影の輪郭、僕の夜明け

影の輪郭、僕の夜明け

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第一章 薄暮の狩人

街が黄昏のインクに染まる頃、カイの仕事は始まる。彼は影狩人(シャドウハンター)。陽光の下で人の足元に忠実に従う影とは違う、主を失い、この世を彷徨う「はぐれ影」を狩る者だ。はぐれ影は、生前の記憶の断片に引きずられ、時に人々に害をなす。だから狩らねばならない。それが、カイがこの世に存在する唯一の理由だった。

彼の得物は、月長石を埋め込んだ銀の杭。それを突き立てられた影は、悲鳴もあげずに霧散し、二度と現れることはない。カイの心は、その霧散する影のように、何も感じなかった。喜びも、悲しみも、達成感すらも。ただ、空虚な義務感だけが、彼の四肢を動かしていた。

その夜、カイは古い教会の墓地で、ひときわ濃い影の気配を捉えた。それは主を失って間もない、強い情念を宿した影のはずだった。身を隠し、息を殺して目標に近づく。月明かりに照らされた墓石の間に、それはいた。ゆらり、ゆらりと揺れる、少女の形をした影。ここまでは、いつもと同じだ。

カイは無音で駆け寄り、銀の杭を振り上げた。影の心臓部、かつてそこにあったであろう場所に、杭を突き立てる。その、はずだった。

「待って」

か細いが、凛とした声が響いた。カイの腕が、ぴたりと止まる。声? 影は声を発しない。呻きや嘆きに似た音を漏らすことはあっても、明確な言葉を紡ぐことなどありえない。カイは混乱し、目の前の影を凝視した。

少女の影が、ゆっくりとこちらを振り返る。その輪郭は他の影よりもずっと鮮明で、まるで墨で描かれた肖像画のようだった。影には顔の凹凸などないはずなのに、その影は、悲しげに微笑んでいるように見えた。

「あなたに会いに来たの。カイ」

カイは息を呑んだ。なぜ、影が自分の名を。彼の名は、ギルドの人間しか知らないはずだ。

「誰だ、お前は」

「私はリリ。あなたは、私を知らないかもしれない。でも、私はずっとあなたを知っていたわ」

リリと名乗る影は、恐怖も敵意も見せなかった。ただ、その静かな瞳(あるはずのない瞳)で、カイをじっと見つめている。その視線は、カイの心の奥底にある、固く閉ざした扉を無理やりこじ開けようとするかのようだった。カイは杭を握りしめたまま、動けなくなった。彼の完璧だった日常に、初めて予測不能な亀裂が入った瞬間だった。

第二章 語る影、揺らぐ心

カイはリリを狩ることができなかった。それは彼の信条に反する、初めての「例外」だった。彼はリリを街外れの廃墟に連れ帰り、監視下に置くことにした。理由を問われれば、危険な変異種の研究のため、とでも答えるつもりだった。だが本当は、彼自身が答えを求めていた。この影は何者なのか。なぜ自分の名を知っているのか。

「影はね、ただの残り滓じゃないの」

廃墟の窓から差し込む月光を浴びながら、リリは語り始めた。彼女の影の体は、光を浴びると輪郭が少しだけ薄くなり、まるで水彩絵の具が滲むように見えた。

「私たちは、本体が見たもの、感じたこと、愛したことのすべてを記憶している。本体が死んだ後、私たちはその記憶のこだまを抱いて、静かに生き続けるの。ほとんどの影は、強い感情の記憶に縛られて、同じ場所を彷徨うだけ。でも、稀に、私たちのように自我を保つ影もいる」

カイは黙って聞いていた。ギルドで教わったこととは、何もかもが違っていた。影は危険なゴースト、過去の亡霊。浄化すべき対象。それだけのはずだった。

「あなた、時々、悲しい顔をするでしょう」とリリが言った。「暖かい陽だまりの中で、お母さんが編んでくれた毛布にくるまって、でもなぜか涙がこぼれそうになる。そんな感覚、ない?」

カイは瞠目した。それは、彼だけが知る、時折ふと訪れる感覚だった。理由のわからない郷愁と、胸を締め付けるような切なさ。誰にも話したことのない、心の深淵に沈めたはずの感情の断片。

「なぜ、それを…」

「だって、それは私の記憶の一部でもあるから」

リリは、カイの幼馴染だった少女の影なのだと告げた。カイが忘れてしまった、遠い昔の記憶。病弱だった彼女は、カイよりも先にこの世を去ったのだという。

「でも、おかしい。俺には、そんな幼馴染の記憶はない」カイは首を振った。「俺の過去には、何もない。物心ついた時から、俺は影狩人として育てられた。それだけだ」

「それは『あなた』の記憶じゃないからよ」

リリの言葉は、まるで難解な謎かけのようだった。カイの混乱は深まるばかりだった。だが同時に、彼女と話していると、空っぽだったはずの心に、何かが満ちていくような不思議な感覚があった。冷え切っていた魂に、微かな温もりが灯るようだった。彼が信じてきた世界が、足元から静かに、しかし確実に崩れ始めていた。

第三章 影溜まりの真実

「真実を知りたければ、ついてきて。私たちの街、『影溜まり(シャドウ・プール)』へ」

リリに導かれるまま、カイは街の最も古い地区の地下深くへと足を踏み入れた。そこには、地上とは全く異なる法則で動く世界が広がっていた。光はなく、音もない。しかし、無数の影たちが、それぞれの形を保ちながら、穏やかに存在していた。ある影は壁にもたれて読書をするような仕草をし、またある影の集団は、楽しげに踊っているように見えた。生前の記憶の反復。だが、そこにはカイが知る「はぐれ影」のような狂気や執着は感じられなかった。ただ、静かな追憶の時間が流れているだけだった。

「ここは、安息の場所。記憶の図書館なの」リリが囁いた。

カイは言葉を失い、その光景に見入っていた。自分が今まで狩ってきた存在は、一体何だったのか。罪悪感に似た感情が、初めて彼の胸を刺した。

リリはカイを都市の最深部へと案内した。そこには、ひときわ大きく、威厳のある屋敷の影がそびえ立っていた。屋敷の中央、古びた椅子に腰かけている、一つの影があった。それは、カイがこれまで見たどの影よりも濃く、強い存在感を放っていた。

「お待ちしておりました」

その影が口を開いた時、カイは全身の血が凍るのを感じた。それは、紛れもなく自分の声だった。いや、もっと年老いた、深みのある声だ。

影がゆっくりと立ち上がる。その姿は、紛れもなく、年老いたカイ自身のものだった。しかし、そんなはずはない。カイはまだ若い。

「お前は…誰だ」カイは震える声で尋ねた。

「私は、君だよ。君の『本体』だ」

その瞬間、カイの頭の中に、封じられていた記憶の濁流が流れ込んできた。

カイは、人間ではなかった。

彼は、幼い頃に病で死んだ「カイ」という名の少年の**影**だったのだ。

彼の本体――目の前の老人は、最愛の息子カイを失った悲しみと絶望から、狂気の研究に没頭した。死者の影をこの世に繋ぎ止め、意思を持たせる禁断の魔術。彼は息子の影を「蘇らせ」、自分の手で育て上げた。しかし、不完全な蘇生は、影であるカイに多くの記憶の欠落と、存在の不確かさをもたらした。

老人は、息子を失った世界のすべてを憎んだ。彼は、他の「はぐれ影」たちを、息子の命を奪った不条理の象徴とみなし、それらを狩ることこそが正しいのだと、影のカイに教え込んだ。影であるカイに、同族である影を狩らせることで、老人は歪んだ慰めを得ていたのだ。影狩人カイは、父親の悲しみが作り出した、哀れな道具に過ぎなかった。

「なぜ…」カイは膝から崩れ落ちた。自分の存在、信じてきた正義、その全てが、一人の男の歪んだ愛情と執着によって作られた偽りだった。

「すまなかった」老人の影が、苦痛に歪んだ。「お前を愛するがゆえに、私はお前を、そして多くの同胞を苦しめてしまった。もう、終わりにしよう」

老人の影の輪郭が、足元からゆっくりと薄れ始めた。自らの存在を維持していた魔術を、彼自身の意思で解こうとしているのだ。それは、影にとっての完全な「死」を意味した。

「父さん…!」

カイは、生まれて初めて、その言葉を口にした。

第四章 夜明けの輪郭

本体である老人の影が完全に消え去った時、カイを縛っていた見えない鎖もまた、断ち切られた。父の強い情念から解放された彼は、初めて完全な「個」としての自分を感じていた。虚無感ではない。広大な自由と、それと同じだけの途方もない孤独。

リリが、そっと彼の影の手に、自分の影の手を重ねた。その感触は冷たいはずなのに、不思議と温かかった。

「あなたはもう、誰かの悲しみの道具じゃない」リリは言った。「あなたは、カイ。ただの、カイよ」

カイは、自分の手のひらを見つめた。それは黒い影のままだったが、今は確かに自分のものだと感じられた。父の記憶も、幼い頃の自分の記憶も、断片的に残っている。だが、それはもはや彼の全てではなかった。過去は過去として、彼の輪郭を形作る一部でしかない。

二人は影溜まりを後にし、地上へと戻った。東の空が、白み始めている。夜明けだ。

カイは、生まれて初めて、自分の意思で朝日を浴びた。陽光に照らされた彼の影は、地面に長く伸びる。しかし、以前のように足元に縛り付けられている感覚はなかった。彼は影でありながら、光の中に立つことを許されたのだ。

彼はもう、影を狩らない。では、これからどう生きるのか。答えはまだない。だが、隣にはリリがいる。同じように過去の記憶を抱えながら、未来を見つめようとする仲間が。

「行こうか」カイは言った。それは、誰の命令でもない、彼自身の言葉だった。

「ええ」リリは微笑んで頷いた。

二つの影は、夜明けの光の中を、並んで歩き始めた。彼らがどこへ向かうのか、誰も知らない。しかし、その一歩一歩が、彼ら自身の物語を新たに紡いでいく。失われた者たちの記憶を抱きしめながら、影として、しかし何者でもない一人の存在として。カイの本当の人生は、この夜明けと共に、ようやく始まろうとしていた。

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