忘却のレゾナンス

忘却のレゾナンス

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第一章 残響晶と虹色の記憶

地殻の奥深く、忘れ去られた人々の記憶が結晶となる世界。私たちはそれを「残響晶(エコー・クリスタル)」と呼んだ。喜怒哀楽、あらゆる感情と経験が凝縮されたそれは、淡い光を放ち、生活のエネルギー源として、あるいは「詠み手」と呼ばれる特殊な者たちの魔法の触媒として、人々の暮らしに寄り添っていた。

私の名はリナ。十六歳。家族の記憶を持たない採掘師だ。物心ついた時から、私は孤児院の硬いベッドと、採掘場の乾いた土の匂いしか知らなかった。仲間たちは皆、微かな残響晶の光に、失われた家族の面影を重ねて涙を流すことがあったが、私にはその光がただの鉱石にしか見えなかった。私の過去は、まるで綺麗にくり抜かれたように、空白だった。

その日も、私は一人、古い坑道の奥深くでツルハシを振るっていた。周囲の壁に埋まる小さな残響晶が、星のように瞬いている。カン、カン、と無機質な音が響く中、不意にツルハシがこれまでとは違う、硬質な手応えを返した。岩盤の一部を慎重に削り取ると、そこに現れたのは、見たこともないほど巨大な残響晶だった。

それは人の頭ほどもあり、乳白色の結晶の中に、まるでオーロラを閉じ込めたかのように七色の光が揺らめいていた。他の結晶が放つのは、せいぜい単色の弱々しい光だ。しかし、これは違う。生きているかのように脈動し、温かな光で坑道の闇を照らしていた。

何かに導かれるように、私は手袋を外し、その冷たく滑らかな表面にそっと指を触れた。

その瞬間、奔流が私を襲った。

知らないはずの光景が、脳裏に直接焼き付けられる。陽光が差し込む小さな家。薪の爆ぜる音。シチューの芳しい香り。優しい歌声。力強い腕に抱き上げられる浮遊感。「リナ、お前の髪は、陽だまりの色だな」。低く、温かい男の声。私の頭を撫でる、ごつごつしているけれど優しい女の手。笑い声が、部屋中に響き渡る。幸福そのものを煮詰めたような、濃密な時間。

「……っ!」

私は弾かれたように手を引いた。心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。頬に、一筋の熱い雫が伝った。涙だった。感情の源泉がどこにあるのかも分からないまま、私はただ嗚咽した。あれは誰の記憶だ? 私が知らないはずの、しかし魂が焦がれるほどに懐かしい、あの温もりは一体何なのだ?

日常を覆す、というにはあまりに優しく、しかし根源的な謎が、虹色の輝きと共に、私の空っぽだった心に突き刺さった。私の物語は、この忘れられたはずの記憶との再会から、静かに始まったのだ。

第二章 忘れられた詠み手の影

虹色の残響晶を外套に隠し、私は街へと戻った。あの結晶に触れて以来、私の世界は微かに変容していた。道端の小さな残響晶の光が、以前よりも鮮やかに見える。すれ違う人々の顔に、今まで気づかなかった微細な感情の揺らぎが読み取れるような気がした。

街の中心にある広場では、「詠み手」たちがその力を披露していた。彼らは残響晶を手に、乾いた畑に雨を降らせ、傷ついた子供の痛みを和らげる。人々は彼らを「奇跡の使い手」と称賛した。しかし、今の私には、彼らの魔法が空虚なものに見えた。力を振るう詠み手の瞳の奥に、何かを失ったような、深い虚無の色が澱んでいるのが分かったからだ。追憶魔法。それは、結晶に込められた他人の記憶を解放する力。だが、強力な魔法ほど、術者自身の記憶をも代償として喰らうという。彼らは奇跡を起こすたびに、自分自身のかけらを失っているのだ。

孤児院の屋根裏部屋、それが私の唯一の安息の場所だった。そこには、私が赤ん坊の頃に身につけていたという、古びた革のペンダントだけが、私の過去との唯一の繋がりとして残されていた。虹色の結晶を懐から取り出すと、部屋は幻想的な光に満たされた。私はもう一度、それに触れる勇気がなかった。あの幸福な記憶の奔流に、再び飲み込まれるのが怖かった。

その夜、私は院長から古い木箱を手渡された。孤児院の倉庫の整理中に見つかった、私のためのものだという。中に入っていたのは、一冊の古びた手記だった。表紙には「エリアス」と、私の知らない名前が記されている。

ページをめくると、そこには震えるような文字で、この世界の真実が綴られていた。著者はエリアス、私の祖父であり、かつて最強と謳われた詠み手だった。手記には、数十年前、世界を襲った「大忘却」と呼ばれる災厄のことが記されていた。「虚ろなるもの」と呼ばれる、人々の記憶を喰らう存在が現れ、世界は歴史と文化、そして人々の絆を次々と失っていったという。

祖父は、その災厄を封じるための研究をしていた。『追憶魔法は、失われた記憶を消費するだけの不完全な力だ。真の魔法は、忘却に抗う力でなければならない。それは、新しい記憶を紡ぎ出す力…「創憶魔法」とでも呼ぶべきものだ』。

手記の最後のページに、こう書かれていた。『私は、最も大切なものを賭けて、最後の封印を試みる。我が最愛の孫娘、リナ。お前がいつかこの手記を読むとき、世界が再び忘却の危機に瀕しているのなら、思い出してほしい。お前の魂に刻まれた、陽だまりの唄を』。

陽だまりの唄。その言葉に、胸が締め付けられた。虹色の結晶に触れた時に聞こえた、あの優しい歌声のことだろうか。私の祖父が、世界を救うために何かをした? では、私の両親は? 私の記憶の空白は、その「大忘却」と関係があるのだろうか。

疑念が渦巻く中、突如として窓ガラスがけたたましい音を立てて砕け散った。黒装束の男たちが、音もなく部屋に侵入する。彼らの目は、私がテーブルの上に置いていた虹色の残響晶に、飢えた獣のように注がれていた。

「“原初の記憶”は我らが手にする。世界の再編は、我ら『忘却の徒』の悲願なり」

リーダー格の男が、感情のない声で告げた。彼らの目的は、この結晶を手に入れ、大忘却を引き起こした災厄の力を解放し、世界を混沌に還すこと。絶望的な状況の中、私は無意識に虹色の結晶を強く抱きしめていた。

第三章 忘却の代償

絶体絶命だった。黒装束の男たちの手には、禍々しい光を放つ黒い残響晶が握られていた。それは、憎しみや絶望といった負の記憶の結晶だ。彼らがそれを掲げると、部屋の空気が凍りつき、私の心に直接、冷たい恐怖が流れ込んでくる。

「抵抗はやめろ、小娘。その結晶はお前のような空っぽの器には過ぎたものだ」

男が嘲笑う。空っぽ。その言葉が、私の心の最も柔らかな部分を抉った。そうだ、私は空っぽだ。家族の記憶もなく、愛された温もりも知らない。しかし、だからこそ、あの虹色の記憶だけは手放したくなかった。たとえそれが偽物だとしても、私に初めて「幸福」という感情を教えてくれた光なのだ。

追い詰められた私は、男たちが魔法を放とうとした瞬間、咄嗟に虹色の残響晶を額に押し当てた。守ってほしい、と強く念じる。

そして、世界は再び光の奔流に飲み込まれた。

今度の記憶は、断片的ではなかった。それは一つの、長く、壮絶な物語だった。陽光の差す家。優しい父と母。そして、私を「陽だまり」と呼んでくれた、偉大な詠み手である祖父エリアス。「虚ろなるもの」が世界を覆い尽くそうとしたあの日。人々が次々と記憶を失い、世界が色を失っていく中で、祖父は最後の希望を、幼い私に託した。

『リナ、お前には誰よりも強い「創憶」の素質がある。だが、今のままでは災厄を封じることはできん。封印には、この世界で最も純粋で強大な、幸福な記憶のエネルギーが必要だ』

祖父は涙を流しながら、私を抱きしめた。『許せ。お前の未来から、我々との記憶を奪うことを』。

そう、全てを思い出した。あの虹色の残響晶は、他人の記憶などではなかった。それは、この私自身が、世界を救うために自ら切り離した、両親と祖父との幸福な記憶そのものだったのだ。「大忘却」を封じるため、私は幼い日に、自らの最も大切な宝物を代償として捧げた。その結果、力と記憶の全てを失い、ただの孤児として生きてきた。私が「空っぽ」だったのは、私自身がそう望んだからだった。

「…そうか…私が…」

真実の重みに、立っていられなかった。膝から崩れ落ちる私を、男たちは見下ろしている。

「思い出したか、封印の巫女よ。その結晶は、お前が封じた『虚ろなるもの』の楔そのもの。それを砕けば、我らの神は復活する!」

衝撃の事実に、思考が停止する。私が守ろうとしていたこの光は、同時に、世界を滅ぼす災厄を繋ぎ止めている枷でもあった。そして、私がこの光、すなわち過去の記憶を取り戻すことは、封印を解くことに繋がる。幸福だった過去を取り戻せば、今の世界が破滅する。なんという、残酷な選択。

私の内面的な葛藤が、結晶の輝きを不安定に揺らした。七色の光が激しく明滅し、男たちは好機とばかりに黒い魔法を放つ。もう駄目だ、と思った瞬間、私の心に声が響いた。それは、記憶の中の父の声でも母の声でも、祖父の声でもなかった。

それは、記憶を失ってから出会った、孤児院の仲間たちの声だった。いつもぶっきらぼうだけど、食事のパンを分けてくれる年長の少年。私の髪を編んでくれる、小さな少女。私の帰りを案じてくれる、院長の優しい顔。

私が失った過去は、確かに温かく、かけがえのないものだった。しかし、今の私がいるのは、空っぽになった私を支えてくれた、新しい絆のおかげだ。私が守るべきは、手の届かない過去の幻影ではない。今、この瞬間に息づいている、愛おしい人々だ。

第四章 新しい記憶の唄

覚悟は、決まった。

私は立ち上がり、虹色の残響晶を胸に抱いた。しかし、その力を吸収して過去の自分を取り戻そうとはしなかった。過去の記憶は、確かに私の一部だ。でも、それが今の私の全てではない。

「私は、もう空っぽじゃない」

静かに、しかし確かな意志を込めて告げる。黒装束の男たちが、怪訝な顔で私を見た。

「過去の記憶に頼らなくても、私には力がある。私がこれから紡いでいく、新しい記憶が、私の力になる!」

私は目を閉じて、詠った。それは祖父が手記に遺した「陽だまりの唄」ではなかった。孤児院の仲間たちと口ずさんだ、他愛もない唄。採掘場で仲間と声を合わせた、力強い労働歌。街で聞いた、賑やかな祭りの音楽。私が、記憶を失ってから得た、新しい思い出の数々。

すると、信じられないことが起きた。虹色の残響晶が、私の歌声に共鳴し、さらに輝きを増したのだ。しかし、その光は過去の記憶を再生する光ではなかった。それは、未来を創造する、温かく、力強い、全く新しい光だった。

私の手から、金色の光の粒子が溢れ出す。それは男たちの放つ黒い魔法に触れると、闇を浄化するように溶かしていった。これが、祖父が追い求めた「創憶魔法」。失われた記憶を消費するのではなく、今ある絆と、これから生まれる希望を力に変える魔法。

「馬鹿な…記憶を消費せずに、魔法を…!?」

男たちが狼狽する。私は彼らに向かって、金色の光をそっと差し伸べた。それは攻撃ではない。彼らの心に巣食う、憎しみや絶望の記憶を、優しく包み込む光だった。彼らがなぜ世界をリセットしたいと願うようになったのか、その根源にある悲しい記憶を、私は感じ取っていた。

光に触れた男たちの目から、黒い涙が流れ落ちる。それは浄化の涙だった。彼らの歪んだ記憶が癒され、忘却の呪縛から解き放たれていく。やがて彼らは、ただ静かにその場に膝をついた。

戦いは終わった。虹色の残響晶は、依然として私の手の中にある。しかし、もうそれに触れても、記憶の奔流が流れ込んでくることはなかった。それは、私が過去と決別したからではない。過去を、あるべき場所にそっと戻し、今の自分として生きることを選んだからだ。それはもう、私を過去に縛り付ける楔ではなく、私が守り抜いた世界の礎となったのだ。

数年後、私は採掘師を続けている。時折、詠み手として人々の手助けをすることもあるが、私の魔法は誰も傷つけないし、私自身をすり減らすこともない。私は、人々の心に新しい、温かな記憶の種を蒔く魔法を使う。

屋根裏部屋の窓辺に、あの虹色の残響晶を飾ってある。時折、それにそっと触れる。失われた両親や祖父の温もりは、もう記憶として蘇ることはない。けれど、確かな愛情に育まれたという事実が、揺るぎない誇りとして私の胸に息づいている。

失われた過去は、確かにあった。その痛みも、温もりも、今の私を形作っている。しかし、これから出会う人々との間に生まれる、新しい記憶の方が、もっとずっと大切で、輝かしい。

私は窓を開け、新しい朝の光を浴びる。遠くの街から聞こえる人々のざわめきが、これから始まる、新しい物語の唄のように聞こえた。

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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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