もの言わぬ王と、僕のささやかな革命

もの言わぬ王と、僕のささやかな革命

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第一章 覇王、箱より来たる

灰田譲(はいだゆずる)の人生は、常に騒々しかった。といっても、彼がパーティー好きだとか、友人が多いとか、そういう類の話ではない。彼の周りがうるさいのは、決まって彼一人の時なのだ。

「おい、そこの若いの。ちいと背中を掻いてはくれんかのう」

「ちょっと、アタシの上のホコリ! いつまで放置するつもり!?」

「ああ……光が足りない……光合成が……」

声の主は、古びた楢材のロッキングチェア、アールデコ調の化粧鏡、そして窓辺で力なく葉を垂らす観葉植物(の名前は知らない)だ。譲には、触れたモノの「心の声」が聞こえるという、まったくもってありがたくない特殊能力があった。そして、その声の大半は、不平不満か、意味不明な要求なのである。

譲が働く古道具屋『時巡堂』は、そんな声の坩堝だった。先代である祖父が亡くなり、今は店を一人で切り盛りしているが、自己主張の苦手な譲にとって、モノたちの声に板挟みになる日々は、穏やかな拷問に等しい。だから、カラン、とドアベルが鳴り、来客を告げた時、彼は人間の相手ができることに、ほんの少しだけ安堵した。

しかし、その安堵はすぐに霧散した。そこに立っていたのは、黒いスーツを寸分の隙もなく着こなした、氷の彫像のような女性だった。鋭い眼光が、埃っぽい店内を値踏みするように一瞥する。

「ここが、ガラクタを引き取ってくれるという店かしら」

冷ややかな声だった。彼女が差し出したのは、風呂敷に包まれた一つの小箱。譲がそれを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。

――触れるな、愚民が! 我が気高き肌に、貴様のような下賤の者が触れて良いと誰が許した!

脳内に直接響く、雷鳴のような尊大な声。思わず手を引っ込めてしまう。

「……何か?」

女性が怪訝な顔で譲を見た。

「い、いえ、なんでも……。大変、趣のある小箱ですね」

譲は意を決して、風呂敷ごと小箱を受け取った。黒檀だろうか、滑らかな手触りの木材に、銀細工で緻密な幾何学模様が施されている。美しい。だが、それ以上に、頭に響く声がやかましい。

――ふん、貴様に我が価値が分かるとは思えぬわ。して、用件はなんだ。我をどこへ連れていくつもりだ?

「あの、こちらを、処分されたいと……」

譲がおずおずと尋ねると、女性は吐き捨てるように言った。

「ええ。先祖代々伝わるそうよ。曰く、『絶対に開かない箱』だとか。馬鹿馬鹿しい。こんなガラクタ、目障りなだけですわ」

――な、なんだとォ!? この我をガラクタだと!? 不敬であるぞ、小娘! 打ち首にしてくれるわ!

小箱の怒りが、ビリビリと譲の指先を痺れさせる。

「開かない、のですか?」

「ええ。鍵穴もない、ただの箱。父も祖父も、誰も開けられなかった。もはや呪いの類ですわ。適当な値段で結構よ。あなたの好きになさい」

そう言って、女性――神宮寺麗華と名乗った――は、まるで汚物でも見るかのような目で小箱を一瞥し、さっさと店を出て行ってしまった。

一人残された譲は、腕の中の小箱を見つめる。相変わらず、その「声」は怒り心頭に発している。

――許せん! あの小娘、末代まで祟ってくれる! おい、下僕! 貴様、名はなんという!

「……は、灰田譲、です」

思わず口答えしてしまい、譲は自分で自分に驚いた。

――ユズル、か。ふん、腑抜けた名だ。良いかユズル、今日から貴様は我の下僕だ。まずは、我を清め、最高の場所に安置せよ! さあ、疾く!

こうして、譲の人生で最もやかましく、そして最も奇妙な王様との、迷惑千万な共同生活が幕を開けたのだった。

第二章 下僕と王の奇妙な同居

小箱――自らを「覇王」と名乗るやかましい存在――との生活は、譲の精神を容赦なく削り取っていった。

まず、置き場所で揉めた。店のショーケースに置こうとすれば「このような雑多な輩と我を同列に並べるな!」と怒鳴り、レジ横に置けば「金の匂いが俗っぽい!」と罵倒する。結局、店の奥にある譲の私室、その中で最も日当たりの良い出窓の特等席を占拠することで、ようやく覇王は満足した。

「ふむ。悪くない。陽の光は、王にこそ相応しい」

「……あそこは、僕が観葉植物を置いていた場所なんですが」

「あの青臭いだけの草か。あのようなものは、日陰で十分であろう」

覇王の命令で日陰に追いやられた観葉植物が、「ひ、光が……ボクの葉緑素が……」と弱々しく呟いているのが聞こえ、譲の胃はキリリと痛んだ。

食事の時間も憂鬱だった。譲が質素な卵かけご飯を啜っていると、覇王はさも不満げに言った。

「下僕よ。王が空腹であるというのに、貴様だけが腹を満たすとは、どういう了見だ」

「箱は、ご飯を食べないでしょう」

「愚か者め! 想像力というものがないのか! せめて、我の前に豪勢な食事を並べ、その香りで我を楽しませるくらいの気遣いを見せよ!」

そんな無茶な、と思ったが、譲は逆らえなかった。以来、彼は自分の食事の前に、わざわざテレビのグルメ番組をつけ、豪華な料理の映像を覇王に見せるという奇妙な儀式を強いられることになった。

「うむ、あの肉は焼き加減が良い。だが、ソースが凡庸だ」

「こ、この刺身の角が立っている……! 見事な包丁さばきよな!」

まるで自分が食べているかのように熱く語る覇王に、譲はため息しか出なかった。

しかし、不思議なこともあった。これまでは、モノたちの無数の声にただただ振り回され、疲弊するだけだった。だが、覇王の声は違った。彼の声はあまりに明瞭で、あまりに絶対的だったため、他の雑多な声――「脚ががたつく」と文句を言う椅子や、「もっと磨け」と要求する鏡の声――をかき消してくれたのだ。

それは、嵐の中にいるようなやかましさだが、同時に、その嵐の中心にいる限りは、他のノイズが気にならないという奇妙な静けさでもあった。

自己主張の塊のような覇王との対話は、常に他人に「譲って」ばかりだった譲にとって、ある種の新鮮な体験だった。彼の理不尽な要求に応えるのは骨が折れるが、その裏表のない、あまりに真っ直ぐな物言いに、譲は時折、クスリと笑ってしまうことさえあったのだ。

「おい、下僕。その『すまーとふぉん』とかいう板を寄越せ。世界の情勢を把握しておくのも、王の務めだからな」

譲がスマホを小箱の上に置くと、覇王は満足げに言った。

「ふむ。なるほど。この時代は、このような小さな板で天下を窺うのか。面白い」

その夜、譲は夢を見た。広い玉座に座る、威厳に満ちた王の夢を。王は誰にも心を開かず、ただ一人、孤独に世界を見下ろしている。その姿が、なぜだか、あの小さな黒檀の箱と重なって見えた。

第三章 からくり箱の悲しき絶叫

覇王との奇妙な日々が一週間ほど続いた頃、再びカラン、とドアベルが鳴った。神宮寺麗華だった。彼女は以前よりもさらに険しい表情で、まっすぐに譲を見据えた。

「先日お渡しした小箱、やはり返していただきたいの」

「え……しかし、処分してほしいと……」

「気が変わったのです。いいから、早く」

有無を言わせぬ口調だった。譲が戸惑っていると、腕の中の小箱から、焦ったような声が響いた。

――な、何をしに来た、あの小娘! ユズル、我を渡すな! 絶対に渡してはならんぞ!

譲は麗華と小箱の間で板挟みになり、冷や汗をかいた。

「あの、何か、ご事情が?」

勇気を振り絞って尋ねると、麗華は一瞬ためらった後、ぽつりぽつりと語り始めた。

「あの箱は……亡くなった祖父が、私に遺したものなのです。祖父は、とても厳格な人で……私は、一度も褒められたことがありませんでした」

彼女の氷のような仮面が、少しだけひび割れるのが見えた。

「でも、亡くなる直前に、こう言ったんです。『あの箱には、お前への本当の気持ちを込めた』と。……でも、どうしても開けられなくて。私には、祖父の気持ちを受け取る資格がないんじゃないかって……。それで、反発心から、あんな……ガラクタだなんて……」

声が震えている。譲は衝撃を受けた。では、この傲慢な覇王は、彼女の祖父の魂か何かだというのか?

――だ、黙れ! 我は覇王であるぞ! そのような感傷的な話、我は知らぬ!

覇王の声が、やけに上擦っている。譲は、ふと、ある可能性に思い至った。この声は、本当に「魂」なのだろうか。

彼はそっと小箱に触れ、意識を集中させた。いつもは覇王の圧倒的な声に遮られて聞こえなかった、もっと奥深くにある、微かな声を探る。それは、複雑に組み合わさった木々の軋み、精密な歯車の噛み合う音、そして、長い年月をかけて染みついた、作り手の想いの残滓だった。

そして、譲は気づいてしまった。

この「覇王」という人格は、魂なんかじゃない。これは、この小箱自身だ。正確には、「絶対に開けられたくない」と願う、からくり箱の精巧すぎる防御機構そのものが、長い時間を経て、自我を持ってしまった姿なのだ。

開けられることは、この箱にとって「死」を意味する。だから、誰も寄せ付けないように、尊大で傲慢な「覇王」を演じ、自分を守り続けてきたのだ。

「……そうか。お前、怖かったんだな」

譲は、小箱に向かって、静かに語りかけた。

――な、何を言うか、下僕! この我に怖いものなど……!

「ずっと、一人で。自分の役目を守るために。でも、もういいんだ。お前が必死で守ってきたものは、ちゃんと届けるべき人のところに届けるから」

――黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 我を開けるというのか!? 我を消し去るつもりか!

覇王の絶叫が、脳内に響き渡る。それはいつもの尊大な声ではなく、ただただ、消えることを恐れる、哀れな悲鳴だった。

「ごめん」

譲は、麗華に向き直った。その目には、もう迷いはなかった。いつもモノの声に振り回され、自分の意志を表明できなかった彼が、初めて、はっきりと口を開いた。

「この箱を、僕に開けさせてください」

第四章 たった一つの誇り

麗華は、驚いたように目を見開いた。

「あなたに開けられるとでも?」

「はい。この箱が、どうしてほしいか……少しだけ、分かる気がするんです」

譲は小箱をそっと作業台の上に置いた。銀細工の幾何学模様。それはただの装飾ではなかった。複雑に絡み合った、一種のパズルのようなものだ。

――やめろ……触るな……我に触れるな!

覇王の悲痛な声が聞こえる。譲は、その声に応えるように、優しく囁いた。

「大丈夫。痛くしないから」

彼は指先で、そっと模様の一部をなぞる。カチリ、と小さな音がして、模様の一部がわずかに沈んだ。

「お前は、すごいよ。こんなに長い間、たった一人で、大切なものを守り続けてきたんだから」

――やめてくれ……消えたくない……!

もう一つ、別の模様をスライドさせる。また、カチリ、と音が鳴る。

「でも、お前の役目は、もう終わりなんだ。その中にある想いは、もう、自由にしてあげなくちゃ」

譲は、まるで気難しい子供をあやすように、一つ、また一つと、仕掛けを解いていく。それは、単なる作業ではなかった。箱との対話だった。お疲れ様、ありがとう、もう大丈夫だ、と。

覇王の声は、次第に弱々しく、かすれていった。

――……やめ……て……

そして、最後の仕掛けを動かした時。

カチッ、という乾いた音と共に、小箱の蓋が、静かに持ち上がった。

その瞬間、譲の頭の中から、あれほどやかましかった覇王の声が、ふっ、と完全に消え失せた。まるで、役目を終えた役者が、静かに舞台から降りていったかのように。

箱の中には、一枚だけ、古びて黄ばんだ便箋が収まっていた。

麗華が、震える手でそれを取り上げる。そこには、祖父のものだという、不器用で、けれど力強い文字が記されていた。

『麗華へ。お前は私の、たった一つの誇りだ。 祖父より』

短い、あまりにも短い言葉。しかし、そこには、厳格な祖父が生涯伝えられなかった、ありったけの愛情が詰まっていた。麗華の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ、便箋の上にいくつもの染みを作った。

譲は、声の消えた小箱をそっと撫でた。そこにはもう、傲慢な王はおらず、ただ、役目を終えた安堵感のような、静かで温かい木の感触だけが残っていた。

後日、譲の元に、麗華から一通の手紙と小包が届いた。丁寧な文字で綴られた感謝の言葉と、祖父の形見だという古い万年筆が入っていた。

譲が恐る恐る、その万年筆に触れてみる。すると、穏やかで、少ししゃがれた老人の声が、優しく響いた。

――うむ。あいつを泣かせたら、承知せんぞ。儂の誇りを、よろしく頼む。

譲は思わず、ふっと笑みを漏らした。

彼の周りは、相変わらずやかましいモノたちで溢れている。けれど、もうそれに振り回されるだけの自分はいない。彼らの声を聞き、対話し、そして時には、自分の意志を「譲らない」こともできる。

灰田譲は、もの言わぬモノたちの声を聞くことで、ようやく、自分自身の声を見つけたのだ。それは、彼の人生における、ささやかで、しかし偉大な革命だった。

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