第一章 触れた赤、渇望の始まり
俺の世界は、いつだって灰色だった。
生まれた時から、俺の瞳に映るすべては色のない濃淡の連続だ。朝焼けの空は淡い白で、真昼の太陽は眩しいだけの光の塊。人々が「翠緑の森」と呼ぶ場所も、俺には複雑な階調を持つ黒いシルエットの集まりにしか見えなかった。人々は俺を「色喰らい」と呼び、呪われた子だと囁いた。生まれつき固有の「原色(げんしょく)」を持たず、生命力と記憶の源である色彩を感受できない哀れな存在。それが、リアンという俺のすべてだった。
俺は物心ついた頃から、母親の顔を知らなかった。父の話では、俺を産んですぐに衰弱して亡くなったという。彼女の髪の色も、瞳の色も、俺は知らない。父が時折見せる悲しげな眼差しが、俺の存在が母の死と分かちがたく結びついていることを物語っていた。だから俺は、自分の「失われた色」を取り戻すことだけを夢見ていた。色が見えれば、世界は鮮やかに輝き、きっと母の温かい記憶も蘇るはずだと、そう信じていた。
十八歳になったある秋の日、俺は村はずれの枯れ果てた林檎の木に、何気なく手を触れた。人々がかつて「黄金の実をつけた」と懐かしむ、今はただの黒い骸だ。指先が乾いた樹皮に触れた、その瞬間だった。
――赤。
脳を焼くような、鮮烈な衝撃。俺の指先から、今まで見たこともない「色」が迸り、枯れ木の幹を稲妻のように駆け上ったのだ。それは燃える炎であり、流れる血であり、熟した果実そのものだった。ほんの一瞬、俺の世界に、たった一つだけ色が生まれた。心臓が鷲掴みにされたような感覚。だが、その強烈な赤は、瞬きする間に幻のように消え去り、世界は再び無機質な灰色へと戻った。
俺は呆然と立ち尽くした。今の、あれは何だ?
俺の中から生まれたのか? 俺に触れられたことで、枯れ木が一時的に色を取り戻したのか?
分からない。だが、あの灼熱の赤が、俺の心に小さな火種を灯したことだけは確かだった。それは渇望の炎だった。もっと見たい。赤だけじゃない。人々が語る空の青、森の緑、花の黄色。そのすべてを、この目で見たい。そして、俺が奪ってしまったかもしれない、母の色を。
その夜、俺は父に置き手紙を残し、小さな鞄一つで家を飛び出した。目指すは、遥か東の果てにあるという「原色の塔」。そこには世界のすべての色を識るという賢者が住み、失われた色を取り戻す方法を知っているという、古の言い伝えがあった。
冷たい夜風が、灰色の頬を撫でる。まだ見ぬ色彩への焦がれるような想いと、生まれて初めて抱く希望が、俺の心を震わせていた。この灰色の旅路の果てに、俺だけの「色」が待っていると信じて。
第二章 青の少女と混ざり合う心
旅は孤独だった。俺の灰色の瞳は、道端の石ころも、遥かなる山脈も、等しく無価値な濃淡としてしか捉えなかった。すれ違う旅人たちは、俺の目を見て憐れんだり、あるいは不気味がって足早に去って行ったりした。俺の心は、乾いた大地のようにひび割れ、他者を拒絶することでかろうじて形を保っていた。
そんな旅が始まって一月ほど経った頃、俺はセナという少女に出会った。
川辺で水を汲んでいた俺に、彼女は屈託なく話しかけてきたのだ。「あなたの瞳、きれいな灰色ね。嵐の前の空みたい」。
驚いて顔を上げると、そこにいたのは、突き抜けるような「青」を持つ少女だった。俺にはもちろん彼女の髪や瞳の色は見えない。だが、彼女の存在そのものが、まるで澄み切った蒼穹のような気配を放っていた。快活な声、軽やかな身のこなし、そのすべてが鮮烈な「青」を想起させた。俺が初めて他人の「原色」を、色としてではなく、魂の気配として感じ取った瞬間だった。
「俺の目は呪われているんだ。色が見えない」
反射的に、俺は棘のある言葉を返した。同情されるのも、好奇の目で見られるのも、もううんざりだった。
だが、セナは眉をひそめるでもなく、むしろ興味深そうに目を輝かせた。「へえ、面白そう!じゃあ、今のこの夕焼けは、どんなふうに見えるの?燃えるような赤と、溶けた金と、夜の紫が混ざり合って、すっごくきれいなのに」
セナの言葉は、俺の胸にちくりと刺さった。俺には見えない美しい世界。嫉妬が鎌首をもたげる。だが同時に、彼女が俺の世界を否定も憐れみもせず、ただ純粋な興味として受け止めていることに戸惑いを覚えた。
成り行きで、俺たちは数日間、旅を共にすることになった。セナは画家で、世界の美しい色を集めて絵を描いているのだという。彼女は事あるごとに俺に問いかけた。「この花の香りは、どんな色を思い出す?」「この川のせせらぎは、どんな色に聞こえる?」
最初は鬱陶しいだけだったその問いかけは、やがて俺の内側に奇妙な変化をもたらし始めた。俺は答えられない代わりに、五感を研ぎ澄ますようになった。花の香りの甘さの奥にある微かな苦味。せせらぎの音の高低とリズム。灰色の世界の中で、色彩以外のすべてが、少しずつ輪郭を帯びていくのを感じた。
ある夜、焚き火を囲みながら、セナは言った。
「ねえ、リアン。みんな、原色は一つじゃなきゃいけないって言うけど、私、そうは思わないの。赤と青が混ざれば紫に、黄色と青が混ざれば緑になる。色は混ざり合うことで、もっと豊かになるんだって。世界みたいに」
その言葉は、一つの原色を取り戻すことだけが救いだと信じてきた俺にとって、異端の思想だった。だが、なぜかその考えは、俺の乾いた心に染み込む水のように、心地よかった。
セナの持つ鮮やかな「青」に焦がれる一方で、彼女と共にいると、俺の灰色の世界が決して空っぽではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思えるようになっていた。
第三章 原色の塔が告げる真実
幾多の山を越え、谷を渡り、俺とセナはついに「原色の塔」へと辿り着いた。天を衝くようにそびえ立つ白亜の塔は、俺の目には周囲の風景から浮き立つ、巨大な光の柱のように見えた。塔の内部は静寂に包まれ、螺旋階段を上るたびに、空気が澄んでいくのを感じた。
塔の最上階。ステンドグラスから射し込む光が床に複雑な模様を描く円形の部屋で、賢者は静かに俺たちを待っていた。長い白髭を蓄えた、年齢不詳の老人だった。彼の瞳は、まるで磨かれた水晶のように、すべてを見透かしているかのように澄んでいた。
「色なき子よ。よくぞ参った」
賢者の声は、古びた楽器のように深く、穏やかに響いた。俺は固唾を飲んで、自分の生い立ちと、失われた色を取り戻したいという願いを語った。あの枯れ木に触れた時、一瞬だけ赤が見えたことも。
賢者は静かに俺の話を聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。その言葉は、俺が信じてきた世界のすべてを、根底から覆すものだった。
「お前は、色を失ったのではない。むしろ、その逆じゃ」
「……どういう、意味ですか?」
「お前は、生まれながらにして、この世のすべての原色をその身に宿しておるのだよ。赤も、青も、黄も……そのすべてが、お前の魂の中で混ざり合い、調和した結果、至高の色――すなわち『灰色』として顕現しておる」
俺は言葉を失った。欠落の象徴だと思っていた俺の灰色が、至高の色? そんな馬鹿なことがあるものか。
賢者は続けた。「お前の母親は、類稀なる力を持つ女だった。彼女は、我が子にこの世界のあらゆる美しさと可能性を与えたいと願った。そして、自らが持つ『純白』の原色を触媒とし、ありとあらゆる色をその胎内へと呼び込み、お前に与えたのじゃ。その代償として、彼女自身はすべての色を失い……光の粒子となって消滅した」
脳を殴られたような衝撃。俺は色を失った呪われた子などではなかった。母の命と、この世界のすべての色を、その一身に受け継いで生まれてきた存在だった。俺が渇望していた「自分の色」とは、母が命と引き換えに与えてくれた、愛そのものだったのだ。
枯れ木に触れた時に見えた赤は、枯れ木に残っていた「生きたい」という最後の記憶に、俺の中の赤が共鳴したから。俺は色を感受できないのではなく、あまりに多くの色を持ちすぎて、個々の色を分離して認識できないだけだったのだ。
「そんな……じゃあ、俺は……母さんを……」
自己憐憫は、瞬時にして、身を抉るような罪悪感へと変わった。俺は母を殺した。この世界の色を独り占めするために。俺の存在そのものが、母の犠牲の上に成り立つ、巨大な罪だった。
足元が崩れ落ちていく感覚。今まで旅の支えだった「希望」は、残酷な「真実」の前に木っ端微塵に砕け散った。俺の灰色の世界は、もはや無限の可能性を秘めたカンバスなどではなく、母の命を塗り潰した、ただの汚れた色でしかなかった。
第四章 愛という名の色
絶望に打ちひしがれ、俺は賢者に背を向け、よろめきながら塔の階段を駆け下りた。セナが何か叫んでいるのが聞こえたが、耳には入らなかった。外に出ると、世界は相変わらずの灰色で、その無慈悲なまでの無表情さが、俺の罪を嘲笑っているかのようだった。
もう、どうでもよかった。色が見えなくたっていい。母の記憶が蘇らなくたっていい。ただ、この身に宿る、母の命を吸った忌まわしい色たちと共に、静かに朽ちていくだけだ。
塔の麓で膝から崩れ落ちた俺の肩に、そっと手が置かれた。息を切らして追いついてきたセナだった。
「行かないで、リアン」
「放っておいてくれ! 俺は……俺は、母さんを殺したんだ! この灰色は、母さんの命の色なんだ!」
俺が叫ぶと、セナは俺の前に回り込み、しゃがみ込んで俺の瞳をまっすぐに見つめた。彼女の眼差しは、どこまでも澄んだ青の気配をしていた。
「違うよ」セナは静かに、しかしきっぱりと言った。「あなたの灰色は、空っぽの色じゃない。汚れの色でもない。賢者様が言ってたじゃない。全部の色が一緒にあるから、優しい色なんだって。……あなたのお母さんは、あなたに世界をあげたかったんだよ。憎むためじゃなく、愛するために」
セナの言葉が、氷のように凍てついた俺の心に、小さなひびを入れた。彼女はそっと俺の手に、自分の手を重ねた。
「あなたのその手で、枯れ木に赤を咲かせたんでしょう? それは奪う力じゃない。与える力だよ。あなたの中に眠るたくさんの色が、外の世界の色と出会いたがってる。混ざり合って、新しい景色を生み出したくて、うずうずしてるんだよ」
セナの温かい手のひらから、彼女の持つ鮮烈な「青」の気配が、俺の中へと流れ込んでくるようだった。その瞬間、俺の脳裏に、今まで感じたことのないイメージが溢れ出した。それは、赤子の俺を抱きしめる、光そのもののような女性の姿。顔は見えない。声も聞こえない。だが、そこには、計り知れないほどの愛があった。
母さん……。
涙が、灰色の頬を伝った。それは、自己憐憫でも罪悪感でもない、初めて流す温かい涙だった。俺は母の犠牲の上に立っているのではない。母の愛の上に、生かされているのだ。この力は、罰ではない。母から託された、贈り物なのだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。そして、傍らにあった、色褪せて萎れた一輪の野花に、そっと手を伸ばした。
『咲きなさい』
心の中で念じると、俺の手のひらから、柔らかくも鮮やかな光が放たれた。萎れていた花びらがみるみるうちに生気を取り戻し、俺には見えないはずの、美しい「黄色」に染まっていくのが、魂で理解できた。
俺の見る世界は、今も灰色のままだ。だが、もう絶望はない。この灰色は、無限の可能性を秘めたパレットなのだ。俺はセナに向き直り、心の底から微笑んだ。
「ありがとう、セナ。行こう」
俺たちの旅は、再び始まった。だが、その目的はもう違う。失われた色を探す旅ではない。この世界に、新たな色を生み出していくための旅だ。俺は、俺に触れるもの全てに、母が与えてくれた愛という名の色を分け与えていく。
母の顔を思い出すことは、きっと永遠にないだろう。だが、それでいい。俺がこの世界を色彩で満たすたび、きっと母はどこかで微笑んでくれるはずだから。俺の灰色の瞳には、もう孤独な濃淡の世界ではなく、これから生まれるであろう無数の虹の気配が、確かに映っていた。