『勇気』の表紙をなぞった。指先に触れた瞬間、微かな温もりと共に、かつてこの概念が人々の心に灯した幾万もの情景が流れ込んでくる。初めて一歩を踏み出した子供の鼓動。不正に立ち向かった者の震える拳。愛する者を守ると誓った声。それらは全て、あまりに尊く、そしてあまりに儚い記憶の断片だった。

「……少し、分けてもらう」

囁きは誰に聞かせるでもない。俺がそう意識すると、本の存在時間を示す光がさらに揺らめき、その一筋が糸のように俺の胸へと吸い込まれた。引き換えに、俺の胸の奥で、冷え切っていた何かが微かに温まる。だが、目の前の本は、その輪郭が一層ぼやけ、背表紙の文字は判読困難な染みに変わった。世界からまた一つ、確かな意味が曖昧に溶けていく。

その時だった。懐に入れていた古びた真鍮製の羅針盤が、カタカタと微かな音を立てて震え始めた。本来、決して動くはずのない壊れた針が、ゆっくりと、しかし確かに、書店の古びた扉の向こうを指し示していた。

「断章の羅針盤」。消えゆく概念の『最後の痕跡』へと導く、俺だけの道標。

また一つ、世界から何かが失われようとしている。俺は曖昧になった『勇気』の本を棚に戻し、羅針盤が示す先へと、静かに歩き出した。

第二章 沈黙の石橋

羅針盤が導いたのは、街外れの忘れられた小川に架かる、小さな石橋だった。苔むした欄干、風雨に削られた石畳。かつては人々の往来で賑わったのだろうが、今ではその存在を覚えている者も少ない。橋のたもとには、朽ちかけた木製の看板が斜めに立っているが、そこに刻まれていたはずの橋の名前は、もう誰にも読めない。

橋全体が、まるで淡い霧に包まれているかのように揺らいで見えた。存在時間が、尽きかけている。

俺は欄干にそっと手を触れた。冷たい石の感触と共に、膨大な記憶の残響が流れ込んでくる。初めて手を繋いだ恋人たちの恥じらい。故郷を離れる若者の決意。遠い戦地から帰還した兵士の安堵のため息。この橋は、単なる石の建造物ではなかった。「約束」と「再会」という、いくつもの物語が編み込まれた概念の結晶だったのだ。

しかし、それらの記憶もまた、橋の存在時間と共に薄れ、消えかけていた。

「君の話を聞かせてくれ」

俺は橋に語りかけた。すると、欄干から最も強く輝いていた存在時間の一筋が、俺の手に吸い寄せられる。恋人たちが交わした「永遠」という名の約束。その記憶の断片を対価として受け取った瞬間、俺自身の輪郭が僅かに濃くなった気がした。だが、目の前の石橋は、風景との境界線をさらに失い、まるで水彩画が水に滲んだように曖昧になっていく。

俺はいつも、この行為に深い罪悪感を覚える。俺が生き永らえるために、世界の記憶を掠め取っている。これは救済などではない。ただの延命であり、墓荒らしにも似た冒涜的な行いだ。

それでも、やめられなかった。消えゆくものの最後の声を聞き、その存在を俺の中だけでも留めておくこと。それが、この呪われた能力を持って生まれた俺にできる、唯一の弔いだと信じていたから。

俺は曖昧に溶けていく石橋に背を向け、再び歩き出す。懐の羅針盤は、もう次の「死に場所」を指し示し、静かに震えていた。

第三章 意味の墓標

それからの日々、俺は羅針盤に導かれるまま、消えゆく概念の痕跡を巡り続けた。

「友情」が交わされた路地裏の落書き。

「希望」が生まれ、そして忘れられた教会の鐘楼。

「正義」が掲げられた広場の、今は誰も意味を知らない記念碑。

俺はそれらの最後の輝きを、一つ、また一つと吸収していった。俺の内には、行き場を失った膨大な「曖昧な存在の記憶」が、静かな澱のように溜まっていく。それは、俺の概念時間を確かに繋ぎ止めてくれるが、同時に俺という個の輪郭を、他者の記憶で侵食していくようでもあった。

そして、俺は気づいていた。概念の消滅が、異常な速さで加速していることに。

空の色から「青」という概念が僅かに抜け落ち、世界全体の彩度が褪せていく。風の音から「哀愁」という響きが消え、ただの空気の振動になる。街角で交わされる会話から「信頼」という温もりが失われ、人々は互いの言葉の表面だけをなぞるようになった。

世界は巨大な墓場へと変わりつつあった。あらゆる意味が弔われることもなく、静かに、確実に、無へと還っていく。

この現象は、もはや自然な摩耗ではない。何者かの明確な「意思」が、世界から意味というものを積極的に剥ぎ取っている。そうでなければ、これほどの速度で世界が崩壊していく説明がつかない。

一体、何が。なぜ、こんなことを。

俺は答えを求め、羅針盤を握りしめた。すると、今までとは比べ物にならない激しい振動が、俺の手を打った。

第四章 始まりの諦観

羅針盤の針は、狂ったように回転を始めた。東でも西でもない。天を指し、地を指し、そして最後に、俺自身の心臓を真っ直ぐに指し示して停止した。

次の瞬間、俺の意識は肉体から引き剥がされた。

視界が真っ白な光で満たされ、時間も空間も意味をなさない、存在の根源とでも言うべき場所へと引きずり込まれる。俺の中に蓄積された、あの石橋の記憶、路地裏の記憶、あらゆる曖昧な記憶が共鳴し、この場所への扉を開いたのだ。

そこに「それ」はいた。

姿も形もない。ただ、宇宙そのもののように広大で、そして星の終焉のように静かな、途方もない『意思』。だが、俺が感じ取ったのは、悪意や憎悪ではなかった。そこにあったのは、あまりにも深く、永い時間の果てにたどり着いた、純粋な『諦め』だった。

――もう、休ませてあげたいのです。

声が、思考に直接響く。

――私は、この世界を観測し、名付け、意味を与えた最初の存在。私は、愛が生まれ、憎しみが燃え、希望が灯り、絶望が覆う、その全てを見てきました。意味を持つがゆえに、あなたたちは苦しむ。存在するがゆえに、すり減っていく。もう、たくさんです。

それが、世界を消滅させようとしている「根源的な意思」の正体。世界の創造主が、自らが創ったものたちの苦しみに耐えきれず、全てを意味の束縛から解放し、安らかな無に還そうとしていたのだ。

――あなたの能力は、私が世界から意味を剥がす過程で零れ落ちた、記憶の欠片を拾うためのもの。最後の弔い人として、あなたを選んだのです。

絶望的な慈悲。あまりに優しい、世界の殺害計画。俺が今まで行ってきたことは、この巨大な諦観の前では、ただの感傷的な自己満足に過ぎなかったのかもしれない。

世界は、その創造主自身の手によって、安らかな死を迎えようとしていた。

第五章 世界という名の叙事詩

創造主の諦観は、絶対的な真理のように俺の心を蝕んだ。そうだ、存在することは苦しみだ。意味を持つことは呪いだ。消滅こそが、唯一の救済なのかもしれない。

だが、その時。俺の中で眠っていた、あの曖昧な記憶たちが一斉に囁き始めた。

恋人たちの約束。子供の最初の勇気。路地裏の友情。それらは意味を失い、忘れ去られてもなお、確かに「そこにあった」という事実の輝きを放っていた。意味を失っても、物語は消えない。

そうだ。救う方法は、意味を再構築することじゃない。

「世界は、あなたの苦しみの記録じゃない」

俺は、広大な意思に向かって叫んだ。

「世界は、あなたが見届けた、壮大な『物語』なんだ!」

俺は決断した。この世界を、「出来事」の連続ではなく、永遠に「語られる」存在へと変える。

俺は自らの胸に手を当て、これまで吸収してきた全ての記憶と、俺自身の全存在時間を解放した。俺という個を維持していた概念時間が、眩い光となって溢れ出す。それは、俺が弔ってきた無数の存在たちの、最後の輝きの集合体だった。

手の中の「断章の羅針盤」が、その光を触媒として増幅させ、世界中に拡散させていく。

俺の身体が足元から光の粒子となって崩れていく。視界が白んでいく中で、俺は新しい世界の始まりを見た。

あの沈黙の石橋は、『二人の魂を結んだ橋』という詩の一節になった。色褪せた『勇気』の本は、『名もなき英雄の物語』の序章へと変わった。街も、森も、海も、空も、そこに生きていた全ての人々の感情や記憶も、一つ一つが壮大な『叙事詩』を構成する言葉や挿絵として、世界に再編されていく。

消滅は、止まった。

世界は、意味の重荷から解放された。だが無に還ったのではない。苦しみの連鎖を断ち切り、永遠に紡がれる美しい物語へと昇華されたのだ。

創造主の『諦め』は、静かな『安らぎ』へと変わった気配がした。

俺という個は、もうどこにもいない。けれど、風がページをめくる音に、雨が窓を打つ響きに、誰かが物語を語る声の中に、俺はその欠片として存在し続けるのだろう。

……どこかの国の、小さな部屋。一人の子供が、母親に買ってもらったばかりの古い本を開く。その最初のページには、美しい挿絵があった。

苔むした石橋の上で、若い二人がそっと手を繋いでいる。

子供は、これから始まる物語に胸を躍らせながら、最初の言葉を、ゆっくりと声に出して読み始めた。


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